第17話 模倣された魂の葬送-06



 ――俺を欺くがらくた人形どもめ、今正体を暴いてやる!

 そう叫んで、ビリー・ディックという名の青年は、その日、彼の誕生日を祝いに集まった家族や友人を殺傷した。

 彼は人形愛好家フリークだったが、いつからか周囲の人間を「本当は自動人形メイトの成りすましじゃないか」と疑うようになり、次第に怯え遠ざけるようになった。

 家から出ないビリーを心配した気の良い家族や友人たちが、彼を驚かすために秘密裏にパーティを計画した。

 本来ならその場に来られないはずだったメンバーも頑張って予定をあわせ、彼の快復を願って密かに集まった。

 それこそが、彼の疑念を深めることになり、恐慌を引き起こす引き鉄になる。

 直前までメールで遠方にいるように振る舞っていた友人が、突如この場に現れた――これは友人にそっくりな身代わりの人形に違いない。

 ビリーはパニックに陥って、その場に居る全員を疑った。

 誰が人間で、誰が人間のふりをしている人形なのか。

 一体何の目的でそんなことをするものか。

 冷静ではないビリーにはもう何を信じていいか分からない。

 とりあえず、そうだ、刺してみれば分かる。

 人間だったら血が出るのだ。

 自動人形だったら空気が抜ける――。

 有名な事件だ。映画にもなった。

 自動人形を嫌悪する者は大抵この映画を引き合いに危険性を訴える。

 それはビリー・ディック――DOLL-SICKドール・シックD-ickディックの、実話を基にした物語だ。

 類似の事件は無数に発生し、その精神状態を指して《D-ick人形過敏症》と呼ぶようにすらなった。

 ――傷つければ、人間か人形かはっきりするって短絡的に考えてしまう。

 残されたフランチェスカの肉声が言った。

 その言葉は多分に《D-ick》的だ。

 皿の上のローストビーフはナイフを当てると用意に切れた。

 薄い肉の裂かれる様がエレシアの最期を連想させる。

 床に伏して首をもたげるエレシアの姿が脳裏に蘇った。

 その姿はフランチェスカへ、試作品実機一号へ、フランへ、あるいはアレックス自身へと次々に変貌していく。

 誰も彼も、首から黒い闇を覗かせて、色のない血を吐き出している。

 取り落としかけたカトラリーが皿の縁を叩いて硬質な音を立てた。

 ようやく、少年は夢想から引き戻される。

 探るような視線を感じて顔を上げた。

 ジゼルは何でもないようにワイングラスに視線を戻している。言いたいことがあれば言えばいいのに、と腹が立って、しかしその熱もすぐに冷めた。

 昼食への欲求は次第に失せて、アレックスはフォークをさまよわせながら時折気まぐれに食事に手をつける。

 温かかったグラタンもそのうち冷えて、さっきまでぱちぱちと焼きたての証しの香りと音を立てていたバゲットも今は無愛想に黙り込んでいる。

 チーズをひとかけかじって、思わぬ苦味に唇をゆがめた。

 また、探る視線だ。

 顔を上げると、まともに目が合う。

 なぜか、競うように、ジゼルが笑った。

「食事は口に合わない?」

「いいえ。人に酔ったみたいで、あまり受け付けない」

「それは大変。ゆっくり休んだらいいわ。エレシアから聞いたけど、混雑は苦手なんですってね」

 もう壊してしまった自動人形を話題に上げて平気な顔で居る。

 まるで取るに足らない出来事だったみたいな態度を示す。

 そうしてみせて、相手がどう反応するかを確かめているようにも感じられた。

「気持ちは充分に理解できるわ。あなたを不躾な客だなんて思わないから、安心なさって」

「心配はしていません」

 屋敷へ戻ると食事が用意されていて、すでにジゼルが待っていた。

 フランは隣室の充電椅子で休んでいる。

 食卓は二人用にしてはやや広い。ジゼルは上品な所作で食事を続ける。

 アレックスも最初は空腹を感じて食が進んだが、すぐに考え事に翻弄されて食欲を失くした。余裕を見せ付けるように優雅に食事をする彼女を憎らしく感じる。

「あなたたち、家族なのねぇ。フランも――あなたのお姉様も混雑は嫌いだと言ったわ」

 そんな話を、聞いたことはない。

 また、子供じみた嫉妬心にかられる自分を恥じた。

「……祭りの前にね、一週間たっぷり過ごせる食べ物や日用品を買い込んで、祭りのあいだ、ずっと二人でこの屋敷に篭もって過ごしたこともあったかしら。息を潜めて、外はとっても賑やかなのに、私たちだけまるで切り離された世界に居るみたいに……なんだか楽しくて、二人して笑っちゃったわ」

 アレックスを探るときのそれとは違う、懐かしむような、夢見るような、無防備な表情をしている。

「楽しい演劇も歌も、珍しい食べ物も、なんにも必要なかった」

 戻りたい過去を見据える瞳だ。ムービーデータの声を思い出す。

 あの中にいた彼女と自分が出会ったジゼルが符合しないように思った。

 あれは、信頼関係を結んだ相手にだけ見せる顔だ。

 アレックスが見ているのは、きっと、彼女の仮面だ。

 ジゼルは吐息をこぼした。

 それは、声にしたかった言葉と引き換えになったように思えた。

 もっと、ずっと、一緒に居たかった。

 そう、アレックスには聞こえた気がした。

 あるいは、それは彼の胸の内から漏れ聞こえた声かもしれなかった。

 静かに扉が開いて、入室するのはハウスメイド姿の自動人形たちだ。

 三体がそれぞれ食卓の片付けを始める。

 食器の重なる硬質な音がにわかに響く。

 自動人形たちは皆ジゼルと同じ顔を持つ《エレシア・ドール》だ。

「彼女たちは同期している、ひとつの人格の元に動く自動人形?」

「いいえ。それぞれが独立した人格と記録を保持した、別個の存在よ」

 聞く前から理解はしていたが、改めて落胆した。

 やはりアレックスと時を共にしたあの自動人形は失われてしまったのだ。

 過ごした時間は短かった。共に旅は出来ないと答えた。

 それでも、唐突な別れは受け入れがたい。

 壊れたエレシアを運び出す同じ顔をした自動人形たち。

 今、目の前でテーブルを片付ける、それと全く同じ手順でエレシアの骸を片付けていった。無関係なものを見る眼差しで、同じ姿を持つ自動人形を見ていた。

 同じ状況を人間に置き換えると、それは途端に異常な光景に変わる。

 見た目は同じなのに、前提が違うだけでどうしてこうも差があるのか。

 何か理不尽を感じて、なのにそれを言葉にできなかった。

 煮え切らない気持ちを変えようと、別の疑問を口にする。

「姉は《D-ick》だった?」

 間が降りて、それを不思議に思って顔を上げた。

 ジゼルは中途半端な、作りかけの笑みを消して、落ち着くための努力をしているように見えた。

 今までずっと余裕を演出していた彼女の動揺を見て取って、アレックスはふいに思い当たる。

「――あなたも?」

 問いかけに、降参したようにテーブルへ両手を重ねた。

「ねえ、試作品実機を……あなたのフランを見ても良い?」

 答える代わりの要望にアレックスは頷く。

 後片付けを自動人形に任せ、ジゼルは部屋を出る。少年も後に続いた。



「この仕事をはじめたのは、それが理由だったの。制作に関わっていれば、自分が作ったものに関しては、絶対に、区別できるでしょう。世に出る沢山の自動人形が、私の手を通したものになれば、私は安心して過ごすことが出来る。そう期待していたのだけれど……あまり、効果はなかったみたい」

 少し指の長いジゼルの手が扉を開いた。

 ダイニングの隣が応接間で、自動人形は真っ白い厚いメラミン樹脂の充電椅子に腰掛けている。スツールの形状を持つ簡易充電椅子は、出会ったときにジゼルが座っていたものだ。

 フランは入室者の存在を察知して閉じていた瞼を開く。

 明るい部屋のなか、淡く、瞳が赤く明滅した。

「アレックス。御用でしょうか」

「いや、良い。まだ座っていて、充電を続けろ」

「了解致しました」

 もう瞼は閉ざさない。視線は接近するジゼルを追った。

「気づいたときには私はもう《D-ick》だった。まだ少女の頃から、自動人形を疑問なく人間だと思っていたし、人間を自動人形だと疑うこともあった。そもそも、両者の区別が明確になっていなかったのね。それで随分苦労をしたわ。今はもう、表面的には問題ないけれど、いつだって判断は揺れている」

 上体をかがめて、座っているフランの顔に頭の高さを合わせた。まるでフランに囁くように続ける。

「だから、昨日あなたからこの子をお借りしたのも、確かめるためだったの」

 間近で瞳を覗きこんでもフランは反応しない。

 人間ならば意識なく反射的に顔を背けてしまうだろう距離に踏み込まれても、自動人形はまるで平気なのだ。

「本当に……自動人形なの? 自動人形の振りをして、私を欺いているんじゃないかしら?」

 吐息を吹きかけるような問いかけをフランは気にも留めない。主語がない言葉を己への問いかけとは受け止めなかったらしく、唇を動かしもしない。

 嘆息をひとつ。気が済んだのか、フランの傍を離れた。

「安心して。傷つけるようなことはしていないから。フラン――フランチェスカではないって確信も得た。ちゃぁんと、私が作った、自動人形だわ。へんな話でしょ、自分が作ったのに」

 落胆とも安堵ともとれる嘆息をひとつ。アレックスも同調して吐息していた。

「僕だって、それは……充分に確かめた」

 問いかけに答えるフランのマニュアル音声が耳に甦る。

「だけどまだ、ひとつ、私には確かめていないことがあるの」

 あの眼差しを受けて、今ようやく、アレックスはその意図を理解する。

「アレックス。あなた、本当に人間なの? 自動人形じゃなくて?」

 探る視線の意味を知って、自分も同じ目つきでジゼルを見ていたのだと気づいた。

 不意に意地の悪い思いつきがひらめく。

 ――暗記してしまったマニュアル音声を答えてみせようか。

 当自動人形、登録名アレックスはエメス社の骨格機構を持ち、同社の人工知能で思考しています。外装は個人製作、登録モデル《アレックス・スノウリング》に基づいて作られています――。

 ジゼルは信じるかもしれない。

 その反応を見るのはきっと痛快だと思う。

 きっと、今までの不満も嫉妬も帳消しに出来る程に。

 しかし、そうしてしまうと、ただでさえ不均衡な関係なのに、決定的な溝を作ってしまう気がした。

 互いに計りかねている距離を永遠に見失ってしまう。

 二度と信頼は築けないだろう。何より、不誠実だ。

「答え合わせを、する?」

 代わりに、問いかけた。

 意図するところに気づいて、ジゼルは眉尻を下げて控え目に首を振った。

 そうしていると、印象は随分と幼く、道に迷った頼りなげな少女を連想させる。

 それが多分、彼女の素の顔だった。

 きっと、フランチェスカへも向けられていた、彼女の姿だ。

 エレシアを害したときに見せた凶暴性は見せかけの作り物だと感じて安堵した。

「分かっているわ。分かるのよ。でもね、どうしても、最後の可能性が棄てられないの。だって、あなたがそう思い込んでいるだけの自動人形だったら? 自分さえもプログラムで騙して、人間の振りをする……。そうやって、実際に確かめるまで疑念は続くの。それを指して《D-ick》だと呼ぶわけだけど……」

 理解を示して頷く。それを受けてジゼルはやっと微笑んだ。

 ジゼルはスティック型の端末をポケットからテーブルへ出して、白い天板にドキュメントを投影する。

 それは無機質な文書データだった。

「これは?」

「《フラン・ドール=プロジェクト》。その概要書よ」

 彼はすぐに書面の上に見知ったいくつかの名前を見つけた。

「仮称だったようだけれど、そう発注書には書いてあった。私はエメス社を通じてスノウリング夫妻の依頼を受けたの。スノウリング! 本当に? 嘘じゃないわよね? そう何度も確認したわ。あのスノウリングなのね、同名別人じゃないわよね、って。願ってもない大きな仕事だった」

 苦い思いで聞き流す。両親の名声はアレックスには実感のない、自分とは無関係に感じられる事柄だった。

 世間との認識の乖離を自覚するほどに、己があの家族の一員には相応しくなかったように一層疎外感を覚えるのだ。

「有り難いことに、夫妻はそれまで無名だった私にチャンスをくれて、いくらでも資金はあるから全力を注ぐように言いつけたわ。モデル自身が全面的に協力してくれるなんて本当に珍しいことで、それこそが何よりの幸運だったの。ただひとつ、期間に関してはシビアだった。当然よね、いつフランの体力に限界が来るか分からなかった。そうなる将来を、皆、予測していた。フラン自身も」

「姉さんも?」

「そうよ。初めて顔を合わせたとき、あの子は朗らかに言ったの。よく覚えている」

 アレックスへ向き直って、ジゼルは伏目がちに、言葉を再現した。

「――わたし、長くは生きられないんだって。だから、こうして生きていた証しを残すの。素敵でしょう? みんなの生活のなかに、わたしの姿がある。いろんな人の友人に、わたしはなれる」

 感想を問うように首を傾げる。

「……商用人形のモデルになることを、本人も承諾していた?」

「喜んで待ち望んでいたようだったわ。企画の全容は分からないけれど、事が順調に運べば昨年の年始までには発売するはずだった。スノウリング夫妻は、娘の死を覚悟して、生前から彼女の追悼企画を指揮していた。それに、フランチェスカも全面的に協力していた」

 己の予測が外れていたことをアレックスは理解した。

 きっと、フランチェスカは、己の模倣人形を作られて不本意に感じているはずだと、推測していたのだ。

「製品化の暁には、きっと一日中どこへ出かけても広告を見かけたでしょうね」

 今期のいちおし商品だと著名人たちが紹介し、こぞって古い自動人形を棄てて《フラン・ドール》に乗り換える。

 競って着飾り、高機能化を試み、各々個性を主張して、お金と時間と愛情をかけて寄り添う。誰もが同じ顔の自動人形を連れて、誇らしげに行き交う。

 そんな眺めを、街中で見かけるようになったかもしれない。

 ふいにアレックスの脳裏に閃くのは、祭りの群集の中、すべての自動人形が姉の姿を持っている光景だった。

 決して良い印象ではなく、身体に冷たく怖気が走る。

「そして、翌年の同じ頃、別の新しい商品が発表されて……《フラン・ドール》は毎日のように道端に打ち捨てられ、回収業者を待つ姿が見られるようになるわ。葬礼堂に同じ顔の自動人形がいくつも運び込まれる。誰もが、何度も、何度でも、彼女を死なせるの」

 そんなのは一度で充分だ。

 叫びたい思いを飲み込んだ。

「とても快くは暮らせないでしょうね。容易く想像はついたけれど、その時はどんな事情でも構わなかったの。まだあの子のことを良く知らなかったし……私は自分の腕を最大限試す機会を得てひどく興奮していたの。ずっと、自由に、いけるところまで、限界まで――自分にどれだけの力があるのか、知りたかった。本当にモデルにそっくりな自動人形を作れるのか、目指してみたかった」

 結果を、アレックスは誰よりも良く知っている。

 きっと、フランチェスカも身をもって感じただろう。

 自分の似姿と相対して、その時どんな思いが胸に去来したのか。

 目論見どおりに行ったことを喜んだだろうか。

 それとも、あまりに精巧な己の複製に、恐れを抱いただろうか。

「私は精一杯やった。結果的に、それが、彼女を遠ざけてしまった」

 彼女は自動人形を見た。自動人形に重ねた少女の姿を、見つめた。

「偶然には違いないけれど、ひとつめの試作機が出来てから、間もなく彼女の病はとうとう彼女の容姿まで侵食を始めた。まるで引き換えだったみたいに、人形が精度を高め生き生きするほどに、あの子は衰えて行った」

 ジゼルは一葉の写真を差し出す。

 わざわざ紙に出力したデータだった。

 元々あるデータの一部分を切り出したものらしく、画素は粗い。

 一目見て、アレックスは、自分には無関係な写真だと思った。

 ジゼルの話を聞いていなければ、ずっとそう思っていたに違いない。

 次第にそれが何かを理解して、しかし頭が事実を拒絶した。

「これは、いつの……?」

「撮影日は一九三六年四月」

「二年前」

 一九三六年四月。

 フランチェスカが、ひいてはスノウリング夫妻が失踪する約半年前だ。

 彼は言葉を失って、写真と見比べるように傍らのフランへと視線を向けている。

「私、彼女に軽蔑されてしまうでしょうね。あなたにはこの姿を隠したがっていたから。そのための《フラン・ドール》だったのだから」

 少年は改めて写真を見つめた。粗い画素のノイズの向こうに、彼女がいる。偶然撮影されたもの故か、カメラを意識していない顔には何の感情も浮かんでいない。

 フランチェスカ・スノウリング。

 ゆったりとしたワンピースに分厚い毛糸のカーディガンを羽織っている。まっすぐに綺麗に伸びていた長い髪は疎らに散り、頭皮を隠すように帽子を被っている。いつも暖かな微笑みを浮かべた、あのばら色の頬は枯れて血の気を失っている。

 そこにいるのは病人だ。

 アレックスの記憶にはない、フランチェスカ・スノウリングの姿だった。

「試作品実機を――フランを連れて歩いたところで、写真の彼女と結び付けられる人はそうは居ないでしょうね。これが、記録に残る限りでは最新の、あの人の姿なのよ」

 町ですれ違っても分かったかどうか自信がない。

 もしかしたら今までも見落として来たかもしれない。

 アレックスは焦りで早まる鼓動を感じた。

「お持ちになる?」

 ジゼルの勧めに素直に頷く。

「彼女は近い死を覚悟して、健康で可愛いままの姿を覚えていてほしがったのよ。とくにあなたには。だから、この姿を明かしてしまうことは、フランにとっては不本意なことだわ。もし姿を隠したのが彼女の意思だとしたら、私は尊重したい。会いに、行かない。それでもあなたは、行くの?」

 ジゼルから紙片を受け取った。

 インクで再現された、見知らぬ姉の肖像を胸に抱く。

「あなたが人生を浪費してまで追いかけて、報われるとは限らない」

「分かっている」

「終わりを決めているのね?」

 笑われる気がして答えを躊躇った。

 だけど、自分で決めた線引きを翻したくないから、あえて言葉にする。

「……僕の背が、彼女を越えるまで」

 アレックスの瞳が自動人形を捉えた。

 いつも隣に、あるいは後ろに、着き従う少女の姿は、まだ成長期の少年よりもよほど大人びている。

「採取した彼女のデータは、十七歳のときのものよ。男の子は急に大きくなっちゃうのよ。今、そんなに可愛らしくても、きっと……お姉様の年齢に届く前に、背は彼女を越してしまうでしょうね」

「……先のことは分からないよ」

「私には分かるわよ。あと二、三年もしないうちに、あなたはぐんと大きくなる。大人の身体に近づいていく」

 少年は自分の手を見つめた。

 まだ骨ばってもいない、少し甘やかされた指。これがいつか、大人の男の手のように、皮膚が硬く、骨は太く、頑丈になるという。

 とても信じられなかった。

 いつまでも甘えん坊の手のままでいるような気がしてずっと不安だったのだ。

 だから、終わりが来るのもずっと先のことのように感じていた。

 手の中の写真に写るのは、きっと同じことを考えていた姉の姿だ。

 だけど、その時は前触れもなく訪れるのだ。

「分かってる。……急がなくちゃ」

 居ても立ってもいられなくなった。

 こうしている間にも遠ざかっていく気がする。

「夕食の材料、あなたの分も用意してあるのだけど」

「ごめん。せっかくだけど、一人で食べて。……今夜のうちに、もう行くよ」

 写真を折らないようにポケットにしまう。

「次のあてがあるんでしょう?」

 今にも飛び出しそうなアレックスが一度振り返り、頷いた。

「レフに教えてもらった。ロウェルの工場を調べに行く。あなたの話が聞けて良かった。ありがとう、ジゼル」

 荷物を取りにゲストルームへ向かう。

 少年の背中を見送って、彼女は息を吐いた。いつか友人だった少女の姿を持つ自動人形に寄り添って、冗談めかして語りかける。

「しっかりして見えて、そそっかしいんでしょう。あなたに似てるわ、フラン。お願い、見ていてやってね」

「はい」

 そう自動人形が機械的に頷いたから、とうとう耐え切れずに笑い声をもらした。



 無計画に飛び出して都合よく列車があるわけでもなく、結局、夜まで急いた気持ちを持て余しながらジゼルの屋敷で待っていた。

 それでも充分早い時間に駅へ向かうことにして、家主との別れを手短に済ませる。

 玄関を出ると目頭が痛くなるほどの冷気に触れた。

 襟を合わせてその内側に顎を沈める。

 通りの向こうで加熱する祭りの喧騒を聞くと、少しだけ気温が上がったように感じた。

「アレックス」

 耳慣れない声に呼ばれて、歩みかけた足を止める。

「これ、包んだの。列車の中で、夜食にして」

 紙袋を抱えて駆け寄るのはアレックスよりも背の低い女の子だった。

 均等に結んだ二つの髪束が顔の横で揺れる。

 その容貌はジゼルに良く似ていて、すぐに《エレシア・ドール》のバリエーションだと解釈する。

 包みを受け取って彼女を間近に見つめた。

「昨日はごめんなさい、アレックス。あなたを驚かせちゃったわね」

「……エレシア?」

 喋り方も、身振りも違う。

 咄嗟に尋ねてしまったのは、勘が働いたためか、親密な態度からそう感じ取ったのか、あるいは単なる願望か。

 アレックスは不用意な問いかけを恥じた。

 眼前の少女は、しかし悪戯めいた微笑みを浮かべて頷く。

 状況を理解すると、途端に熱く喜びが胸に滲んだ。

 次の瞬間には、歓喜はいくつもの疑問に覆われて濁る。

 一体どこまで再現されたエレシアなのか。

 完全に同一の存在として、果たして受け止めていいのだろうか。

 小難しい思考を追いやるのは全てを仕組んだジゼルへの腹立たしさだ。

 しかし今は、大きな安堵がそれらを上回っていた。自分でも疑問に思うほど、たかが自動人形の安否などどうでも良いはずなのに、再会が嬉しかった。

「良かった、エレシア……」

「心配してもらえたなんて、光栄だわ。どう? 外出用の予備身体スペア・フレームよ。かわいいでしょう」

 その場で軽やかに一回転した。

 フレアスカートが花開くように膨らんで、袖の裾も蝶の羽ばたきのように揺れる。豊かな髪が顔の横に着地して、再び元の位置で姿勢を正す。

「お願い、ジゼルを許してあげて。あなたのこと、驚かせたかっただけなのよ」

「きみはそれで良いの?」

「壊されるの、はじめてじゃないの。でも、いつもちゃんと戻してくれるわ」

 返す言葉に迷って、沈黙する。

 エレシアは安心させるように笑った。

「いいの。ありがとう。ジゼルを嫌いにならないでくれると、わたしは嬉しいわ」

「嫌いじゃないよ。ただ……」

 とっくに自覚していたことを、言葉にするのは抵抗があった。

 それでもジゼルへ伝えるよりは素直になれる。

「僕は……嫉妬していたんだよ」

 理解を示すように彼女は浅く頷いた。

「ジゼルも同じよ。自分の知らないフランチェスカを知る人が、羨ましかったんだわ」

 同じ人物を求めて、好きでいるはずなのに、どうして競い合ってしまうのか。

 嫉妬心を向け、素直に接していられなかったと反省する。

 フランチェスカがもし間に入っていれば、もっと親しくできただろうか。

 否、彼女を間に挟めばお互いに無関係な相手として見向きもせず、フランチェスカとだけ接しただろう。

 姉の不在が繋いだ縁にわけもなく意味を感じた。

 その意味を確かめる時間は今はない。

「また、訪ねて来てほしいって、きっと思ってるはずだから。私もまた、あなたに会いたい」

「勿論。きっと。時間を見つけて、また来るよ」

「ええ。きっとね。次会うときはこの姿じゃないかもしれないけれど、それでも仲良くしてくれるって信じてる」

 頷いて、約束を交わして、エレシアに見送られる。

 彼女から受け取った包みはまだ暖かく、期待の膨らむ匂いをさせている。

 旅路の合間の食事を待ち遠しく感じた。

 大通りへ近づくにつれ祭りの喧騒が膨らんでいって、身体を包み込むようになる。

 祭りの当日に向けて混雑は極まり、ともすれば二人の間を人が割って入り、危うくはぐれそうになる。

 迷子癖のついた自動人形を心配してアレックスは頻繁に後ろを振り返った。

「アレックス、申し訳有りません」

「何?」

「あなたの左足踵とわたしの右足つま先の距離が五七センチになりました。お約束の距離を維持できませんでした」

「まだ、こだわっていたのか」

 律儀な気質に時折疲れて、でもそれを愉快にも感じる。

「いちいち報告しなくていい。今はとりあえず構うな。僕を見失わずについて来るだけで上等だ」

「はい。了解致しました」

 融通の利かない自動人形を気遣いながら、駅への道を辿っていった。

 混雑の中、並んで歩くのは通行の妨げになる。

 だから今、それは叶わないことだが、手を繋げたら良いと思った。

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