第10話 夜に目覚める街-05



 何度か覚醒とまどろみを行き来して、町の喧騒にいよいよ睡魔を散らされた。

 ぐったりと、今までにないくらい眠りこけていたことに驚く。

 眠り過ぎると疲れるのだとはじめて知った。

 頭は重く、体を動かすのも億劫だ。

 フランの姿を探す。もうメンテナンスは終わった頃だろう。

 まだアトリエにいるのか――否、部屋まで運んでくれたらしい。

 アレックスはしかし、まだ不鮮明な視界に違和感を禁じえない。

 フランの、髪が長い。

 衣装も違う。

 一瞬腹立たしさに体温が上がったと感じた。

 メイベルが勝手に手を加えたと思ったからだ。

 次に腹の底が冷えた。

 思い出の中の姿が引き出されて勝手に沢山の記憶と結びつく。

 彼女は髪が長かった。いつも少し青白い顔をしていた。

 それでも微笑みは暖かかった。膝に抱えて絵本を読んでくれた。

 そのときに頬に触れる姉の髪が、くすぐったくて、でも、嬉しくて――。

「誰だ」

 頭を振ると、眩暈に視界が揺れた。

 どうにか問うた声はかすれていて、侵入者には届かなかったようだ。

 そこにある人影を侵入者だと判断して、奇妙なことにアレックスは安堵している。

 彼女はドアの横に張り付いていた。

 まるで光の粒子を振りまくように輝く手入れの行き届いた髪だ。

 華やかなワンピースに少女趣味な装飾が散りばめられていた。

 見るからに高価そうな衣類だ。

 頭は既に覚醒して、少年は身を起こす。

 自然と、アレックスは彼女を自動人形メイトだと判断した。

 生きている人間は必ずどこか疲弊しているはずだ。

 整ったもの、綺麗なもの、大切にされた痕跡を感じるものを自動人形だと見分ける感覚を自然と身につけていた。

「誰の自動人形だ」

 声を掛けると、少女は飛び上がって驚いた。

 ドアを背に振り返ると、計算高くスカートの裾がふんわりと膨らむ。

 長い髪が視界に軌跡を残して翻った。

 薄暗い部屋の中、ぴかっ――と、赤く、瞳が光る。

 それが答え合わせになった。

 自動人形は、瞳が光るのだ。周囲を認識し、情報を収集するためのセンサーの反応だ。わざわざ赤く光るのは、それをもって人間との区別をつける、最も簡単な要素にするためだった。

 彼女は自動人形だ。

「あ、あのっ、私……お願い、匿ってっ!」

「嫌だ」

「ひどい! そんな、せめて話だけでも聞いて……」

「顧客の預かり物だろう。係わり合いになりたくない。メイベルはどこだ」

 靴を履いて上着を羽織る。空気を入れ替えようと窓を開けると途端に冷気が吹き込んだ。一緒に、町の賑やかさも流れ込む。

 陽気なショーナンバーにあわせて、通りで酔っ払いが踊っている。

 有名なミュージカルの一場面の再現を熱狂的に歌い上げる。

 調子はずれの歌声を、窓を閉めて排除した。

「あのぅ」

「まだ居たのか」

 新顔の少女人形は不安そうに眉を寄せてアレックスを見つめる。

 素足が見た目にも寒々しい。

「アトリエへ戻れ」

「でも……私、隠れなくちゃ……、あの、しばらくこの部屋に隠れさせて下さらない?」

「断る」

「お願い! でないと、私っ、またあのお屋敷へ連れて行かれちゃうの。

 もうあんな酷い仕事はしたくないの。私、もう……耐えられないの。

 娼婦なんて、出来ないわ!」

娼人形館ドールハウスの自動人形か」

「ちがうわ、ちがうわ! 私は、ただの小娘よ……」

 ともかく誰でもいいからアトリエの人間を捕まえて引き渡さないことには、うるさくて仕方が無い。

 ドアを開けようとすると自動人形が立ちはだかって邪魔をした。

「お願い、聞いて。どうか、情けをかけてちょうだい。私はミカエラ。

 人買いに買われてこの町に来たの。それからずっと仕事を強要されてるわ。

 今日、ようやく命からがら逃げ延びてここへ来たのに、ここの人たちは私を送り返すって言うの」

 アレックスは疲労感に息を吐いた。

 ミカエラに付与された性格パターンは《乙女ヒロイン》か、《令嬢レディ》だろうか。

 娼人形館の自動人形なら細かなカスタマイズが施されていても不思議はない。

 自己主張の強い自動人形は苦手だった。

「メイベル。メイベルは居ないのか?」

 預かりものの自動人形を乱暴には扱えない。

 ドア越しに呼びかけるが廊下に人の気配はなかった。

「ミカエラ。悪いようにはしないからそこを退いてくれ」

「嫌よ。あの人たちに言いつけるんでしょう。自動人形のお医者さんって聞いたから、きっとお優しい人だと思ったからここへ来たのに。私にはもう行く場所なんてないんだわ。だったらまた別の場所へ逃げるしかないもの」

 服の裾にしがみつく指を払えない。アレックスは涙を流す自動人形を前に固まった。こんな無駄な機能を開発して搭載させた科学者を罵りたい気分だ。

 少女は膝を床について、アレックスの目線に近づいた。

「あなたは旅をしているのね」

 ベッドの傍らの旅行鞄と、ディスプレ・ペーパーに投影している地図が、アレックスの今後の行動を伺わせた。

 自動人形は真剣な眼差しで、体を触れ合わせんばかりに詰め寄って言う。

「私も連れて行って」

 少女の胸の辺りから、形容しがたい駆動音がほんの僅かに響いていた。

 深く、ゆっくりと収縮する空気の音は深呼吸にも似ている。

 娼人形ココット・マシンは本来主要な機械を納めるべき場所に別の装置を組み込むため、通常の自動人形が腹部に有する心臓を胸部に収納している。

 だから、人間と同じように胸の鼓動が聞こえた。

 これを、彼女たちの役割に重ねて『恋する人形』などと例えて好む者も多い。

 ミカエラはいつしかアレックスの手を取って、そっと両手で包んでいた。

 祈るように頭を垂れる。

「お願い。一緒に旅をさせて」

 思い出したようにアレックスは手をそっと振りほどいて、ミカエラをベッドに座らせた。

「きみとは旅はしないよ。その必要は、僕にはないから」

 意外にも自動人形は大人しく座っている。

 念を押すように肩に手を置き、語りかけた。

「……この部屋に居てくれ。誰にも、きみがここに居ることは言わないから」

 嘘だった。

 言い含めて大人しくさせて、アトリエの人間に伝えるつもりでいる。

 しかしミカエラは安堵した表情を浮かべ、アレックスへ親愛の情を抱いた眼差しを向け、また涙を滲ませて微笑むのだ。

「ありがとう。お名前を聞かせて? 私、あなたにしていただいた親切をきっと忘れないわ」

「……アレックスだ。感謝されるようなことはしていないよ」

 そう、感謝など必要ない。

 今もこうやって、人の言葉を疑うことを知らない相手を騙している。

 その行為に罪悪感を抱くことも馬鹿らしい。

 だけど何故だろう、アレックスは今この空間を居心地が悪いと思う。

「それじゃあ、ミカエラ。くれぐれも、ここに居て。すぐに戻る」

「はい。アレックス。お帰りをお待ちしています」

 そっとドアを閉じて息を吐いた。

 過剰な性格付けをされた自動人形はやっぱり苦手だった。

 もう一度、大きくため息を吐く。

 人の居ないリビングを抜けて、アトリエへ続く階段を下りる。

 通路で丁度ボリスを見かけて、メイベルの行方を問いかけた。

「さあ、配達に出かけてしばらく経つけど……もうすぐ帰るんじゃないかな、一時間もかからないだろうし」

「わかった。僕の自動人形について何か言っていなかったか」

「きみの自動人形? さあ」

 アレックスが自動人形の主人だということも今聞いたという顔をしている。

 これなら直接見たほうが早いだろう。

 アレックスは断りもなしにメイベルのアトリエへ立ち入る。

 背後で、咎めるべきか見過ごすべきかボリスが逡巡していた。

 雑然としたアトリエを眺めて、アレックスは問う。

「……メイベルは一人で配達に行ったのか?」

「いや。トレシャ、受け付けの自動人形が一緒だったはず」

「あのガラクタ自動人形か。それだけ?」

「それだけ」

 何が言いたいんだ、とボリスは困惑する。

 彼を見上げる少年の瞳は冷淡だ。

「フランはどこだ」

「フラン?」

 ボリスの脇を抜け、少年がパブロのアトリエをノックした。

「おはよう、アレク。よく寝ていたな」

「それはいいから。フランはどうした」

「メイのアトリエだ。整備が終わって再起動待ちのはずだが」

「いつの話、それ?」

「そろそろ終わる頃合いだ」

「充電椅子は空っぽだ。寝台には別の自動人形が居る」

「何? もう終わったのか」

 アレックスは返事をしなかった。

「そんなに心配しなくても、メイベルが連れてるんじゃないか。

 アレックス、慌てないで待ってろ」

「慌ててなんかいない。ただ所有物の管理が出来ないから居心地が悪い。

 ――そうだ、居心地の悪い理由がもう一つ」

「何?」

 話が自分とは無関係になってきたと判断して、ボリスがアトリエへ引っ込みかけた。その足を、少年の言葉が引き戻す。

「僕の部屋に娼人形がいる。厄介に設定依存したやつだ。あれをどうにかしてくれないか」

「娼人形?」

 ボリスの声が裏返った。

 彼の顔に、今すべてを理解した表情が浮かんでいる。



 パブロの説明を聞いてすぐに事態を察し、アレックスは夜の街へ飛び出した。

「わっ、子供がこの時間に出ちゃだめだよ!」

 ボリスの制止を振り切って、《女神通り》を目指す。

 単純な取り違いで、話をして通るのならばこんなに慌てて駆けてはいない。

 問題なのはフランを届けた先が娼人形館だからだ。

 今ではすっかり珍しいもの見たさの観光資源と化して、形式だけの娼人形も多いとはいえ、この町は自動人形文化の発生の地と言われるほど、昔からその種の商売を扱っていた。

 だから今でも本来的に営業している娼人形館が多く存在する。ミカエラが働かされていた館もそのうちの、とくに一番とっつきやすい部類の店だった。

 つまり、利用者は格段に多い。

 ミカエラは一番人気の娼人形だという。

 万が一の間違いを恐れてアレックスは娼人形館コッペリアを目指した。

 きっと誰か気づいて、手遅れになる前になんとかしてくれる――と、楽観していて事があっては遅い。

「くそっ」

 悪態をつく息すら凍りつきそうに、夜は冷え切っている。

 風が当たる頬は強張り、眼球が冷気に刺激されて痛む。

 丁度人で込み合う時間帯で、行く先々を阻まれる。

 それを掻き分けて、ただ進んだ。



 取り残された二人が顔を見合わせる。

 パブロはボリスの途方に暮れた眼差しを受け止めた。

「でも、だって、おかしいじゃないですか」

 過ちの原因を頭の中で再検討しているようだ。

 ひとつ呼吸をして、落ち着きを取り戻す。

「取り違えたのは僕の手落ちです、すみません。でも、こんなこと普通、起こらない……ですよね?」

「まあ、そうだな」

 戸惑いがちな確認に、事情を分かっているからパブロも怒るに怒れない。

「所持者の許可があるから僕は自動人形を持ち出せたんです。そう思ったんです。主人の傍から離れたら、防犯装置が働くでしょう? 端末に警告が届くはずだ。だったらその時点で取り返せたはずですよ」

 ひとつひとつ、改めて確認するように言葉にする。

 そうすることで冷静さを取り戻そうと努めるように。

「なのに……どうなっているんですか。通信障害?」

「いや。単純な話、あの自動人形は登録外だ」

 不意を打たれた顔をする。

「所持規定違反ですよ。個体登録と防犯登録は義務でしょ」

 責めるよりもむしろ案じるような口調だった。

「登録漏れなんて自家製には珍しくもないだろ。今回はお前のミスじゃない」

「言い逃れしたいんじゃなくて、ただ……無用心ですよ」

「まあ、いざという時になれば間違いだと分かるだろう。フランには娼人形のユニットは組んでないわけだし」

「ですけど……」

「お前の仕事は、つまり、あの子供を追いかけて守ることだ」

「あ、そうだった! 行って来ます」

 駆け出す新入りを見送って、パブロは細い目をさらに細めた。

「いけないんだー、パブロ」

「自分も責任あるのにねー、ズルっこパブロ」

「む」

 前掛けのポケットに潜んでいた双子の人形に図星を指され、言葉を失う。

 小さな少女たちの頭を押し込んで、ポケットの中へ静めた。

「きゃーっ!」

「あははっ!」

「知恵をつけやがって、ちびどもめ」

「いつまでも子供じゃないのよ」

「あたしたちレディなんだから、そのつもりでね」

 生返事をして部屋へ引き返す。皆が戻ってきたときのために、鍋に火を入れるつもりだった。前掛けを作業用から料理用のものに着替えてダイニングへ向かう。



 マチルダはネオンビスコ近郊の学校へ通う十九歳だ。

 彼女に名前を付けたのは音楽好きの父親で、ポップソングの女王の名を拝借した。

 マチルダ・マカロワは流石女王と呼ばれるだけはあって、「マチルダ」という名の女の子は、毎年クラスが変わっても二人は同じ教室に在籍している。

 大抵、皆、音楽とは無縁の人生を歩んだ。

 マチルダも例外ではない。

 そもそも、調べてみるに、マチルダ・マカロワには輝かしい功績を山と積み上げたその影で、人でなしな面も多く、天才は何かと引き換えにして成るのだなと窺わせる人生を送っていた。

 だから、マチルダは同じ名前を持つ有名人のことをあまり尊敬できないし、彼女の歌にも特別な感慨を抱いたことはない。

 歌よりは彼女自身の私生活のほうが興味深かった。

 マチルダ・マカロワは、自動人形と愛し合う趣味があったという。

「時間だ。ミカエラ、衣装を着るよ」

 マチルダはカーテンを開けて、衣装掛けから服を選んだ。

 予約客のお好みの、純白のワンピース。

 ほぼ同色の糸で縫われた花と蔦の刺繍が、薄い生地に浮かび上がっている。

 肌着のままのミカエラ・ドールへ服を着せた。

 マチルダはぼんやりと自動人形に関わる仕事を志して学校を選んだ。

 そして、なんとなく人と違ったことがしたくて娼人形館でバイトを始めた。

 娼人形に化粧を施し、衣装を着せ替え、客が帰った後に洗浄を行う――という、あまり就き手のない仕事だけに給金は良い。

「……あの子、どこ行ったんだろう」

 今日、控え室で待っていたのは、今までミカエラと呼んで接していた自動人形ではなかった。

 この娼人形館でミカエラという名前はいわば一番人気の娼人形に与えられる称号のようなものだ。その名で呼ばれる自動人形はマチルダがバイトを始めてから半年で何度か入れ替わった。

 ここ一ヶ月はずいぶんと悲劇的な物語に取り付かれた自動人形が《ミカエラ》だったが、今日のミカエラは極端に対照的だ。

 何も喋らない。表情を変えもしない。

 本当にこれでお客さんは喜ぶのかしら。

 でも、控え室でまで演じている必要はないのだから、構わないのか。

「綺麗な人形」

 以前のミカエラも美しかったけれど、今度のミカエラは見た目の端整さに説得力がある。

 こんな少女、確かに存在するかもしれない。

 ふとした瞬間にすれ違って強い印象を残してそれきりになるような、女の子。

 冷たげな頬と、まだ子供っぽさの残る瞳。

 禁欲的に引き結ばれた唇。

 まっすぐにものを見つめる大きな瞳は、好奇心旺盛な少女にも見える。

 髪型は肩ほどで切りそろえられている。

 ロングヘアが好まれる娼人形の中では珍しい。

「ミカエラ、足を」

 少女に赤い靴を履かせて、ベルトを錠で留めた。鍵をポケットに入れる。

 自動人形を一人歩きさせないために踵の高い靴を履かせるやり方は、この娼人形館が出来た十八年前から変わっていないらしい。

 今だったら禁則事項を設定すれば済む話だが、ここへは歴史を感じに訪れる観光客も居るから、様式美として残っている決まり事だった。

「さ、行くよ」

 車椅子を押して寝室へ運ぶ。

 客が来るまでもう間もない。

 ベッドに寝かせて姿勢を整えるあいだも、ミカエラはまるで旧来の人形みたいに無反応のまま、じっとしていた。

「大丈夫かな。故障? まずいな」

 端末の時計表示を確認して、主任に連絡を取るべきか迷う。しかし受け付けのベルが来客を告げ、マチルダは反射的に客を迎え入れてしまった。

 そういえば、ミカエラはつい先刻工房から受け取ったのだ。

 つまり、不具合を修正されたばかりと解釈していいはずだ。

 ならば、何も心配はないだろう。

 マチルダは自動人形の扱いの説明を一通り述べて、既に体に刷り込まれた手順で客を部屋へ案内した。

 客が予約した時間は九十分。

 その間に他の客の予約はない。

 ここも年々客が減ってきた、とオーナーはよくぼやいているが、大好きな沢山の自動人形に囲まれる暮らしにおおむね満足している様子だ。

 倒錯的なサービス施設だと思うが、オーナー自身はほがらかで良識的な老紳士だ、とマチルダは感じている。女性のマチルダがここで働くことを一番心配していたのも彼だった。

 彼の手伝いに少しでもなれればとそんな気持ちが沸いたことをマチルダは思い返す。よし。仕事をしよう。

 待機の娼人形たちを綺麗にして、衣装に不備がないかを点検して――そうだ、《ミカエラ》が新顔になったからダイレクトメールを作る必要もあるだろう。

 マチルダは事務室へ戻り、仕事をひとつひとつ頭の中でリストアップした。



 二十二時から、二十三時半まで。

 予約を入れたのは四十三歳の会社員フィリプ・スタナスだ。

 出張のためフォルテスの支社からエレギアに建つ本社へ今週末まで出向していた。

 家族から離れてホテル暮らしの数日間は、振り返ってみれば良い気分転換だった。

 妻子を愛しているが、自分の時間を作ったことなど何年ぶりだろうと驚く。

 結婚するまでは自分の自動人形を持っていたが、新居は狭く妻も嫌がったからあの人形は今も実家の部屋に横たわっている。

 きっとこの先電源を入れることがあってももう動かないだろう。

 稼動限界の四年はとっくに過ぎていた。

 勿論、メモリデータを復元することも可能だが、もうそこまでの情熱も執着も持ち合わせていない。

 娼人形館へ足を運んだのはふとした好奇心からだった。

 以前、自動人形が趣味の同僚が言っていた。

 昔のまま自動人形を使う町がある。

 というのはつまり、マチルダ・マカロワが自動人形を一般大衆化するより以前の文化が未だに残っているのだ。その頃はまだ、自動人形はいかがわしいだけの、ひっそりと楽しまれる娯楽だった。

 同僚は更に言った。

 本当に後腐れがないのは自動人形だ。

 人間関係を傷つける恐れも、病気がうつる心配もない。

 何より法令上、人形相手に浮気は成り立たない。

 何の罪悪感もなく楽しい思いができる。

 その甘言に惹かれて、フィリプはこの店に予約を入れた。事前に詳しく調べをつけて、どうやらここなら安心らしいと納得したうえの選択だった。

「ごゆっくりどうぞ」

 若いスタッフが部屋へ案内して、一通りの説明の後に去って行った。

 この店の安全性と自動人形を扱う上の注意はすべて事前に調べたとおりの内容だ。

 部屋に残され、自動人形の少女――娼人形へ向き合う。

 エナメルの赤いハイヒールの光沢を、フィリプは見下ろした。

 赤いベルトが足首を交差して錠で結ばれている。

 白い足首は華奢で、ぽっこりと突起したくるぶしに赤い色のコントラストが妙に艶めかしい。ふくらはぎの曲線を追って、複雑に折り重なるスカートの裾を視界に入れた。丸みを帯びた腰にそってスカートは歪曲している。

 まだ大人へ育ちきっていない、曖昧な年頃の体つきを前にフィリプは感心のため息をつく。

 自動人形に熱を上げたのは十年以上も昔になるが、当時に比べて技術は驚くほど進歩している。精巧の一言だ。

 人形相手は浮気にならないなんて同僚はよくも言えたものだ。

 ここまで似通っていたら、もう人間と何が違うのかと考えてしまう。

 今のフィリプに言えるとすれば、こうまで無遠慮に眺められて身じろぎひとつしない様子は、確かに人形めいている。

「あの、はじめまして」

 確かめようと思ったからか、それまで躊躇っていた一言がようやく喉を出て行った。

「きみがミカエラ?」

 何と言葉を次いでいいものか悩んだ結果がこれだ。

 無反応だった自動人形ははじめて口を開いて、

「いいえ」

 血色の良い唇がごく短い否定語だけを答えた。

 一瞬空白になった思考を取り戻し、やっとうろたえたフィリプの耳に鋭いノックの音が続けて二度、届く。

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