第8話 夜に目覚める街-03
メイベルが朝の一仕事を終えた頃。
のろのろとアレックスが起き出して空腹を訴えた。
傍らにはフランもいる。
「おはよう。よく眠れた?」
「いいや。この町が夜遅いほど煩いことを忘れていた」
「あはは。昼夜逆転の町だもんね」
まだ半分寝ているような目をして椅子に座る。建物の壁が薄いこと、夜通し営業している店が近隣に密集していることが原因だろう。
もう慣れっこのメイベルは喧騒もむしろ子守唄に感じられるが、とりわけ繊細な年頃の少年には酷な環境だ。
「まだ寝てて良いのに」
「食事を摂ったらそうする」
「うん。朝ごはん食べて。昨日買ったワッフルがまだある。あと、晩に出し損ねたデザートを作るところ」
「そんなのもあったの」
「せっかくだから二人も呼ぼうかな。でも、もう仕事始めちゃってるし、いいか。食べちゃおう」
油を温める匂いが立ち込める。
メイベルは生地の切れ端を鍋に入れて油の温度を確かめる。
「うん。良い感じかな」
皿の中身をすべて鍋に空けると、途端に油の弾ける騒がしい音が立った。ダイニングを振り返ると、アレックスが果実入りの茹でパンにかじりついたところだ。
隣の席にフランが腰掛けている。
二人並んだ姿を見るとメイベルの胸に妙な感慨がわき起こった。
懐かしい気持ち――そんな感覚に陥るなんてありえない話なのに。
「良い匂い」
気分を変える甘い匂い。メイベルは胸いっぱいにそれを吸い込む。
作っているのは林檎を小麦の生地で包んだ揚げ料理だ。
傷んだ林檎を安く買ってきて、熱して甘味を引き出す。
歯ざわりの軽やかな生地としなやかな果実の感触も楽しい、定番の一品だった。
「食べるでしょ、きみも」
「いらない」
「せっかく作ったのに? 揚げたてなのに? 勿体無い! ほら、ほら、良い具合だよ。見てごらん」
揚げあがった、湯気をもうもうと立てる飴色の生地が皿に盛られていく。
一個、また一個、次から次へと、山を築く。
「あ~あ、これ、要らないのか。じゃ、フラン食べる?」
「メイベル。僕が食べる。フランに近づけるな、油が飛ぶ」
「飛ばないよ。相変わらず神経質な男だな」
生意気な男の子は不機嫌そうに鼻を鳴らして、でも素直に揚げ林檎をつまんでいる。美味しい物を食べているときはアレックスも歳相応の仕草になる。
隙があって、時々頬を緩ませて、だけど眉間にはまだしわがある。寝不足の後遺症だろうか。
正面の席に座ってメイベルも林檎をつまむ。
さくっと生地が割れると、口の中にじんわりと熱い果汁が広がった。
胸の奥から体が温かくなる。
「部屋、寒くなかった?」
「本土よりは大分良い」
「そうか、アレクは本土育ちだもんね。島群の気候なら過ごしやすいか」
「気休め程度には」
安物のティーバッグのお茶を淹れる。
アレックスは一度カップに触れて、熱さに手を引っ込めた。
ミルクを勧めると受け取ってカップに注ぐ。
温度の下がった茶をようやく口にする。
「それで、メイベル」
「うん」
「フランの調整を頼みたい」
「そのつもりで待ってた。予定は空けてる――あ、あと一件届けに行かなきゃだけど、まあそれはすぐに終わるし。と、約束の時間までまだあるから……今すぐ始めちゃって平気?」
「構わない。その間にもう一眠りする。扱いはメイベルに任せる」
「わかった。じゃ、預かるね」
「フラン。今日一日はメイベルの言うことに従え」
目もくれずに指示をする。
「はい」
ぴんと背筋を伸ばした姿勢を崩さずにフランが答えた。
姿勢を見れば
勿論、扱われ方によって
使っていくうちに癖が出るから一概には言い切れない。
稀有なことに、フランは自動人形然とした姿勢の良さを保っていた。
それは隣に座るアレックスも同じで、こちらは育ちの良さをうかがわせるものだ。
ただ、今にも眠気に負けて突っ伏してしまいそうな気配もある。
「辛そうだな。もう寝ちゃえ」
「そうする。何かあったら起こして」
「はいはい。おやすみ、アレックス。歯を磨いて寝なきゃ、虫歯になるぞ。ちゃんと磨けよ」
「そのつもり」
軽口に力なく返事をして、少年が自室へ引き上げていく。
残された自動人形はそれを振り返りもしない。
「さて、フラン」
「はい」
「今日は、あたしがご主人様だよ」
「はい、よろしくお願いします。ご主人様」
他人行儀な響きに苦笑して、席を立つ。
「メイベルで良い、って前にも言ったけどな。じゃ、あたしのアトリエへ行こう」
「はい、メイベル」
呼び方を変えても硬さは変わらない。
ただ、よく耳に馴染んだ響きに懐かしさを覚える。
*
診察台にフランが横たわる。
着ていた黒いワンピースを傍らの衣装掛けに吊して、肌着だけの姿だ。
「寒くない? 少しの間、我慢してね」
「いいえ。寒さは感じません」
「うん。ちょっと体を見せてくれる?」
「はい」
毛穴のない滑らかな肌のところどころに小さい傷が残っている。
「大分連れ回されているんだね。あっちこっち傷になってる」
そうは言っても、日常暮らす際にひっかけたり擦れてしまったり、当たり前に出来てしまうごく些細なものだ。
「女の子の肌なんだから、アレックスはもっと気を使ってやらなくちゃ」
「致命的な傷ではありません。問題ありません」
「でも、弱った部分がきっかけになって脆くなったり、異物が入ったり、可能性はあるから。まあ、お肌の手入れは最後だな。おヘソ出して」
「はい」
フランは肌着の裾をまくった。
自動人形が自ら肌を晒すこの仕草を見ると、メイベルはいつも不思議な心地になる。やましいものを見ている気持ち。咄嗟に直視してはいけないように感じて、視線をそらしてしまいそうになる。
そんな感覚に陥ることも楽しみのひとつだ。
「失礼するよ」
アトリエの壁に作りつけられたテーブルからコードを引いて、端子を臍の奥へ潜らせる。
カチリと填まる手ごたえを待って、検査プログラムを起動させた。
自動人形の脳を覗くプログラムだ。
自動人形の脳は下腹部に収まっている。
頭にあるのは、表情系統の他はセンサー程度で、ほとんどが空洞だ。
呼吸をしない下腹部は大人しいもので、じっと端子を受け入れ、次々に内部の状態をプログラムへ報告した。
「へぇ。フラン、二歳くらいだよね? 普通二年も動かしていればエラーの一つや二つ出てくるものだけど」
異常なし、異常なし、異常なし――ディスプレイに表示される文言は緑一色だ。
「あ、勿論問題ない、他愛ないどうでもいいエラーよ。すぐに修正できるやつ」
「表示の通りです。問題ありません」
「みたいだね。気を使って扱ってるんだな、アレクは。肌も、傷があるって言っても微細なものだし、汚れはどこも目立たないし……こっちのメンテは要らないな」
旅の途中の、少年と自動人形のやり取りを思う。
行儀は良くても口の悪い彼が、決して言葉でにするほど自動人形を疎んでいるわけではないと、フランを預かるたびに思う。
あるいは、彼はどうしてもこの子を粗末に扱えないのだろう。
それが本意ではなくても――
否、とメイベルはかぶりを振る。気持ちは接し方に表れる。
「大事にされているんだ、フランは」
これ以上気の使いようがない程に、フランの状態は万全だった。
「はい」
処理の完了まで時間がある。
メイベルは傍らのオーディオの電源を入れて、マチルダ・マカロワのナンバーを流した。天気の良い朝に上機嫌なポップソング、メジャーなドラマの主題歌になり、数々の企業がコマーシャルソングに採用し、毎年何人かの無名な歌手がカバー曲を発表する。
どこかで聞いたような歌詞なのに、彼女が歌うとどうしてこうも魅力的になるのだろう、と不思議に思う一曲だ。
「ねえ、旅先ではちゃんとご飯食べてるの?」
「いいえ、私に食事の機能はありません」
「ああ、うん。アレックスは?」
「はい。平均して日に二回」
「そう。なら安心した。食べてるなら、大丈夫だ」
「はい」
声は平坦に響く。今時珍しい、感情を付与しない初期状態のままでフランは稼動している。そうしていると、無愛想なアレックスによく似ている。彼の本当の姉よりも――。いや。メイベルは首を振って不快な思考を追い払った。
実在の人間と自動人形を重ね合わせて考えるのは不健全だ、
「一緒に居てあげてね、フラン」
「はい。望まれる限り」
こちらを見上げる顔は、彼女にとても良く似ているけれど、まるで違う。
なのに、今すぐ肩を揺さぶって、名前を呼んで確かめたい衝動は、時折唐突に訪れる。今もそうだ。
堪えるのは慣れっこだった。この子は自動人形で、あの子じゃない。もう理解しているのに、どうしてまだ疑ってしまうのだろう。こうして自分の手で調整を加えて、ようやく事実を信じられる。
「この機会にセキュリティソフトのアップデートしちゃおう。じっとしててね」
「はい。了承しました」
スリープモードの指示を出すとフランは自然に瞼を落とした。
寝息が聞こえないのが不思議なほどに生々しい寝顔だ。
いつか彼女もこんな顔をして眠っていただろうか、と思い出に浸ってしまう。
メイベルは処理終了までの残り時間を確認して作業台に向かった。
そこに、作りかけの自動人形の内臓が晒されている。
それはメイベルの拳二つ分ほどの箱で、いくつもの
彼らは血の代わりに空気を通わせて動いているのだ。
本来の意味で、これは自動人形の心臓だった。
「お待たせ、心臓ちゃん」
ライトで照らし出す。人間の臓器とはまるで違う角張った機械だ。
今、この心臓は身体を失くし、幾本もの重要な管を喪失した状態だった。
それもそのはず、つい先日市街のリサイクル回収の日にゴミ捨て場から拾ってきたもので、その時は表面に《人型家電部品》という回収業者への目印のシールが貼られていたのである。初期化されて、主人の情報も含めて一切の個性を失っていた。つまりは廃棄物だった。
これを直すことが最近のメイベルには楽しくて仕方がない。
動いて当たり前の既製品なんてもう飽きたのだ。
見放されたものが立派に動いた時の快感と言ったらたまらない。
ほれ見たことか、どこのどいつか知らないが、あんたが無関心に捨てた部品はこんなにも役に立っている――と誰にともなく誇らしい気持ちになるのだ。
不意のノックの音が彼女をその楽しみから引き戻す。
「メイ、客がご指名だ」
返事を待たずにドアを開けて、パブロの巨体が覗いた。
彼の茶色の前掛けはいつも白く汚れている。
粘土のこびりついた指先で事務所のほうを示す。
「ん、了解。ご新規?」
「いや、登録がある。うん? なんだ、それ、フランのか? ひどい有様だな」
「そんなワケないでしょうが。この前拾ったの」
「またか」
問いかけた時には理解していた口ぶりで作業台を眺めた。
素人が分からないままに改造しようとでもしたのか、無残な壊れ方だ。
パブロの岩のような顔が哀れみに歪む。
「直すのか?」
「直す直す」
「お前はいつもそうだ」
「だってまだ使えるんだもの」
「普通は直してまで使わない」
「うん。使わないね」
笑って、作業台の心臓を見つめた。
次にフランの寝顔へ視線を移す。
PCに繋がるコードを辿って、臍に、その奥にある同じものを見据える。
「あの心臓を使って動いていた自動人形はどんな子だったんだろうって、想像するのが楽しいんだよね。次はどんな子になるんだろうって……出会うのが楽しみなんだ」
「悪い癖だな」
咎めるような言葉をつむぐ、パブロの唇はしかし緩んでいる。
だがこの変化はごく微妙なもので、長年の付き合いになるメイベルでもなければ読み取れない。
「で、客だ」
「あ、そうだ、そうだった。すみません、お待たせしてます!」
慌てて事務所へ向かう。
後姿を見送って、パブロは静かにドアを閉めた。
「お疲れ様です」
入れ替わりに通路へ現れたのは、学校帰りの装いをしたボリスだった。
「メイベルさん、また拾ったんでしょう?」
話が聞こえていたのか、平坦な口調ながらに好奇を含んだ声が問う。
「こんなボロを直せる人、貴重ですよ。独立すればいいのに、いつまでもこんな場所じゃ勿体ないです」
「ここには仕事があるからな、とりあえずは安定している」
街の性質上、市民よりも自動人形の数が上回っているのだ。
必然的に関連の仕事は多くなる。
「それに、部品も沢山拾える。それが気に入っているんだろう」
同様に、自動人形の廃棄物も他の町に比べれば格段に多い。
「中身だけなら全部揃えられると以前言っていた」
「ゴミで作ったんですか、自動人形を?」
驚いて高くなった声に反応したのか、パブロの前掛けのポケットから双子人形が頭を出した。
「エイミー知ってる! それってトレシャのこと」
「ボニーだって知ってたわ、おんぼろトレシャのことよ」
名を聞き、ボリスは事務室へ目をやった。
通路の向こう、ガラスのドアに透けて姿が見える。
メイベルの傍らに小柄な少女人形が立っている。
髪はごく短く、小さな体にメイベルのお下がりの服を着ていた。
裾を余らせ、袖からは指先しか出ていない。
「トレシャが? あはは」
冗談だと思って笑った。
すると、小さな少女たちが不満そうに唇を尖らせる。
「嘘じゃないもの。エイミーも手伝ったのよ」
「本当のお話よ、ボニーだってお手伝いしたの」
「肉付けの職人とね、エイミーとね、ボニーと、パブロとね、みんなで手分けしたのよ」
「ネジの一本も買い足さなかったから、とても安上がりだったんだって」
「でも、エイミーは新しいお洋服買って欲しいなぁ」
「ボニーも新しいお靴が欲しいわ!」
「ねえパブロ、買って買って!」
「買って買って買って!」
騒ぎ立てる二人の小さな頭を押し込むと、ポケットがでこぼこと形を変えた。
抗議の声を無視してパブロもトレシャを見やる。
「メイベルにしてみればこの町はそこらじゅうにごろごろ宝石が落ちている宝島なんだよ」
「はあ、なるほど」
突飛な話について行けない顔だ。
ボリスは一ヶ月前にアトリエに入居を決めた大学の二年生で、入れ替わりに抜けていった職人の後輩にあたる。
まだ専攻も定まらず、漫然と自動人形の仕事に関わりたいと思っている。
ポケットから性懲りもなく顔を出して、双子の人形が気を引こうと声を上げる。
「最初にゴミを拾ったときは、メイベル、叱られてたのよね」
「パブロに叱られてたのよね。みっともないって」
「でも、まあ、確かに状態の良い部品だった」
メイベルは学校のゴミ捨て場から、学校帰りの収集所から、少しずつ使える部品を見つけてきてひとつの自動人形を作っていった。
まさか出来るとは思わなかったし、一年と半年もかけてようやく一体だった。
当時を振り返って、確かに、パブロもわくわくしたことを思い出す。
不要だと打ち棄てられた自動人形の一部分が、少しずつ形を得ていく過程を、いつしか楽しく見守っていた。
「まさか、本当に……作り上げるとは、誰も信じてなかったよ」
「はー、気の長い話ですね」
「誰が見ても壊れていると言うものを生き返らせる悪癖があるんだ」
「悪癖ですか」
「愛着を持ちすぎても良くない」
先ほどまでの微笑の気配を潜め、パブロが頷いた。
「自動人形は使い捨ての製品だと思っていないといつか辛くなる。この仕事を続けたいなら特に」
ガラスのドアが開いて、忙しい駆け足でメイベルが戻ってくる。
「どいてどいて、狭いんだから立ち話しない。ボリス、お帰り。課題終わったか? ほら、パブロも作業に戻る」
物置になっている空き室から折りたたみのストレッチャーを転がして、また事務室へと戻っていく。
自動人形をまるごと一体預かる準備をしている様子だ。大物の発注だった。
思い出したように、二人もそれぞれのアトリエへ戻っていく。
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