第7話 夜に目覚める街-02
お金のやりくりに困っていないとは言い切れないだろうに、夕食は豪勢なものだった。
パブロいわく「余りものを入れただけ」のシチューには一口大の牛フィレ肉がごろごろ入っていたし、野菜も沢山沈んでいる。作り置きの茹でパンはチーズと練られた手の込んだもので、これもパブロの手製だ。
彼はこの台所の最大権力者なのだ。
メイベルが用意したものと言えばジンジャーティとサラダ程度だ。
サラダ――スライスオニオンと豆類の和え物は、混ぜるだけで味も見た目もそれなりになるからとメイベルが好んで作る唯一のレシピである。
「ため息が出るなあ」
一番お腹を空かせた顔をしてメイベルが呟く。
「そういえば、今日まだ何も食べてなかった」
「忙しいの、仕事?」
「忙しくなきゃ、暮らしてけないからね。ま、一区切りはついているし今晩はゆっくりするよ。きみも帰って来たし」
「人を怠ける口実に使わないでよ」
「厳しいなぁ」
そう答える口元は綻んでいる。
アレックスもこのご馳走を前にして、いつもの仏頂面を保てない。
一瞬歳相応の眼差しをして食卓を眺めた。
不意に、足りないものに気づいたみたいに表情を引き締める。
「早く早くっ、いただきましょう!」
「いただきましょ~」
食卓とは無縁のはずのビスクドール二体が本日のシェフの傍らで両手を挙げた。
「待って、下の奴らがまだ来てない。声だけ掛けてくる」
メイベルが廊下へ出た。
物臭なことにその場から大声で食事の時間だと知らせる。
建物中に響き渡る声に眉をひそめているのはパブロもアレックスも同じだった。
「人間拡声器」
小さく、パブロが呟く。アレックスが密かに唇を歪ませて笑った。
遅れてやって来たのは、つい最近工房へ参入した新人のボリスだ。
アトリエ・コッペリウスで働く者は他にもいるが、住み込みの者は現在三人だけ。
条件の良い働き先を見つけるか独立の目処がついた者から抜けていくため、アトリエに所属する職人の数は流動的だ。
一番多い時は十二人も無理やり詰め込んでいた。
最少人数、メイベルとパブロの二人だけになることも珍しくない。
「はじめましてだね。アレク、こいつはボリス。学校の後輩にあたる。学生しながら働いてる忙しい奴だよ」
「どうも、よろしく」
痩せた身体の青年だった。
日々の寝不足を示すように目の下にはクマが滲んで、それでも仕事をこなせる若い生命力に満ちた瞳をしている。
「で、ボリス、こいつはアレックス。私の友人の弟」
「どうも」
そっけない説明を気にも留めず席に着く。
それから、ボリスは終始緊張気味だった。
気を使おうと意気込むあまりに度々失敗を繰り返す。
茶をこぼす、塩を撒き散らす、食器が音を立てる。
日常茶飯事のようで仲間達は今更気にもしない。
ただ双子の小さな人形だけが、ボリスがへまをするたびに歌うように茶化した。
「お行儀悪いのね、ボリス」
「いけないんだー、ボリス」
「デザートはおあずけね! エイミーが貰ってあげるわ」
「ワッフルもおあずけね! ボニーも貰ってあげる」
ボリスのそばへ寄って騒ぎ立てるから、余計に彼がへまをする。
一層少女たちを喜ばせるものと思えたが、次第に彼女たちの動きは鈍くなり、とてとてと食卓を横断してパブロのもとへ帰っていった。
「おやすみなさいね、皆さん。エイミーは眠くなっちゃったの」
「パブロ、あとでボニーたちにもゴハンちょうだいね」
電池切れだ。二人はランチマットの上、寄り添って目を閉じた。
ビスク製の小さな
「静かになった。ああ、平和だ」
メイベルの言葉へアレックスがうなずいた。
「パブロ、少しは自分の人形を躾けたらどうなんだ」
「ん」
ぶっきらぼうな返事をして、大皿のシチューをかきこむ。
どうやら寡黙な主は、自由奔放に振る舞う彼女たちの姿がお気に入りのようだ。
「ボリスも少しは言い返したら」
「言い返すなんて、可哀想だし……」
「可哀想なもんか、この小悪魔たち。この前、あたし、工具を隠されたよ? 小さなマイナスドライバー。返して欲しければキャンディを寄越せってさ、食べないくせに」
「かわいいものが好きなんだよ」
主が横から擁護する。見た目に似合わぬ言い草が可笑しくてメイベルが吹き出すと、アレックスもくっと笑った。
「そりゃ、アンタのことだ。はは、やっぱりメイトは主人に似るなぁ」
メイベルが評する、その声にはまだ笑いの余韻が滲んでいる。
パブロはいつものことだと聞き流した。
二人のやりとりを傍目に食事を進めるアレックスと不意に目が合う。
「うまいか、アレックス」
「ん、うん」
少年が素直に頷く。
歳相応の隙を見せたことに気づくと、アレックスはすぐさま表情を引き締めた。
「よかった! もっと食べな、これもほら、あたしが作ったサラダ」
「はいはい、食べてるよ」
「パブロ、良かったな~。おいしいってさ」
「それは今聞いた」
「ほれ、お食べ。これもお食べ」
作り置きのオニオンピクルスやすじ肉のジンジャー漬けも皿の端にこんもり積み上げて、にこにこと勧める。
まるで初孫に対する祖母のような甘やかしようだが、アレックスは流されない。
「メイベル、無駄に出さない。食べる分は自分でとるから」
「もう、しっかり者だな。久しぶりに帰って来たんだから、少しくらい世話を焼かせてよ」
「結構だ」
不服を口にする代わりにメイベルはすじ肉を一切れつまんだ。
毎日食卓に並ぶなじみの味だ。
アレックスがここで暮らした一年にも満たない日々でも毎日卓に出ていた。
彼はこの味を懐かしんでくれているだろうか。
聞いてみたいけど、彼が素直じゃないことをメイベルはもう充分知っている。
見ている限り、頻繁に手を伸ばしているので、嫌っているわけではないらしい。
なら、それだけで充分だ。
「何?」
「ううん。世話を焼く機会を狙ってる」
「自分の手元が疎かになるよ」
かわいくない返答だ。だがそれだって、メイベルには嬉しい反応だった。
笑ったままの口にフォークを運ぶ。
パブロ独自の味付けの、ちょっと甘いジンジャーシロップで漬けた肉に味が染みて、次から次へと食べたくなる。
贅沢を言えば酒もほしい。
が、今日はアレックスが居るからおあずけだ。酔っ払っては、もったいない。
「そういえば、どこかへ出かけていたんですか? 旅行へ?」
ボリスが問う。彼は食事を終えて、ポットからカップへ茶を注ぎ足した。
「フォルテノルドへ」
「山の向こう? 長旅だったんですね」
「実家へ帰って、ここへまた引き返しただけだ。支度が済んだらまた出かけるよ」
「また? てことは、何か分かったの?」
「分からないけど、訪ねる価値はありそうだから。無駄足だったと分かれば、それだけでも良い」
「そう。じゃあ、得るものはあったんだね」
「少しは」
話の込み入った気配を感じ、ボリスは質問を重ねずカップに口をつけた。聞き手に徹する構えのようだ。
ほっと息をついて、メイベルはお茶を口に含んだ。
「それで、次はどこへ行くの?」
「ロウェル。途中、クロステルに寄る」
「工業島か。ここから島群ひとつ渡った向こうだね。移動距離は結構あるけど交通手段は便利かな」
「クロステルに寄るなら、切符は早めに買うか、それとももう少しここでゆっくりするか? 今頃は混雑する時期だ」
パブロが冷蔵庫に貼られたカレンダーを振り返る。
つられてアレックスも視線を向けて問うた。
「時期? 何の?」
「ああ! 祭りだ」
明るい声を上げたのはボリスだ。
「去年行きました。クロステルのフリーク・フェア、確かにすごい混み様だった」
「混雑を避けたいなら、時期をずらしたほうが良いかも、だけど……せっかくだし、見て回るのも良いんじゃない」
「嫌だ」
にべもなく、にわかな賑わいに水を差す。
「人を訪ねるだけだから。混雑は避けて通るよ。なるべく早く用事を済ませたいんだ」
「ふむ、そう。残念だけど、祭りは毎年やってるし。じゃ、来年は皆で行こうか」
「来年の話なんか今から分からないよ」
少年の冷淡さにボリスが困惑したような眼差しをメイベルへ向けた。
メイベルは肩をすくめて微笑む。
「切符はもう買った。明後日、朝九時の列車だ」
「なんだ、ずいぶん急だね。ゆっくりもできないじゃない」
「必要ない。休養なら旅先でも取っている」
カトラリーを揃えて置いて、少年が席を立つ。
「ごちそうさま。部屋で休む」
「うん。それがいいよ」
「そうだ、ついでにアトリエへ寄ってこいつらも寝かしつけてくれないか」
パブロが小さな少女たちを託した。
「ついでじゃないよ、遠回りだよ」
ドアを開けてすぐがアレックスの部屋、アトリエは階段を下りた先だ。
不満を口にしながらも、双子の人形を大切そうにそっと受け取る。
「いいじゃないか。おれはまだ食事中だから」
「……わかった」
瞼を閉ざすと旧時代の人形と変わらないエイミーとボニーを抱えて、階下へと向かう。
少年の後姿を見送って、ボリスがほっとしたように息を吐いた。
「とっつきにくい子でしょう?」
「あ、いえ、あの年頃は皆そうでしょう」
メイベルの問いに頷いて、慌てて言い繕う。
「あれでも軟化したほうなんだ。悪気はないし、ある意味素直な性格だから、そのうち慣れるよ。仲良くしてあげて」
「はあ、まあ。それは構いませんけど……」
「でも、もうすぐ行っちゃうんだよねぇ。残念だな。もっとゆっくりすればいいのに」
鼻先に近づけたカップの湯気がため息で方々へ散らされた。
「学校はどうしてるんです? 今って休暇の時期でもないような」
「単位は後期にまとめて取るつもりだって」
「へえ、なんだか大変なことをしてますね」
皿の端に残ったオニオンピクルスを苦労してフォークで刺して、別段興味を持てないふうに呟いた。やり残してきた作業にまだ心を置きっぱなしにしているようだ。
そうしているうちにアトリエから引き返してきた少年が食卓を横切って部屋へ消えていった。
「シャワー浴びて寝なよー」
「そのつもり」
ドア越しに一言聞こえ、隣室のドアの開閉する音が続く。
安普請の建物で、部屋の壁が薄いから少年がベッドに身を投げた音まではっきりと聞こえた。
どうやら本当に疲れているようだ。
残された三人が顔を見合わせて、「そっとしておこう」という意見を無言で取り決めた。
*
おかえりと言われて、ただいまと返した。何故だか今、嘘吐きの気分だ。
アレックスは久しぶりの天井を見上げる。
部屋の様態とは違い、この天井だけは変わりない。
枕元に放ったままの端末機がメールの受信を知らせている。
明滅が煩わしくて手に取った。
大人の手に丁度良く治まる端末機はアレックスの手にはまだ余る。
さっき出したメールにもう返事が戻ってきたらしい。
一目だけ見て、すぐに視線をそらす。
「暇だな、あの爺さんも」
列車に乗る前に知り合った、決して快い第一印象を持てなかった彼を思う。
情報欲しさにアドレスを教えた途端、下らないメールが頻繁に届くようになっていた。無碍にも出来ず律儀に付き合っている。
しかし今は寛容な気分になれずにメールを放置した。
端末機のディスプレイを眺める。
時間と天気の表示と、利便性だけを求めてインストールしたいくつかの補助機能を起動するボタンが並んでいた。
通話機能を呼び出して、指先が覚えた番号を入力した。
にわかに胸が鼓動を早める。
緊張に汗が滲む指先は、通話ボタンを確かに押した。
この瞬間、いつもアレックスは息ができなくなる。
裏切られると分かっているのに勝手に期待してしまうあさましい自分に、あとで落胆することを良く知っていた。
通信音もせずに、無機的な案内音声が応じる。
有効な番号ではないから改めて確認した後にかけ直すように、と聞き慣れた親切にアドバイスをくれる。
端末機をまた放り出して、アレックスは寝返りを打った。
そこに、手首に燐光の腕輪をはめた自動人形が座っている。
「どこに居るの」
結ばれた唇が答えることはなく、閉ざされた瞼が震えることもなく、姉の似姿を持つ自動人形は命じられた通りに眠っていた。アレックスもまた目を閉じる。脳裏に焼きついた自動人形の姿は、やがて椅子を立ってアレックスを抱きしめてくれる。
甘えん坊ねと囁いて髪を撫でて、柔らかな微笑みをくれる。
それだけのことが、どんなに嬉しかっただろう。
どんなに、安心できただろう。
いくら待ち望んでも姉の声は聞こえない。
椅子から彼女が立ち上がることはなく、命令なくして動き出すことはない。
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