Episode04:透明な足跡
第18話 透明な足跡-01
暖かい子供部屋が、屋敷には二つある。
姉の部屋はあらかじめ作られた空間で、小さな窓とベッドと暖炉と、必要なものがあるべき場所に配置され、全てが収まりよく整っていた。
良く出来たドールハウスのような、計算高い間取りと調度品たち。
それに比べて弟の部屋は、無理やり嵌めたパズルのピースのように落ち着きなく家具が並んでいる。さまざまな雑多な遊び道具。留守番ばかりの弟が楽しむためのあれやこれ。無作為に選ばれた品物を気に入るときもあれば、なんとなく気が向かずに真新しいまま放っておくこともある。
落ち着かない部屋を出て、弟はよく姉の部屋を覗き込んだ。
完璧な子供部屋にはいつも肝心の子供だけが不在だ。
普段から姉は部屋を空けている。せっかくの部屋が弟へ繰り下がることは決してなかった。弟は部屋に入るでもなく、ただ『ドアを開けたら、もしかしたら姉が居るかもしれない』と淡い期待を抱いて、中を覗き込むのだ。
家主不在の姉のベッド、枕の傍らにひとつだけ、忘れ物みたいにその箱が納まっている。たまに姉が帰ってくると、ベッドにうつぶせになって、腕を枕にして箱を眺めていた。
――今日は、姉が帰ってくる。
その日のはずだ。
それが本当だと確かめるために、彼はそっとドアを叩いた。
招く声が聞こえても、彼はまだ油断しない。
ドアを開けるまで、現実に聞こえた声か、期待のあまり聞こえた幻か分からないのだから。でも、やがて姉からドアを開いて中へ招いてくれる。
「おいで、アレックス」
時々の再会に、弟はいつも遠慮がちになる。
家族だというのに、特別なときにしか会えない人。
姉のことを尊く思うと同時に遠くに感じている。
部屋は最後のピースを補って、ようやく完成した形で佇んでいた。
最後のピース、姉は柔らかな夜着を翻して弟をベッドまで招いた。
「お姉ちゃん。何見てるの?」
尋ねるまでもなく知っている。
でも、それを会話の糸口にするため、弟は問いかけた。
「ほら、見てて……」
姉がそっと抱えた箱の蓋を開く。
軽妙な音楽が鳴り出し、箱の中で人形が踊っている。
横長の箱の中央にちいさなステージがはめ込まれていた。
小さな人形が二体、互い違いにくるくると踊る。
白いチュチュの、ピンクのリボンの、小さなバレリーナだ。
胸にきれいな宝石をはめこんでいて、舞うたびにキラキラと輝いた。
「何の曲なの?」
「何だろうね。バレエの曲かな」
曖昧な答えだ。
曲名は分からずとも、どことなく明るい、楽しい調子の曲だとは分かった。
弟はくるくる回り舞い踊る人形を不思議そうに眺めている。
どういう仕組みで動くのだろう、と注意深く観察する。
姉は音楽に耳を傾け、傍らの弟に微笑みを向けている。
弟は箱の本体に興味を示して手を伸ばす。
蓋を閉じると音楽が止み、開くと流れ出す。それが不思議でたまらない。
誰も見ていない間、人形たちは箱の中で一体どうしているのだろう?
ひょっとしてずっと踊っているのではないか。
些細な疑いを抱いて、苦労して中身を覗こうとした。
薄く開いた隙間から覗き込んだり、さかさまにしてみたり、見てないふりをしながら盗み見てみたり。その大変な苦労を、姉は微笑ましく見守っている。
「気になる?」
「見てみたい。僕が見ていないあいだ、どんなことをしているんだろう」
「何もしていないかもしれないよ」
「でも、確かめるまでは分からない」
子供じみた頑固さを姉は笑って、気の済むまで触らせている。
弟がいじくるたびに、音が鳴ったり止んだり、落ち着かないメロディが響く。
「アレックス。あなたが見ていない間に起きていることを、あなたが見ることは絶対にできないよ」
「でも、こっそり、気づかれないように見れば良い」
言い切ることで不安を追い出して、弟は余計に箱に執着した。
姉の言葉が意地悪に聞こえて、どうしたって中を確かめてやるつもりでいた。
だけど、オルゴールつきの箱は、開ければすぐに音が鳴る。
音が鳴れば、誰かが覗き込んだ合図になるから、こっそり見るのはとても難しい。
むきになって、でもどうしても無理で、そのうち飽きたふりをして放り出した。
それでもしばらくの間、弟は箱と向き合っていた。
度が過ぎてオルゴールを箱から外してしまって、二度と元通りにならなかった。
バレリーナたちは音楽がなくてもずっと踊り続けていた。
それが、弟には理不尽に思えて、箱のことを嫌いになった。
壊したことを隠しておきたくて、自分のベッドの下に押し込んだ。
姉には気づかれなかったけど、もしかしたら知っていてずっと知らん振りをしていたのかもしれない。だけど、それを確かめる術は、いまはどこにもなかった。
*
いつ降り出しても不思議はない雪雲を背負って、古びた駅舎がひとつ、丁度列車が着いてまばらに人を吐き出した。人の流れは駅舎を出て、ふいに二手に割れていく。それは障害物を避ける動きだった。
「お願いします。お姉ちゃんを探してください。いなくなっちゃったんです」
呼びかける声の主を、アレックスは視界にも入れずに通り過ぎようとした。
連れ合いの
「お願いします。探してるんです。お姉ちゃん、急に居なくなっちゃったんです。ずっと、帰って来ないんです」
彼女が避けられている障害物だ。
小さな女の子だった。
へたくそな似顔絵が載った、手書きのビラを配っている。
今にも泣きそうに眉を寄せて、アレックスにもビラを差し出す。
少年は言葉もなく拒絶して、旅の連れを呼んだ。
「フラン。来るんだ」
「はい、アレックス」
無機質な響きを聞いて踵を返す。
背後にまだ声が聞こえても歩みを緩めはしなかった。
子供の感覚で言う『ずっと』が朝から晩までの可能性は大いにある。
ただの外泊か、家出だとしてもそう大げさなものではないはずだ。
子供が一人だけ大事にとって盛り上がっているだけの、ごっこ遊びのようなものだと捉えてあしらった。
駅舎へ入ってからも女の子の声は悲痛に響いている。
耳に刺さる声を振り切って、アレックスは予定の列車に乗り込んだ。
昼過ぎ、混雑のピークは過ぎて客入りのまばらな車輌で、通り過ぎていく駅舎から視線を剥がして、目的地での段取りを再確認する。
――それから時間が経って、同じ駅へ戻ったアレックスは彼女と再会した。
「お願いします。お姉ちゃんを探してます。どこかで見かけませんでしたか。どうかお願いします」
寒さに震えた声を上げても、舌足らずな言葉は雑踏にまぎれてしまう。
夕刻、もう空は鈍い雲に覆われて暗く、頬が凍りそうな風には雪が混ざっていた。
女の子はまだ足を踏ん張って立って、道行く人に紙片を差し出していた。
「お願いします――あっ」
二度目の邂逅に気づいて彼女はアレックスを見つめる。
一度は拒絶を示した彼へ、しかし、懲りずにビラを差し出した。
「探しているの。お姉ちゃん、迷子になってるかもしれないから。急に、居なくなっちゃって、心配しているの。お願い、どこかで見たら教えてください」
彼女はアレックスよりも背が低い。
垂れつきの毛糸の帽子に雪が掛かっている。
しもやけに鼻を赤く染め、潤む瞳でまっすぐ相手を見つめた。
スエードの革靴は湿った土のせいで濡れ、充分な防寒装備も長時間の外出には耐えかねている様子だった。斜めにかけた鞄は蓋が開いていて、尋ね人の特徴を記したビラのコピーがまだ入っている。
彼女はすん、と鼻をすすって歯を噛み締めた。
受け取る姿勢にならないアレックスへ改めてビラを押し付け、頭を下げる。
「お願いします!」
「分かった。半分、僕が預かる。東口で配ろう。手分けしたほうが効率的だ」
「え……、あの」
予想外の反応に戸惑いながらも、たちまち少女は表情を華やがせた。
「手伝うよ。迷惑じゃなければ」
「あっ! ありがとう! あの、わたし、ニネット! お姉ちゃんは、エドリスっていうの……。エドリス・バッセル」
「エドリスを探しているんだね。あとはこれを見て適当に呼びかけてみるよ。解決までは付き合えないと思うけど、よろしく」
「うん! ありがとう! ありがとう」
彼女から紙の束の半分を受け取って、アレックスは東口へ向かった。
柄にもない、と思う。
でも、こんな局面に遭遇することが人生で何度訪れるだろう。
考えてみれば、多分これが一回目だ。
だから、柄にもないと決め付けるのは思い込みだ。
アレックスは通路を抜ける間に一度紙面に目を通す。
そうして、通行人に呼びかける文言を組み立てて、また寒空の下へ出た。
アレックスも行方をくらませた肉親を探して方々を行き来している。
先ほど、手がかりをひとつ潰したところだ。
結局彼らの痕跡は見つけられず、あるのは空虚な工場の脱殻だけだった。
大きな期待をかけていなかったとは言え、気落ちはする。
いや、今まで大きな期待をかけなかったことなど一度もない。
本音を言うと、落胆は大きかった。
このまま宿に帰って寝たい。つい先刻まではそう思っていたはずなのに。
アレックスは子供じみた考えにとらわれていた。
手がかりを潰してしまったのは、僕の行いのせいじゃないだろうか。
そんなはずはないのに、あのときニネットへ親身に接していれば、工場でも何か手がかりをつかめたかもしれない――そう考えてしまう。
勿論そこに因果関係など存在しない。
彼はありもしない罪滅ぼしの気持ちで、少女を手伝うと決めた。
「エドリス・バッセル……十七歳」
再度確認のため紙面に視線を落とす。
ニネットの言う『姉』を自分より年下だと勝手に想定していたから、その年齢が意外だった。
写真はなく、特徴だけを書き連ねている。
どんな髪型でどんな服を着ているか。
連絡先と、あてにならない人相書きが記されていた。
「この番号」
傍らの少女に紙片を手渡す。彼女は紙面に視線を落とした。
ぴかっ――一度、瞳が赤く明滅する。
字を読み込んで、彼女は紙面上の情報を一度声に出した。
連絡先の電話番号だ。
「端末の発信履歴に二件、該当の番号があります。ダイヤルしますか?」
「いや、結構」
見覚えのある番号だと思った通り、おそらく昨日から利用しているホテルの番号だろう。名前はなんと言ったか。
東口へ出て立ち止まると、後ろを歩いていた男性にすれ違いざまに迷惑そうな顔をされた。邪魔にならない位置を探すと、ビラを配るためには不都合な場所しかない。結局、他人の迷惑を顧みず雑踏の中で仕事を始めることにした。
始めることにしたのだが、なかなか腕が動かない。声を出して、呼びかけて、受け取ってもらわなければ手伝いを申し出た意義はない。
一息、大きく吸い込んだ。肺を冷やす空気が胸に痛いほどだ。
「お――お願いします」
一言目、思ったより小さな声が喉を漏れ出て、もう一度、腹に力を入れる。
「お願いします」
ようやく、人の気をひくほどの声が出て、幾人かの目がこちらを向いた。
あとはもう勢い任せに、人探しの旨と、探し人の名前を唱える。
「人を、探しています。エドリス・バッセル、……ホテル・カミーノの娘です。見かけた方は、情報を。些細なことでも構いませんから」
それだけを喋ることが思った以上に大変だった。
だけど言い切ってしまえば勢いがついて、何度も繰り返し同じ口上を述べた。
ビラを配り終えるまでに一時間もかからない。
親密そうに声をかけてくれる大人もいた。
受け取った紙片をそのまま棄てる者も、気遣わしげにしまってくれる姿も見た。
「詳しいことは、西口のニネットに訪ねてください」
協力的な大人の態度を頼もしいと思った。
お愛想だけで通り過ぎて行くのだとしても責められはしない。
代償行為で付き合っただけなのに、いつしか本気で願っていた。
早くエドリスが帰ってきてくれればいいと、顔も知らないのに祈った。
手持ちがなくなり、棄てられた紙片を拾い集める。
濡れてインクが滲んで、もう使い物にはならない。
ゴミ箱に棄てて、手袋についた水気を払う。
ふいに視線を感じて振り返った。
付き従う自動人形の肩越しに、不審の篭もった視線を受けた。
誰とも分からず、すぐに通り過ぎていく。
それは男性からも女性からも受ける拒絶的な眼差しだった。
「……何だ?」
注意深く人通りを観察して、違和感の正体に気付く。
この町には自動人形がいない。
厳しい寒さに見舞われる町で着膨れるほどに着込む人が多い中、自動人形は目立ちやすい。
大抵の場合、防寒の必要などないから、見た目や費用を優先した格好になる。
アレックスが分厚い外套に手袋、不本意ながら帽子まで被っている装備に対して、フランは首筋も素手もむき出しの、いつもと変わらぬベルベットのワンピースだ。
確かに傍目には寒そうに見える。
が、本人はこの気温を少しも苦に思っていないような平然とした顔をしていた。誰も彼も、充分に着こんでも尚染みる風の鋭さに顔をしかめ、肩を竦めて歩いていく。
寒がる彼らは自動人形ではない。
震えた身体を自らの腕で抱いて、アレックスは駅舎の時計を見上げた。
そろそろ日も落ちる。
切り上げ時だろう。
「お兄ちゃん!」
ちょうど、背中に甲高い声が聞こえた。
それがまさか自分のこととは思えなかった。
「ニネット」
振り返ったそこに少女が立っている。
「ありがとう、お兄ちゃん。おうち帰らなきゃの時間だよね? もういいよ」
「僕もそう言いに行こうと思ってた。家まで送るよ、ニネット」
「いいの?」
頷いて、ふと気づいて手を差し出した。
ニネットは無邪気にその手を取って歩き出す。
お互い手袋越しに重なる手が冷え切っていた。
「ちょうど同じ方角なんだ」
「本当! どこに住んでいるの?」
「住んでる場所は、もっと遠く。町の外から来て、昨日から泊まってる」
「あ……もしかしてそれって!」
ニネットが明るくはにかんだ。
「でもどうして分かったの? わたしのうちがホテルって」
「紙に書いてあったから、すぐに分かったよ」
「えへへっ、そっか。そっか~、お兄ちゃん、うちに泊まってるんだ」
「そう。アレックスだ。こっちはフラン」
付き添い歩く少女を見上げる、ニネットの瞳がふと曇る。
己の姉を重ねているのか、寂しげに唇を噛んだ。
「アレックスのお姉ちゃん?」
「違うよ。自動人形だ」
「えっ、自動人形!? ほんと?」
「ほんとだよ。証拠を出すのは難しいけど」
ニネットが立ち止まってまでフランを見上げる。
つま先で立って間近で見ようと首を伸ばした。
道の脇に寄って、フランへ腰を落とすように促す。
本当はもっと自分が大きければ、ニネットを抱き上げられたのにとアレックスは残念に思う。ニネットとの身長差はせいぜい拳ふたつ分だ。
「そっくりだねぇ」
目線を合わせた自動人形を遠慮なく観察して感嘆を漏らす。
人間に、あるいはアレックスにだろうか。
ニネットの評価が示すところを想像して少年は苦く思う。
「触っても良い?」
「良いけど、ニネットが触られたら痛いような場所はだめだよ。壊れやすいから」
「うん」
言っているそばから、ニネットはおもむろに人差し指を作り物の眼球へ近づけた。
ある程度の距離で接近はぴたりと止まる。
内心驚いたアレックスは、ひそかに安堵した。
間近に迫った物体をとらえて、自動人形の瞳のセンサーが反応する。
ニネットの指先が一瞬、赤い光に照らされた。
「ほんとうだ。自動人形なんだね」
今度はそうっと、優しく頬に触れて撫でる。
触れられたフランは瞬きひとつも反応を示さない。
「確かめたの?」
「うん。あのね、パパがね、お客さんに時々いるから、こうやって確かめてるの。人だとね、どうしてもびっくりしてびくってしちゃうんだけど、本当の自動人形ならへいきだから」
「それって」
宿泊費詐欺の被害に遭ったのだろうか。
個人経営のホテルなら狙われやすいかもしれない。
自動人形はサービスの対象ではないため宿賃を回収できないのだ。
大抵の場合は今のようにセンサーの反応を示せば相手を納得させられる。
「こんなにきれいで、自動人形なの? わたし、こんなの、はじめて見たよ」
ニネットの褒め言葉が自動人形としての出来を指しているのか、見目についての感想なのか判別がつかなかった。
アレックスはどちらにせよ、居心地の悪い気持ちで受け止める。
「あんまり立ち話してると風邪ひくよ。ニネット、ずっと外に居ただろう」
「うん。へいきだよ」
「一度も家へ帰らなかったのか?」
「そう。今日は大事なお客さんが来るって。うるさくしたら迷惑だから、って」
ニネットくらいの歳の子を、この寒い中こんな時間まで閉め出すのは、アレックスには非常識に感じられた。
「娘が居なくなったのに……?」
言いながら、客の素性に思い当たる。
警察か何か、話し合いでもしているのか。
とすると、ニネットには聴かれたくない内容なのだろうか。
想像が勝手に飛躍していくのを意識して抑えて、また少女の手を引いた。
しばらく歩いたためか、彼女の手はもう温かい。
憶測を飲み込んで帰路を辿る。
雪は勢いを増して、目に映る景色を塗りつぶしていく。
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