第16話 模倣された魂の葬送-05


 いつの間に眠っていたのか分からない。

 目覚めるとフランの腕に抱かれていた。

 気が動転したまま行動した昨夜の己を省みて、アレックスは心の底から自己嫌悪に陥る。

 すぐにベッドを降りてフランを起こす。

 鏡台のスツールに座らせて一息吐いて、シャワーを浴びようと方向転換をして、テーブルに用意された朝食に気づいた。

 ポットの注ぎ口からまだ湯気が立っている。

 あまりにも無防備だった寝姿を、ジゼルに目撃されてなければ良いと強く願った。

「アレックス。未読のメールが二通あります」

 身体を起こしたフランが呟く。

「何? 誰?」

「一通目はレフ・クランコ。二通目はパブロです」

「パブロ?」

 前者はともかく、珍しい差出人だと足を止める。ポケットに入れっぱなしだった端末を手に取ると、フランの報告どおりにメールを受信していた。

 レフの挨拶と世間話のメールを無視してもう一通を表示する。

 つい先日見たばかりの岩のような姿を思い浮かべた。

 彼から連絡を受けるなんて今までに片手で数えて足りる程度だ。

「……葬礼堂か」

 クロステルに滞在するなら、是非ヘデラ・マカロワ葬礼堂を訪ねると良いと勧める内容だった。その予定はなかったが、気晴らしに行くのも良いと思えた。

 丁度今のような早朝ならさして混雑していないだろう。

「出かけるよ、フラン」

「はい。荷物をお持ちしますか?」

「手ぶらで構わない。くれぐれも僕からはぐれないように。……五十センチ以上離れるな」

 これまでを鑑みて具体的な指示を出す。

 分かっているのか、フランはいつも通り澄ました顔をのままだ。

「行こう」

「はい」

 彼女は後ろについて来る。

 追いかける靴音を背中に聞いて、落ち着いた心地がした。



 部屋を出て玄関へ向かう。

 廊下に並んだ椅子に自動人形メイトが腰掛けていた。客人を迎え、席を立つ。

 エレシアに良く似ていると感じて、そもそもジゼルに似ているのだと思い直した。

「おはようございます。アレックス、フラン。何かご用命あれば承るようジゼルに申し付けられております」

「そう。少し出かけてくる。昼には戻る」

「畏まりました。せめてご昼食は共に、とジゼルからの伝言です」

「分かった。喜んで、と伝えて」

「了承致しました。お気をつけて」

 丁寧に腰を折って礼をする。キャップから後れ毛が少しだけこぼれて、その動きに妙な生々しさを感じた。

「きみも、エレシア?」

「はい。私は《エレシア・ドール》です。個体番号はF-06。《F》はジゼルに最も良く似た《エレシア・ドール》に付与される番号です」

「男型もいたよね。あれは?」

「個体番号M-01から03、三体あるうちのいずれかでしょう」

「そう。……昨日損傷したエレシアの個体番号は分かる?」

「昨日管理から除外された《エレシア・ドール》の個体番号はF-05です」

「そうか。……じゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃいませ。お帰りをお待ちしております」

 見事なお辞儀が厚い扉の向こうに消える。

 暖かい部屋にはすぐに慣れて、外の寒さを忘れてしまう。

 早朝の町は露出している肌から凍えてしまうような寒さに覆われていた。

 だけど、新鮮な冷気はどこか心地よい。

 町は静かなものだった。

 見かける姿といえば、たった今町に到着したような観光客、これから店開きをする店員、昨夜飲んだくれたように足元の覚束ない若者集団やその傍らに付き添うしらふな顔の自動人形たち。

 道端で寝こけるような酔っ払いは居ない。放っておけば凍死は免れないから、こうした祭りの日は特に取り締まりを強化しているのだろう。クロステルはネオンビスコよりも大陸寄りの厳しい気候だ。

 昨日は避けて通った大通りも今朝は難なく歩いていける。

 何も言わずとも、フランは言いつけ通りの距離を保って後ろについて来る。



 元々は、古く廃れた信仰のための宗教施設だと言う。

 持ち主が扱いあぐねたその教会を買い取ったのはマチルダ・マカロワだった。

 扉は既に開け放たれていて来訪者を待ち受けている。

 風通しは良好で人の出入りも頻繁なはずなのに、何故だろう。いつからか時が止まったまま空気が停滞しているように感じた。

 葬礼堂の最奥、祭壇には一脚の椅子がある。

 真っ赤な布張りの、金の房飾りのついた、サーカスの舞台のような、王の玉座のような、豪奢な椅子だ。

 ずらりと並んだ木製の祈祷席を横切って近づくと、その椅子になにかが座っているのが分かる。

 アレックスよりも幼い、裸足の女の子だ。

 真白い脚を本物の木蔦が取り巻いている。

 複雑にレースが折り重なる衣装は、肌の色が透ける程に繊細なレース地で構成されていた。褪せた赤い髪が腰まで末広がりに伸びている。

 細かく波打つ髪には真白い造花がちりばめられていた。

 花嫁みたいに飾られた、この少女人形がヘデラだ。

 自然に劣化したように肌はくすんで汚れている。それでもまだ、一瞬後には動き出していても不思議はないほど、大切に保管されていた。

 祭壇との境界を仕切る柵の前で、少年は立ち尽くす。

「ガイド音声を受信しました。いかが致しますか?」

「再生を」

「はい。――ヘデラ・マカロワ葬礼堂。

 今、正面に見えます自動人形、ヘデラの名を冠するこの施設は、自動人形の鎮魂のために作られました。

 ヘデラは歌手マチルダ・マカロワが最初に愛した自動人形でした。

 その頃はまだデータバックアップ機能が完備されていなかったため、不慮の事故でヘデラの人格・記憶は失われてしまいます。

 その喪失を悼んで、マチルダはこうして自動人形のために祈る場所を設けました。

 生前は欠かさず、一年に一度、ヘデラに会いに来るマチルダの姿がありました」

 自動人形の性格によって様々に調子を変えるはずのガイドは、ほとんど無変換の、原文のまま再生された。

「以降、彼女はこの建物を自動人形の亡骸を安置する墓所として解放しました。

 その存在は次第に広まり、安置所に保管しきれないほどの自動人形が集まってからは、保管期間を一年に定め、毎年火葬が行われるようになりました。

 二月七日、フリーク・フェアの最終日が一年の区切りになっています。

 ――更に詳細な案内を致しますか?」

「わかった。もういい」

「はい」

 フランの唇が閉ざされる。

 流暢に喋っていたのが嘘のように、硬く口をつぐんでいる。

 席へ移ってしばらく足を休めた。

 次第に訪れる人が増えていく。

 彼らの連れの自動人形たちが口々に同様のガイド文を喋っていた。

 今日にもここへ捨てられに来たのかもしれない自動人形たちが、主人の言いつけに従う姿から目をそらす。

「パンフレットはいかがですか?」

 祈祷席へやって来たのは葬礼堂の案内人形だ。

 髪をヴェールに隠し、全身を黒い法衣に包んでいる。

 腕に提げた籠から来客にパンフレットを差し出す役目を負っているらしい。

「一部」

「ありがとうございます。ごゆっくりお過ごしくださいね」

 にっこりと微笑んで立ち去り、また別の客を見つけると声をかけた。

 アレックスは蛇腹に折りたたまれたパンフレットを開く。

 すぐに冊子の制作元の名前を見つけた。

『エワルド・ワークス』と誰もが知っている会社の名前が記されている。

 最初に自動人形を作り、最も求めやすい価格で提供している、一番広く親しまれている企業だ。

 つまり、こんなのはキャンペーンだ、とアレックスは思う。

 一生連れ添える頑丈な自動人形など作っても企業は儲からない。

 客が製品をいくつも買ってくれたほうが当然良い。

 だけど、人間に似ている道具を人は容易に手放せない。

 だから儀式を設けて抵抗感の軽減を図っていた。

 ともに時を過ごした自動人形のために、ここで泣けばいい。

 気が済んだら、また新しい自動人形を手に入れるのだ。

 そのサイクルのための祭りだ。そのための葬礼堂だ。

『まず私たちの生の定義から始めなければいけません。死についての質問はそれからです。扱いの難しい話題です』

 そう言った彼女の壊れた姿を見て、アレックスは死を感じた。

 あるいは、バックアップデータから人格を復元し、ジゼルの似姿を持った身体にデータを載せることで、まだ再現は可能かもしれない。

 返して言えば、バックアップデータが完全であっても、二度と、誰もその存在に気がつかなければ、死と同義だ。

 そこにあっても、誰も気づかない。誰も、知らない。誰とも接点を持たず、影響しあうこともない。多分、それを、生とは言えないと、アレックスは思う。

 吐息をひとつ。益体もない思考を追い払って、ヘデラに目を向ける。

 記念写真を撮影する客の姿があった。

 死体とのツーショットを、楽しげに撮り合っている。

 飾り立てられた遺骸は人間のそれよりも嫌悪感は生じない。

 死の恐怖や苦悶とは無縁の死者の魂を、どうして鎮め慰める必要があるだろう。

 ここには自動人形の魂なんて眠っていない。

 あるのは、彼らを失くした持ち主の魂だけだ。

 ヘデラを失って悲しむマチルダ・マカロワの魂だ。

 慰められたいのは、いつだって残された者たちだ。

 だから、エレシアも、きっとここには居ない。

「きみも死んだらここへ来るのか?」

 傍らの自動人形へ問う。

 きっと、アレックスはそうはしないだろう。

 なぜなら、このシステムを利用する彼らに共感し難いからだ。

 失ってもきっと慰めを求めないだろう。

 何より、まだ、別れを想像するのは難しい。

 それはいつ訪れるのだろう。

 いつか。

 姉と無事に再会を果たした後も、この自動人形を使うのだろうか。

 、使い続けるのだろうか。

 そんな未来は、想像してみても、不自然で腑に落ちない。

「アレックスが望むように」

 フランの答えは、いかにも主に判断を委ねる自動人形らしかった。

 まるで意思を尊重されたかのような、相手を良い気分にするための回答だ。

 もっとも、彼のように主体性のなさを嫌う場合はその限りではない。

「僕が何を望むと思うんだ?」

 アレックスは鼻白んで、質問を掘り下げる。

 意地悪な問いかけにフランは微塵も表情を変えなかった。

「わたしがアレックスから五十センチ以上離れずに歩くことです」

 思わぬ回答に、彼はうっかり笑う。

 それはほんの少し、唇を歪めて吐息する程度の、分かりにくい変化だった。



 葬礼堂の本堂を出る。敷地内案内の看板と向き合った。

 広い庭園にいくつかの建物が点在する。

 マチルダ・マカロワに関する展示室と、自動人形を安置しに来るオーナー向けの窓口がある。

 看板の縁は濃い茶色で、一目には気づかないが、様々な落書きが記されていた。

 裏を覗き込むと、元々は白無地だったらしき裏面がびっしりと文字で埋め尽くされている。

「うわ」

 思わず声が漏れた。

 来客が記念に書き残すらしい、マチルダ・マカロワへのファンコールだった。

 無数の筆跡で描かれた無数の文言に、しばしアレックスは圧倒されてしまう。

 まだ十二歳の少年は、他の十二歳の子供と同様にマチルダの最盛期を知らない。

 物心ついた頃には彼女はすでに故人になっていた。

 どれほどに有名な人物だったのかを知識では知っていても、いざこうして生の声と言うのか、当事者たちの熱狂を目の当たりにすると、不思議な心地だった。

 本当に存在したのだな、とようやく信じるに足りたように思うのだ。

 追っても読み切れない言葉の海から意識を剥がす。

「人が増えたな。今何時だ?」

「十一時です。七分を過ぎました」

 せっかくだから一周して帰ろうと庭へ歩み出した。

 何を言わずとも主人の歩みに遅れずフランが付き添う。

 案内板にあった通り、行き先ごとに石畳の色が変わった。

 黒い道は地下安置室へ続いている。

 来訪者が《遺体》を納めるために、キャリーケースを運んで行く。

 あるいは、もっと小ぶりな箱を持つ者も居る。

 亡き自動人形のためにやってきた彼らの傍らに新しい自動人形が付き添っている様子も見受けられた。

 アレックスは、もう一方の赤い道を選んだ。

 陰鬱な黒い道とは異なり、何やら底抜けに陽気な音楽が響いている。音に誘われるまま歩むと、両者の道を分かつ壁が途切れ、赤い石畳の広場が現れた。

 中心に向かって緩やかなすり鉢状に傾斜する円形広場だ。

 舞台には黒尽くめの衣装の、仮面の男が立っている。

 音楽に合わせて唄うのは舞台の上の小さな自動人形だ。

眼球みたいな満月の夜コッペムーン・ナイトは、機能的なキスをして……」

 まばらな観客が作りつけのベンチに腰を据えて舞台を眺めている。

 マチルダゆかりの地で彼女の歌が聞こえれば、何か価値のある催しだと期待を抱いても無理はない。

「操り糸を引きちぎって、抱き合うのよ。ねぇ」

 舞台で踊るのは《幕間座》のプリマ、キャンディ・ポップだ。

 今日はマチルダのアイコンとも言える真っ赤な縮れ毛を金のリボンで結び、ピンク色のレオタード風ドレスに身を包んでいる。

 マチルダの扮装をした小さな人形は彼女の歌を少しだけ調子はずれに口ずさむ。

「眼球みたいな満月の夜、眼球みたいな満月の夜♪」

 覚えやすいメロディのダンス・ナンバーに観客も自然と肩を揺らしていた。

 キャンディがリズムに合わせてお尻を振ると、ピンクのスカートがふるふると震える。

 見るも愛らしい小さなマチルダに皆満足して拍手を送っていた。やがて、

人形歌劇団≪幕間座≫インテルメディオ・ギニョル

 舞台の足元に看板がかかる。

 拍手を受けて一層愛嬌を振りまくキャンディが、看板を置いた男の腕を伝って肩へたどり着く。背の高い男は一度彼女の髪を撫で、観衆へ向かって一礼した。

「お坊ちゃん方にお嬢ちゃん方!

 小さなマチルダに盛大な拍手を有り難うございます。

 フリーク・フェアに感謝を。マチルダに敬意を――。さて」

 深い礼を終えて、声はきわめて軽い調子を帯びる。

「ここに居合わせた皆々様はおそらくよほどの人形愛好家でいらっしゃることでしょう。私ども《幕間座》にとって、この場は云わば大一番! 目の肥えたお客様方にとって見るに堪えるかは私の腕次第でしょう。おっと、つまらないお喋りを失礼致しました。私は座長、セリウス・イワーノフ。歌声を披露しましたこちらはキャンディ・ポップ!」

「よろしくね!」

 歌声よりも幼い印象の声が響く。拍手がもう一度起こって、キャンディは方々へ投げキッスを振りまいた。

「本日の演目は、みなさまがたと一緒に初心へ帰ろうと存じます。もっとも有名で、もっとも愛される、お馴染みの物語をお楽しみ頂きましょう。エナメル質の瞳を持つ乙女、コッペリアの物語――」

 キャンディが舞台裏へ姿を消し、イワーノフが役者たちを準備する。

 大抵誰しも幼いうちに触れる機会のある物語が今回の演目のようだ。誰もが知っているから、細かい説明をせずに済むし、それだけ演者も観客も演出に集中できるだろう。フリーク・フェアで上演するには無難な選択だ。

 アレックスはほとんど無意識に席を立ちかける。

 見なくても構わないと判断したからだ。

 彼らの興行は何度か目にしたし、毎回真新しい趣向が凝らされるわけでもない。

 正直なところ、一度見ればそれで充分な娯楽なのだ。

 しかし、少年は改めてベンチに腰を下ろす。

 以前、フランに請われたことを思い出した。

 彼女はこの催しに興味を抱いていた。

《幕間座》の興行を夢中になって見つめているようだった。

 だからどうしたわけでもない。

 自動人形の意思を尊重するなんて意識はまるでない。

 だけどもう少しだけ座っていようと思った。

 ジゼルの屋敷に帰るまで、まだ時間が欲しかった。

 ここに留まる理由が欲しかった。それだけだ――。

 小さな舞台の幕が上がる。

 幕の向こうに現れたのは粗末な服を着た、目だけは若者のようにぎらついた老翁だ

 揺り椅子に座るのはキャンディだ。頭に結んだ大きなリボンは、どの劇団による公演でも同様に『コッペリア』役を示す何よりの目印だった。

『素晴らしい、私の人形だ。

 コッペリア、ああ、コッペリア。

 私のための少女だ。

 完全無欠の美貌と微笑み、愛らしい指先に美しい脚。

 何もかも私の思い通り、私の望みどおり、いいやそれ以上だ!

 愛されるために生まれた乙女よ、コッペリア、さあ、目覚めておくれ』

「魔術師であり、人形師でもある――彼の名はコッペリウス」

 たった今完成したばかりの魔術的人形を前に、あとは彼女が自分から微笑み歌いだすのを待つだけだった。

 だというのに、どんなに呼びかけても、どんなに揺り起こしても、彼女が動き出すことはない。

『全ては計画通りだ。

 すべては理論に従うまま、そして理論は完璧に正しい。

 何故だ、何が足りない?

 この娘が息吹を得るために、ああ、魂が足りない――!』

 男は彼女の背中のネジを巻く。

 きり、きり、きり。ゆっくりと少女が置きあがり、ぎこちなく手足を動かした。

『ワタシハ、コッペリア。アナタノ、オニンギョウ』

 抑揚のない声で名乗って、かくり、と首を傾ける。

『コッペリア、すまないね

 魂を与えてやるまで少し時間がかかるのだ。

 しばらくは機械仕掛けで我慢しておくれ』

 関節が固まってしまったかのような滑稽な動きで、コッペリアは頷いた。

『ハイ。ワタシハ、コッペリア。アナタノ、オニンギョウ』

 魔術師は魂の入手法についてあれこれと頭を悩ませる。

 部屋の中を行ったり来たり歩き回る様を、すこし遅れた動きでコッペリアの目が追いかけた。

 かくり、かくり。コッペリアが動くたび、首が傾く音が立つ。

「彼は考えました。考え考え、魂を誰かから抜き取ってしまおう、盗みとってしまおうと邪悪な思いつきに傾きました」

『生き生きとした若者の魂が良い。

 誰にしようか。誰でもいい。

 機会があれば逃すまい。機会がなければ作るまでだ。

 待ってておくれ、コッペリア。もうすぐきみに会えるから』

 コッペリウスは喜びに震えてたまらずダンスを踊り出す。

 ぎこちなく動くコッペリアと一緒に。

 ぎちぎちと関節の軋む音が音楽に混ざる。

 かくり、かくり。

 あちこちに首を傾けながら、彼女は造物主のダンスに踊らされる。

「運命の時がやってきました。憐れな若者が、コッペリアの美貌に惹かれて恐ろしい魔術師の屋敷に忍び込みます。

 ああ、危ない――!

 彼は少女の美しさに見とれ、背後の魔術師に気づかない!

 気づいたときには、もう遅い。

 強い酒をこれでもかと含まされ、若者は眠ってしまいます」

 捕らわれたのは婚礼を控えた村の男だ。婚約者がいながら、屋敷の窓辺にたたずむコッペリアに惹かれた浮気な若者だった。

 そのためさしたる同情もせず、魔術師は儀式の準備を整える。

『こっちへおいで、コッペリア。

 もうすぐきみに命が宿る。

 この愚かな男から、魂を頂いてしまおう。

 彼の命が君の命に。彼は人形のようになり、君は人間のようになる』

「儀式は時間がかかるものだ。

 男の傍らにコッペリアを用意して、魂の移し変えをする間、彼は余りの酒を呑んで眠ってしまう。

 ああ、とても良い気分。素晴らしい夢心地。

 目覚めたら、それはすべて現実になっている――」

『おじいさま、おじいさま』

「甘やかな声に目を覚まして、彼は彼女を見た。

 夢に見た、心から望んだ、彼女の姿は輝いて見えたことでしょう」

『おお! おお、素晴らしい!

 私の乙女よ、コッペリアよ!

 血の通ったばら色の頬、花びらの唇に微笑みが咲いている。

 しなやかな手足でワルツを踊ろう、私の愛する娘よ』

『ええ。ええ!

 素晴らしいわ。私は乙女、コッペリア。

 あなたのための、愛されるための娘よ。

 一緒にワルツを踊りましょう、今日は私のお誕生日ね』

 手に手を取って二人は踊り出す。

 キャンディ扮するコッペリアは生き生きと踊り出す。

 軽やかにステップを踏んで、操り人形のコッペリウスをリードする。

 絡まりそうな糸をあざやかに捌いて仮面の男は物語を進めた。

「――さて、コッペリウスが喜び踊っているあいだに、舞台からは一人の役者が消えております。 お気づきですかな? 魂を抜かれたはずの村の男です」

『たいへんな目にあった。

 あれは恐ろしい魔術師だ。

 みんなを呼んで懲らしめなければ』

 背景は村の広場に変わる。

 コッペリウスの屋敷の窓から二つの影が躍っているのが見えた。

『スワニルダ、ぼくの花嫁。

 今しばらくうまくやっておくれよ。

 あの魔術師の目を誤魔化しておくれ』

「なんと間一髪、彼は難を免れたのです。

 というのも彼の勇敢なる花嫁が機転をきかせ、コッペリアに成りすまし、魔術師の目を欺いたからでした。魂を抜き取られることもなく、男は逃げ仰せ、今にも助けを呼びに走る、走る――」

 場面が転換する。背景は再びコッペリウスの屋敷へ。

「コッペリウスはまだ酒の残る赤ら顔をして、子供のように無邪気な笑みを浮かべています。心の底から幸せそうに、命を得たコッペリアと踊っています。己を欺く村娘の扮装と気づかぬまま――。なんて素晴らしいのだ、なんて喜ばしいのだ、と繰り返し世界を賞賛しています」

『コッペリア!

 私の、私だけが愛するための娘。

 もう、君以外に何を望むというだろう?

 君さえいれば私の人生は完全だ。

 もうひとつの曇りもない、悲しみも嘆きも消し飛んで、

 私の頭上にはいつだって暖かな陽が注ぐだろう。

 すべてが輝いて見える!

 世界は憎んだほどに醜くなかったのだ。

 見限るほどに下らなくなかったのだ。

 なぜなら君と出会えたのだから。

 たった一人の、僕だけの君に。

 コッペリア、今日は素晴らしい日だよ。

 君と一緒に僕も生まれ変わったのだ。

 僕は救われたのだ』

『なんて熱烈な言葉、わたし、感激しましたわ。

 ――彼にこれほどまでに熱心に口説かれたことなんてあったかしら?――

 おじいさま、生んでくれてありがとう。

 わたしも今、同じように素敵な心地でいるわ。

 ――こんなに浮かれて、滑稽ね。自分のお人形じゃないって、そんな区別もつかないのかしら――

 おじいさま、キスをしましょう。

 あなたの額に口付けをさせて』

「村に鐘の音が響きます。祝福のように、警告のように。

 それは合図でした。

 準備が整ったことを報せるために、彼女の婚約者が鳴らしたのです。

 スワニルダは口付けるそぶりをして、さりげなく魔術師の視界を塞ぎました。

 そっと窓から忍び寄った村の若者たちが、一瞬で魔術師の身体を取り押さえます」

『何をするのだ、お前たち。

 コッペリアに触るんじゃない!』

 慌てふためく魔術師の声。

 舞台は暗転し、降りた紗幕に影絵が投影される。

 屋敷の中がめちゃくちゃにされ、悲痛な魔術師の叫びと、勇ましい若者たちの雄たけびが上がる。

『魔術師を懲らしめろ、魔術師を懲らしめろ!』

 破壊の音。

 舞台照明が赤く、白く、ちかちかと点滅する。

 やがてすべての音は消える。

 紗幕が上がり、踏み荒らされたコッペリウスの部屋が晒される。

 コッペリアが座っていた安楽椅子はばらばらに壊れ、そして、コッペリアもまためちゃくちゃに壊れていた。

 壊れた少女人形の前で魔術師は途方に暮れている。

 遠くで婚礼の祭りが執り行われ、明るく華やかな音楽が、人々の楽しげな声が響いていた。

 部屋は暗く、動くものはなく、魔術師はただむなしく響く祭礼の音を恨んでいる。

『愛するための、私の、永遠の少女よ。ああ――』

 嘆きの吐息が長く尾を引いて、余韻を残して幕は下がった。

 しばしの間の後、次第に拍手が打ち鳴らされる。メイン・テーマの流れる中、演者、操り人形たちがカーテンコールに次々と姿を現した。

 コッペリアとスワニルダの二役を演じわけたキャンディは、壊れたコッペリアの小道具を抱いて明るく愛想を振りまいた。

 観客からの盛大な拍手を浴びて満足そうに踵を返す。

 壊れたコッペリア人形はキャンディにとても良く似ていた。

 いつの間に入れ替わったのか、アレックスも見極められずに驚いた。

 あるいは、精度の良い目を持つ自動人形なら、入れ替わりのタイミングを教えてくれるかもしれない。フランには期待できなかった。彼女は動力の節約を何より最上に置いて、余計な機能を極力削いであるのだ。

「勇敢な花嫁スワニルダとその婚約者は、魔術師を懲らしめた勲章を頂き、末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし。

 ――そして、魔術師コッペリウスが、その後どうなったか。永遠の少女コッペリアを、どうしたのか。それはご覧になったお客様方がお好きなようにお考え下さい。

 では、ヘデラ・マカロワ葬礼堂での《幕間座》の出番はこれにてお終い」

「もっと見たいお客様はぜひ、お昼ご飯のあとで、駅前広場に来て頂戴ね! また会えたら嬉しいわ!」

 おひねりを集めながらキャンディが叫ぶ。

 手渡された紙幣を丁寧に受け取ってお礼を言いながら、観客たちの足元を歩いていく。アレックスの膝の前も彼女は歩いて通った。

 子供と見るや、小遣いに期待はしないらしく素っ気無く通り過ぎていく。

「商売人だな、あの子は」

「いいえ、自動人形です」

「そう、商売自動人形だ」

 フランの訂正に律儀に返す。

 勿論皮肉交じりだが、フランが気づくわけもない。

 祭りの気分のせいか《幕間座》の座長はいつか見た町での様子とは異なり、観客に囲まれ質疑応答に追われている。上演が終わっても役者じみた仕草は変わらず、分かったような分からないような受け答えをしていた。

 しばらく、何の気もなくそれを眺める。

 気づけばすっかり町は賑わいはじめて、方々で商売が始まっている。

 この葬礼堂の周辺にも許可を得ているのか否か、行商人が思い思いの店を広げて客寄せをする。

 丁度昼食時に相応しい食べ物を売る屋台も便乗していた。

 朝食も摂らずに来たことをようやく思い出す。

「戻ろう、フラン」

「はい」

 良い気分転換にはなったと思う。

 来た時よりも大勢の客とすれ違いながら、葬礼堂を後にした。

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