第9話 夜に目覚める街-04

「ああ、遅くなっちゃった」

 アレックスの部屋を訪ねる。

 思わぬ大物の仕事が入ったために、フランの最終チェックは日が暮れてからになってしまった。

 すべて問題なし、状態は新品同様に限りなく近い良好なものだ。欲を言えば造形面のケアも欲しいところだが、メイベルにとっては専門外の分野だ。造形の技術もこの際学んでおくべきか、とただでさえ無い時間の捻出法に頭を悩ませる。

「アレックス。終わったよ。今再起動を設定して、あと一時間くらい――」

 昼過ぎには起き出して昼食を摂っていたが、作業に追われて言葉も交わせなかった。遅くなったことに腹を立てているかもしれない。

 ノックをしても返事はなかった。

「おーい? 入るよ」

 一応返事を待って入室する。

 荒れ果てていたはずの部屋が動線を確保するように片付けられていて、ある程度は快適な生活を送れるような環境になっていた。

 旅の疲れも取れないだろうに、明日にも発ってしまう部屋を掃除するなんて。

 メイベルは少年の性格を――あるいは精神状態を、心配した。

「おや」

 寝息が聞こえる。

 ベッドの上で、力尽きたように体を投げ出してアレックスが眠っていた。

 毛布をかけてやって、瞼の上の髪を払う。

 身じろぎして毛布を体に巻きつけるその仕草に動物的な愛らしさを感じてうっかり笑ってしまった。

「ほれ」

 ほっぺをつつく。柔らかい。人間は不思議だなぁ、と感慨深く思う。

 自動人形メイトの造形において、こんな柔らかさを持ちながらも確かに形を保つ技術は、まだ存在していない。

 感触を研究するかのように何度か触れる。

 そんなことをしても目覚める気配がない。

 外ではそろそろ町が目覚める頃だ。

 また陽気な音楽と客たちの喧騒が舞い戻ってくる。この子は今夜の分の睡眠を先にとっているのかもしれない、とメイベルは思い当たる。

「アレックス、疲れてるんだ」

 目覚める気配もなく眠りこけている。

 あどけない寝顔に問いかける。

「ねぇ、いつまで続けるつもり。もう、警察も動いてくれないのに」

 いつだか、同じ問いかけをした。

 少年は今も同じように答えるだろうか。

「背、伸びたね、アレックス。髪も……後で切ってやるか?」

 まぶたにかかる前髪を払う。

 初めてここを旅立った時から髪も伸びていた。

 きっと手入れもせずに放置しているのだろう。

 フランのことは丁寧に扱うくせに、自分のこととなるとこの子は無頓着になる。

「じゃ、またあとで」

 結局伸びてしまった配達を済ませなくてはならない。

 丁度事務所を閉める時間だ。

 トレシャが店じまいの作業をしている頃合いだろう。

 アトリエに寄って包みを抱え玄関へ向かう。

「メイベル」

 トレシャの呼ぶ声に足を止めた。

「お客様です」

「滑り込みだね。ご新規?」

「はい。ただ、困ったことに、メイトが単体で……ご主人様をお連れでありません」

「はあ?」

 ご主人様を連れていない自動人形とは。

 なんだか主客転倒も甚だしい物言いだ。

 トレシャもボロいところがあるからな、またメンテだ、こいつはいつでも余裕で十個くらいエラーを吐くわ、処理が重くて時間はかかるわで手が掛かるのだ。

 メイベルは手入れのことを考えて自然と楽しげな表情になっている。

 面倒臭い自動人形、これ程楽しい相棒はいない――と、彼女はそう思う。

「良いや、ギリギリだけど通しちゃおう。話聞くだけで、あとはパブロに任せる」

「はい。パブロをお呼びします、先に受け付けでお話を」

「うん。ご苦労、よろしく」

 アトリエの通路からガラスの戸を開け事務所へ入る。

 受け付け終了時間のためカウンターは電灯を消して、フロアにだけ灯りが落ちている。影になった部屋の隅に点検のための診察台と来客用の椅子が数脚並んでいた。

 人間用のものも、自動人形用のものも。

 そのどちらでもない、応接用のソファに彼女は座っていた。

「暗い部屋で失礼しました。お待たせして申し訳ありません。ようこそ工房コッペリウスへ。……今日はいかがなさいましたか?」

 依頼人は俯いて、長い髪で顔を隠している。

 高級そうな服を着ていた。

 自然と、この街の女性に多い職種を連想する。

 彼女たちは自らの人気を示すために高価なカスタマイズを施した自動人形を連れていることも多いから、名簿にも多くの名が連なっていた。

 新規の客が来ることも不自然には思えない。

 勿論、この場合の客は自動人形の持ち主を意味する。

「お客様?」

 答えない客を怪訝に思う。

 ふと気づいて視線を足元へ向けた。

 彼女は靴を履いていない。レースと細やかな刺繍の花園がちりばめられたワンピースを着ていながら。

 不完全なコーディネイトを一瞬不気味に思う。

「あのぅ」

 か細い声が聞こえた。

 メイベルは聞き逃すまいとガラステーブルに身を乗り出す。

 しかし偶然にも来客のほうも身を乗り出して、次ははっきりと、部屋中に響き渡るほどの声で叫んだ。

「助けてくださいっ!」

 声量の大きさにまず驚いた顔をして、次に言葉の内容に首を傾げ、メイベルは改めて来客を見つめた。

 彼女が顔を上げると髪が自然に肩へ流れ、その容貌が明らかになる。大きな瞳は瑞々しく輝いて、小ぶりで形の良い鼻が清楚な印象だ。

 熟れる直前の果実のような唇は、張りを持ちながらに柔らかさを感じさせる。

 整った眉を今にも泣き出しそうに歪め、すがるようにメイベルを見ていた。

「ここは自動人形の病院なんですって、お客さんが話していたのを聞きました。あなたが自動人形のお医者さんなのでしょう? 自動人形に悪いことはしないのでしょう? ここへ来たら助けてもらえるって、私、それだけを望んで来ました。もう、あんな場所で働くのはイヤなんですっ。お願いします、先生、私を助けてください!」

 大きな瞳にじわりと涙が浮かぶ。

 少女は小さな手で頬を覆い、ひくっとしゃくりあげた。

「メイ、来客を泣かすな」

「あー! メイベル、いけないんだっ」

「メイベル、いじわる、いじめっこー」

 トレシャに連れられたパブロがかしましい小娘たちを抱えてやって来る。

「違う。客じゃなくて、この子は――」

「ミカエラと申します。《女神通り》の突き当たりのお屋敷に勤めていました」

「自動人形か」

 初対面の人間に対する振る舞いや細かな仕草を見て、パブロは来客の正体を知る。

娼人形ココット・マシンだ」

「やっぱり、そうか」

「《女神通り》の突き当たりというと、ええと、トレシャ?」

「はい。娼人形館ドールハウス《コッペリア》、創業十八年、現経営者ミハイル・ボーン。顧客番号〇〇八番に登録があります」

「ボーンさんのところのメイト?」

 常連客の上客だ。多くの自動人形を抱えているため、定期メンテナンスや修理は月に何件も依頼がある。

「ミカエラちゃん」

 確かめるような呼びかけにミカエラは不安げに頷いた。

 己の身元が判明してしまったことに怯えている様子だ。

「この子、最近一番人気の娼人形だぞ。どうして一人歩きなんかできたんだ」

「私……あの、私は……」

 覗きこむパブロから顔を背けて、おどおどと体を縮こまらせた。

「まだ一度も預かったことないよね、あなた。一人でここまで来たの? 誰か付き添いは?」

 黙って首を横に振る。

 ミカエラはメイベルへ向き直って、意を決したようにふくよかな唇を開いた。

「私、逃げてきました。あの人のところではもう働けません。もう……働きたくありません」

 語尾が震えて、途端に涙が溢れてこぼれる。

 あとからあとから流れる涙を華奢な指先で不器用にぬぐいながら、己の生い立ちとここへ来た理由を語り始めた。



「私は先月、この町へ来ました。以前はロウェルの工業島に家族と一緒に暮らしていました」

 少女は可憐に手を組み合わせ、不幸な身の上を語る。

「ある日突然、怖い大人たちが私を縛りつけ、箱に閉じ込めて船に乗せました。

 借金のかたに売られ、ご主人様の屋敷へ……。

 私は掃除やお料理をするためにお屋敷に雇われたのだと思っていました……」

 言葉を詰まらせ顔を手のひらで覆う。

 嗚咽する少女人形の側で、メイベルは眉を歪めた。

「ねえ、今時の自動人形には家族がいるの?」

「設定だろ」

「借金のカタだって言ってるけど」

「それも設定だ」

 メイベルの疑問にパブロが淡白な回答を返す。

 気に留めず、ミカエラは己の悲劇を語り続けた。

「ご主人様は私を可愛がってくださいます。

 ですが、それもお日様の出ている間だけ。

 夜になると悪魔が目覚めて、私に非道いことを命令なさるのです。ああっ……」

 震える肩を抱きしめて、ミカエラがうなだれる。

「なんだかお芝居見ている気分だよ」

「そういうもんだ、娼人形は」

「あんた詳しいのね」

「この町に住んでいれば詳しくもなる」

「そう、この町は、恐ろしい町なのです。

 私たちのような若い娘にとっては地獄も同然。

 腹を空かせたけだものの檻の中――。

 遠くに暮らす家族を思って、私は耐え忍んで来ました。

 おぞましい仕打ちを甘んじて受け入れ、この体が穢れるままに任せて……

 でも、もう、限界です」

「ふむ。よく学習した自動人形ね。そして計算されたこの少女観、大味だけれど需要はある。さすが町一番の売れっ子」

 他人事の目線で品評を下した。パブロも同意するように唸る。

 ガラス張りの壁の外で、町は完全に目を覚まし、活動を始めている。

 看板には次々に光が灯り、眩く輝き、明滅し、行き交う人の関心を引こうと様々な努力を払っている。

 ひときわ目につくものが、カラフルなハイヒールの看板たち。

 一本向こうの通りは《女神通り》と呼ばれる、全国でも一番の密度を誇る娼人形館の激戦区だ。

「どうやってここまで来られた?」

 靴のない足を見下ろしてパブロが問いかける。

「お優しい庭師さんが、親身になって私を励ましてくださいました。

 そのお方は私に同情して、いつかお屋敷から逃がしてくれるとお約束して下さったのです。今日の夕刻、お屋敷がお客様を招く直前のことでした。奇跡のような瞬間に、彼は鍵を見事盗み出して、私の靴を脱がせてくださったのです」

 熱の篭もった言葉を継ぎ、祈るように手の平を重ね合わせる。

「……そうして、ここまで逃げることが出来ました」

「うそ。セキュリティは働かないの? 勝手にここまで逃げてきたんでしょう? 主人の許可もなしに」

 通りに連なる娼人形館を示す看板は、多くの場合ハイヒールの意匠を用いている。

 自動人形にまだ性サービス目的の需要が多かった昔、娼人形が勝手に出歩かないように、その歩行機能を制限するため、踵の高い靴を履かせたことが伝統として受け継がれているのだ。

 ハイヒールでは自動人形はバランスを保てず歩けない。

 勝手に逃げ出すこともできない。

 ――もっとも、自動人形が自らの意思で主人の許を逃げることなど、考えられないことだ。

「ミカエラの中では矛盾しない行動になっているんだ、きっと。体を売ることに傷ついている清楚な少女の設定では、店を逃げ出すことは当然の選択だろう」

「うん。あんた、やっぱり詳しいな」

「今はその話はいい」

「盗難だと勘違いされると非常に厄介です高価な品ですから、損害賠償を請求されたらアトリエを売らざるを得なくなる可能性が大きいですよ。」

 トレシャが算出した数字を聞いてメイベルの目が点になる。

「それは困る! でも、悪いのは鍵を外した奴じゃないの?」

「正当な立場を保ちたければ早いところ話をつけて送り返したほうが良い」

「そうねぇ。トレシャ、ボーンさんに連絡取って」

 打ちひしがれるミカエラが突然メイベルへすがりつく。

「そんなっ! やめて下さいっ、お願いします。私、ここで働きます。

 なんでもします! だから、あのお屋敷へ帰すのだけは許して! お願いよ……」

 泣き崩れ、指を噛んで嗚咽をこらえる。最新高性能の涙腺は驚くほどに巧みに作動して、少女の瞳の輝きを増幅させていた。

 しくしくと可憐に泣きじゃくる少女人形はメイベルの不得手な性格をしている。

 メイベルは自立心の強い性質だから、こうしてか弱さと可愛さを武器にする女性は苦手なのだ。どうやら自動人形相手でも例外ではなかったらしい。

「パブロ、後は任せたから。あたし配達一件忘れてたんだ」

「おい、押し付けるのか」

「あんた詳しいでしょ。よろしく。トレシャ、行くよ」

「はい」

 パブロと泣きじゃくる娼人形を残し、メイベルは町へ出かけていく。



 なだめすかして泣き止ませ、ようやくミカエラをメイベルのアトリエに押し込めた。泣きじゃくる女の子の姿が通りから見える場所にあっては、店の評判が落ちてしまう。

 パブロは大仕事を終えて息を吐いた。

 まだ途中の仕事があったのに、粘土にまみれた手がすっかり乾いている。

「ボリス」

 新入りのアトリエの扉をノックした。ドア越しに軽い音楽が聞こえる。

「はい?」

「配達を一件頼む。《女神通り》のボーンの店は知ってるだろ」

 パブロのアトリエに比べてボリスの部屋は綺麗なもので、作りかけの自動人形が二体、スタンドに吊してあるほかは散らかっていない。

「ああ、はいはい。了解です」

「今メイベルの部屋に居るメイトだ。言動と挙動がおかしいが無視して構わない。確実にボーンの店に届けてくれ、今すぐに」

「分かりました。じゃ、行って来ます」

「頼む」

 オーディオを切って、学校の課題でもしていたらしい、PCディスプレイの電源を落とす。ドアのフックから上着を取って、メイベルのアトリエへと向かう。

 それを横目にパブロは自分の持ち場へ戻った。

 入った途端に空気が変わる。

 粘土の細かい塵が動くたびに舞い上がり、オーブンの稼働率の高さ故に部屋は暑い程だ。だからパブロのアトリエに暖房器具は置いていない。

 ポケットの中からビスク製の双子人形を出して、作業台の上の寝台に寝かせる。

 彼女たちのために作った、小さいながらに豪奢な天蓋つき、カーテンは美しいドレープを描いている。

 可愛らしい寝顔を眺め、ため息をひとつ。

 ふと新入りに任せてよい仕事だったかと省みて、深く考えたくないからかぶりを振った。



 用を命じられたボリスが大義名分を得てメイベルの部屋へ入る。

 兼ねてから興味はあったものの、メイベルのアトリエに入るのはこれが初めてだ。

 いつもドア越しに覗くだけだった。

 床に空管の束が蛇のようにのたくっている。

 壁の隅に折りたたみの充電椅子が積み上げられていた。

 部屋の一角は完全に椅子に埋め尽くされている。

 壁にずらりと腕の骨組みがぶら下がって、真っ黒な軽量鉄の手がだらりと床を指差していた。反対側の壁には同じように脚が吊されている。

 いかにも職人の部屋という趣に興奮を隠せない。

 作業台には直しかけの心臓がひとつ。

 寝台と充電椅子にそれぞれ自動人形が一体ずつ。

「あれ」

 どちらを届けるのか聞いていない。

 ただ、一体は見覚えがあった。寝台の上に横たわるのは常連客夫妻の自動人形だ。

 子供を儲けなかった夫婦で、もしも二人に娘ができていればと仮定したデザインの自動人形を作らせたものを、もう七年も大事に連れ添っている。

 一般的な自動人形の稼動限界は四年だ。

 夫妻はまだまだ手放すつもりはないらしく、不調の度にこうして『お医者さん』へ連れてくる。

「……じゃあ、こっちだ」

 充電椅子に腰掛ける少女の人形に向き直る。

 長い瞼で瞳を閉ざして、薄い唇を結んでいる。

 すっきりとした顎から頬のラインは冷たい印象を受けるが、整った綺麗な顔だと感じた。流石、娼人形は顔の造形から力が入っている。

 この機会に観察を続けたかったが、時間に気づいて慌てて準備を始めた。

 今は物置になっている空室のアトリエから移送用の台車を運び、棺のような箱へ丁寧に体を寝かせる。

 体重はほとんど人間と変わらない。

 電源を落としているらしく少女人形はぴくりともせず箱の中へ収まる。

 もし起動中だったら目的地まで歩かせればそれで済むが、主人がそばに居ないまま起動してしまうと命令を聞いてくれない可能性が高いから、こうして運ぶ必要があった。

「急げ急げ」

 言い渡された刻限まで間がない。

 近所とは言え、遅配となったら信用問題に関わる。

 ボリスは急いでアトリエを出て、色とりどりの電灯で化粧をした町へと出て行く。



 靴の形をした看板がぴかぴかと輝いている。

 曲線を描くハイヒールは足首のベルトを鍵で繋いだ意匠だ。

 人の命令に従順に従う自動人形を、本来その必要はないのに、従えているのだと露骨に演出することが娼人形館の目的だった。

 店先のショーウィンドウの中に見目麗しく体つきの極端な娼人形が、赤い革張りのソファに寝そべって愛想を振りまいている。隣の店でも同じような展示を行っているが、こちらは自動人形を模した女性が入っていた。

 どこからか漂う、腸詰め肉を焼く匂いが香ばしい。

 屋台があちこちに姿を現し始めた。ほとんどが酒のつまみになるような味の濃い食べ物だ。

「お腹空いた。早く帰ってごはんにしよ」

 配達を終えて身軽になったメイベルが、店の裏通りへ入って、ゴミ捨て場を眺めながら進む。

 いやしいことをしている意識はなかった。

 部品欲しさに必死に探し回ることはしない。

 自然と目に付いたものだけを拾って持ち帰り、必ずそれを修理して自動人形へ組み込んだ。まさかとは思っていたが、廃棄物からまるごと一体作れるほどの収穫になるとは。メイベルは傍らの少女を横目で見た。

「トレシャもそろそろメンテしないとな」

「三週間前に行いましたが」

「だってあんたボロだし。月に二回は必要だな。お客さんを相手にする子だもの、本当ならもうちょっとまともなものが良いんだけど」

「無理は言わないで、メイベル。出来る限りはしているつもりだけど」

 トレシャの口調には呆れが滲んでいる。

「これ以上は根本的な部品の交換が必要よ。最新型の心臓に換えてもらえるのかしら?」

「こいつ。生意気な口を」

「事実だもの」

「ま、そうなんだけどさ」

 ごみ収集日の翌日では目ぼしいものは見当たらない。

 メイベルは大きく伸びをして、大通りへ合流した。

 すぐそばの商業区から流れてきたスーツ姿の会社員たちが隙だらけの顔をして町を行き交っている。

 数時間前まではオフィスのデスクで生真面目な顔をしていただろうにと想像すると楽しかった。

 今は思う様羽を伸ばしている。

 オフィスのビル郡の陰に隠れてしまうような、この小さな町で。

 不意に人だかりが目に付いた。

 いつもは人の集まるような場所ではない、潰れた店を壊した空き地だ。

 時折訪れる行商人や大道芸人が利用している空間だから、メイベルも興味本位で人だかりへ加わった。

「何?」

 初対面の男性に気安く問いかける。

「人形劇だよ。懐かしいなぁ」

 酒臭い声が答えた。メイベルは人の頭の向こうにその看板を見つける。

人形歌劇団〈幕間座〉インテルメディオ・ギニョル

「これ……テラードール? へぇ」

 簡易的な劇場を組み上げ、人形劇の開演準備を整えているのは背の高い男だった。鳥のくちばしのように鼻の高い仮面をつけていて顔は分からない。

 もしかしたら自動人形ではなく人間かもしれない、とメイベルは思い直す。

「テラードールって、公園設置の人形劇装置でしょう? もう十年も前に設置禁止と撤去命令が出たはずですけど」

「うん。でも、個人が買収して巡業させたりしてるって。これもそうかな? もしかしたら大道芸人が真似をしてるのかもしれない」

 まだ子供だった頃、公園へ遊びに行ってはテラードールのそばに集まってお話をせがんだものだった。

 いつしか流行は廃れ、子供の居ない公園で佇む姿を気味悪がられ、世間から消えてしまった文化だ。

「ちょっと見て行こうか」

「良いんですか?」

「急いで帰る用事もないでしょ」

「なら、私は従うまでですが」

 メイベルが通りすがりに見ていくだけの人垣を割って、簡易的な座席に座る。

 周りには飲みすぎたから座って休んでいこうという魂胆の客や、同伴の娼人形と共に並ぶ者、また純粋な懐かしさから腰を据える人もいる。

「お嬢様方に坊ちゃん方! ご笑覧あれ!

 わたくし、幕間座の座長、セリウス・イワーノフと申します!」

 座長は一度ぐるりと客席を見渡し肩をすくめる。

「言葉を改めたほうが無難でしょう」

 咳払いをひとつ。

「お嬢様だったご婦人方、坊ちゃんだった紳士諸君。

 今宵ひとときの人形歌劇団へようこそおいでくださいました。

 わたくしは座長のイワーノフ、そしてこちらがわが団誇るプリマ、

 マチルダ・マカロワの再誕と誉れ高い歌姫――」

「キャンディ・ポップよ! よろしくね」

 準備の整った舞台の上に、小さなビスクメイトが現れてエトワールのようにお辞儀をした。

「かわいい。パブロが見たら喜ぶな」

「今からでもお呼びします?」

「いいよ、教えてやるもんか。独り占めだ」

「なら、私は従うまでですが」

 トレシャは呆れたように答える。

 舞台上では仮面の男の操る役者が現れて、演目の紹介が行われていた。

「本日の劇場はここネオンビスコ!

 出張でお越しになったか、観光においでになったお客様が多いことでしょう。

 そんな皆様に相応しい演目をひとつ」

 役者は糸に操られ、自立稼動するキャンディが物言わぬ人形とステップを踏む。

「ホテル・バニタス。

 さて、この名前のホテルにお泊まりのお客様はいらっしゃいますか?」

 観客の中から手があがった。

 セリウスは快活に笑って肩を揺らす。

「ご冗談の上手なお客様、ありがとうございます。

 ホテル・バニタス。このような名前の宿泊施設は少なくともこの町、ネオンビスコには存在いたしません。

 なぜなら、このホテルの住所は〈物語〉。

 皆様には今宵、このひとときだけ、ホテル・バニタスの宿泊客になって頂きましょう――」

 男が舞台と一体になった回転オルガンを動かして、町の喧騒の中に安っぽい伴奏が流れ出す。

 底抜けに明るく、それゆえにどこか不安になるメロディだ。

 小さな舞台の幕が上がって、ホテルマンが現れる。

 糸に操られて、彼は物語を紡ぎ出す。

「ホテル・バニタス、今日も満員。従業員は大忙し。

 旅行客に出張客、飛び込みの客に家出娘、

 缶詰めの作家に隠居中のミュージシャン、

 今日もホテルは大賑わい。

 西へ東へ、南へ北へ、上から下へ、奥へ手前へ、従業員は運動会」

 リネンを抱え、荷物を運び、客を導き、受け付けを行き来し、人形は忙しなく働き続けた。

「ホテル・バニタス、今日も満員。

 普通の客から変な客、お年寄りから赤ん坊、浮浪者も政治家も訪れる。

 まるでこの町の、いやいや世界の縮小模型! ああ、忙しい、忙しい――!」

 きりきり舞いのホテルマンが壁にぶつかり尻餅をつく。

 鮮やかな指捌きで男は人形に命を与えていた。

『ちりりん、ちりりん』

 キャンディの愛らしい声がベルの音を模す。

 人形は慌てて飛び上がって、舞台上に見える客室のドアへ駆け寄る。

『いかがなさいましたか、マダム』

 ドアの奥へ問いかける。しかし声は聞こえない。

 ドアの向こうからそっとベルの音だけで応えた。

「ホテル・バニタス、八○二号室。連泊客はマダム・ミラージュ。

 言葉を持たぬ常連さん。

 マダムは部屋に住み着いて、ずぅっとここに暮らしている。

 ベルの音で指示を与え、姿を見せずに暮らしている」

『マダム! お食事をお持ちしましたよ。ここへ置いておきますよ』

『ちりりん、ちりりん』

 マダムは返事の変わりにベルを鳴らす。

 いつだって同じように、用事があればベルを揺らす。

『おお、不躾なマダム・ミラージュ、その正体を誰も知らない。

 ――マダム、あなた、本当は幽霊なんでしょう』

『ちりりん』

『おや、否定なさらない。では、実は凶悪な指名手配犯と聞きましたが?

 皆、あなたのことを想像して噂している』

『ちりり、りりん』

『ふふふ。秘密ですって、意地悪なお客様だ。

 さあ、私はもうここを立ち去りますからね、充分気をつけてお食事をお取りくださいよ。誰にも姿を見られぬように』

『ちりりん、りん』

『ああ、お礼なんて良いんですよマダム。どうぞ快適にお過ごし下さい』

 この忙しいホテルマンは、マダムと会うのを楽しみにしていた。

 マダムと奇妙な会話を交わすときだけ、連日の激務から救われ心が軽くなる。

 姿は見えず、正体不明であっても、彼はマダムを気に入っていた。

 マダムと友情を築いているように感じた。姿を現せない理由があるのだと察し、彼女のプライベートを侵さぬように気を配った。

「ホテル・バニタス、八○二号室。

 マダム・ミラージュ。ホテルマンとの奇妙な友情。

 忙しい日々はまわり、まわる。目の回る日々は続き、続く」

 時が経ち、それでも彼とマダムの関係は変わらない。

 愉快なジョークを笑い飛ばすようにベルが鳴り、時に愚痴をこぼすと慰めるようにベルが響いた。

「ホテル・バニタス、、八○二号室。姿の見えない連泊客。皆が噂する幽霊客」

 ある日、不届きな来客があらわれて、マダムのための食事を荒らした。

 捕らえた浮浪者を問いただすと、腹をすかせて毎日ここで食事をしていたという。

『なんと、お優しいマダム。可哀想な男に食事を分け与えるなんて』

『いいや、分け与えてなんてもらっていない。

 だっておれは、いつだって残さず全部食べたのだから』

『そんなことはありえない、それならマダムが餓死してしまう。

 ああ、それともマダムは別の食事を摂っていたのか?』

『何の話をしているのだ。マダムなんておれは知らない。

 ただ置いてあった飯を、誰も食べないから失敬したまでだ。

 誰にも施されていない。正真正銘盗み食いだ』

 気味の悪い事件だったと思う。

 情けをかけて警察には突き出さず、もう二度としないと約束させて、賄いくらいは食わせてやると浮浪者を追い払った。

 ホテルマンは首をかしげる。

 忙しい日々は回り回って、目の回る日々は続き続いた。

 マダムとの友情は、一見、何事もなく続いていた。

 不届きな食事泥棒について意見を交わすこともあった――

 もっとも、マダムは聞き役に徹してベルで相槌を返すだけ。

「ホテル・バニタス、八○二号室。連泊客はマダム・ミラージュ。

 彼女は実在するのだろうか。

 疑いはじめたホテルマン、真実を知る覚悟はなく、ただ日々を回り回る」

 ある日ホテルは一時休業の張り紙を出した。

 古びて傾いた建物を直すという。

 一時的に宿泊客を代わりのホテルへ預け、工事を進めた。

 ホテルはすぐに改修されて、再び彼は戻ってきた。

 建物のゆがみを直し、真新しくはなったものの、ホテル・バニタスがその趣を大きく変えることはなく、一見すれば以前のまま、営業を再開した。

 彼は真っ先に八○二号室を訪ねる。

「何も彼はマダムが変わらずそこに居ると思ったわけではありません。

 単なる願望、だったらいいなと、希望を胸に尋ねたのです。

 再会を果たせなくとも、彼はマダムを責めたりしません。

 もし、また会えたらどんなに良いか――」

『マダム・ミラージュ、ご機嫌いかが?』

 演奏が止み、照明が絞られる。

 八○二号室の扉だけが舞台上に浮かび上がる。

「ベルの音は聞こえない」

 ドアの向こうは静まり返っていた。

 待っても待ってもベルは鳴らなかった。

 マダムは去ってしまったのだろうか。

 結局姿を見せぬまま。

 失意に暮れるホテルマン、ある日常連客にこう呼びかけられた。

『ようやく改修されて良かったわ。

 以前八階の部屋に泊まったのだけど、隙間風が酷くてね。

 シェードランプの取手がずうっと支柱にぶつかって、うるさいったらなかったの』

『もし、レディ。その音はどんな音色でしたか?』

『え? さあ、どんなって言われても困っちゃうわ。

 チリンチリンっていう、金属の音よ』

『ちりりん、ちりりん……と、響くような音ですか?』

『そんなに詳しく分からないわ。

 あなたが試しにシェードランプを鳴らしてみたらいいじゃない』

 客は去り、ホテルマンは取り残される。

 八○二号室の前で彼は立ち尽くす。

「今となっては、確かめようもございません。

 あの部屋には、マダム・ミラージュが泊まっていたのか?

 それとも風が鳴らした鐘の音に、語りかけていただけだったのか……」

『私は一体誰と友情を築いたのだろう。

 空っぽの部屋だったとは信じたくない。

 しかし、もし部屋が空っぽだったとして、あの時救われていた私の心とは、一体何だったのだろう。何に救われていたのだろう。

 マダムとの日々は確かにあった。

 楽しい記憶になっていた。

 それをどう受け止めるべきか――』

 今日の役者が壇上にそろう。

 糸に操られるままお辞儀をして、舞台裏へ引き上げていく。

「ホテル・バニタス、八○二号。少し不思議な、友情のお話――」

 手回し式の幕が下りて、プリマの人形が膝を曲げて礼をした。

 仮面の男もまた慇懃に腰を折る。

「本日は誠にありがとうございました。

 あなたがたも隣室の客と友情を結ぶ際には、せめて姿を確かめますよう――

 あるいはかたちのないものとの交友も、きっと楽しいことでしょう」

 まばらに拍手が上がる。座席で眠りこけている者もいる。

 メイベルはそっと、隣に座るトレシャを見た。

 トレシャはいまだまっすぐ舞台を見つめていて、その瞳に町のネオンが映りこんできらきらと反射している。一瞬、瞳の奥が赤く光って、こちらを見た。

「マダム・ミラージュはつまり、幽霊だったのですか?」

「え、さあ? 感じ方はそれぞれじゃない?」

 メイベルも困惑していた。

 記憶にあるテラードールはもっと子供向けの、分かりやすい童話や定番の物語を演じていた。とすると、やはりあれは大道芸人の模倣演目なのかもしれない。

「そうですか。全く分かりません」

「まあ、なんとなく楽しかったじゃない。それで良いじゃない」

「ええ、否定はしません」

 席を立って、帰途へ戻る。

 さすがにのんびりしすぎたと焦る。置いてけぼりにした男の子が腹をすかせて不機嫌になってなきゃいいけど、とあの毒気のない寝顔を思い出して微笑んだ。

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