第3話 揺れる肖像-03
聞き込み調査をしているのか、観光をしているのか、これじゃあ分からない。
フランの足は軽やかに、目に付く店は全部覗きたいとばかりに動き回る。
件の老人、ドワーフの目撃情報は所々で得られるものの、単純な目撃情報だけで、彼が何者でどこに住んでいるか、本名は何というのか、なにを生業にしているのか、有用な情報は一向に集まらない。
「ドワーフじいさんは、よく噴水広場で鳩に餌をやってるのを見かけるね」
手足屋を意味するパーツショップの店主が腕組みをして考え込む。
「ほかには、時々西口通りのパン屋で廃品を貰っていたり……」
「浮浪者なの?」
「いや、分からない。でも、路上で寝ている姿を見たというのは聞かないな。
そうだ、時々重たそうに本を運んでいたな、古書ばかりを何冊も買い込んでいるらしい。データで済ませばいいものを、変人だ」
「ということは、本屋にも現れるんだ」
「おそらく、頻度は高いだろう」
「ありがとう。当たってみる」
「ああ、こっちも、見かけたらなるべく引き止めておくよ。頑張って」
聞き込みの際は、老人と荷物を取り違えたなどと都合のよい嘘を通した。
そうすることで、より多くの人から好意的な協力を得ることができる。
「フラン、本屋へ行く」
店内へ呼びかけるが、返事はない。
「フラン?」
姿を探すと、彼女は店の壁に飾られた商品サンプルを見上げて自分の手足と見比べていた。
「何をしてる。次の店へ行くよ」
「あ、はい。ねぇ、ご主人様。わたしと同じ腕や脚、売っていませんね」
「当たり前だ。お前は既製品から作られたメイトじゃない。全て一から、外装を特注したらしい。全部、どこもかしこも。髪も。声も。目も。手も足も全部。世界に同じものはひとつとしてない、ひとつだけしか存在しないパーツで構成されている」
「ひとつだけ」
回答をどう理解したのか、フランはそれ以上追及してこない。
「世界に同じものはひとつもない、わたしの体」
噛み締めるような囁きだ。
それを嬉しく思うのだろうか。誇らしく感じるのだろうか。
容易に取り替えのきく自動人形にとって、体は一体どんな価値を持つのだろう。
アレックスは連れの顔を見上げた。
表情は動いていないが、その奥に感情が潜んでいる。
そう感じさせる顔をしていた。
「店主さん、ありがとう。本屋を訪ねてみます」
「ああ、今連絡を入れておいた。話はすぐ通ると思うよ」
「感謝します」
フランを呼び、店を出た。空はもう夕暮れの気配をはらんでいる。
本屋でも、パン屋でも、たいした情報は得られなかった。
噴水の縁に腰掛けて、しばらく足を休める。
フランは噴水と向き合って、興味深そうに水の流れを眺めていた。
「きれい……」
弱い太陽光を反射して、きらきらと透き通った水が輝いている。
飛沫が跳ねて、フランのに水滴が散る。
「つめたい」
指でをなぞって、思いついたようにフランが言った。
「あっ! ご主人様。あれやってください。
自動人形に風呂は不要だが、勿論身体の表面は汚れるので、服を着せる必要もあれば露出した肌を適度に洗う必要がある。
専用の洗剤とタオルでドライクリーニングするのが一般的な方法だ。
「今ここで? やらないよ」
好き、という感情を表す言葉に動揺して、それを隠して、少年はそっぽを向いた。
自動人形が主の視線を追った先にまた興味深いものを見つけて目を輝かせる。
「あの看板、見てください。何の看板なのでしょう。割れた窓の向こうに、緑色の人が居ます」
「映画館の看板だよ。新作の宣伝だろう」
「緑色に描かれているのは何のためですか?」
「怪物だから。あれは古いホラー映画のリバイバルだよ」
「怪物って、本当にいるんですか?」
「さあね。知らない」
「ご主人様にも、知らないことがあるんですね」
驚いて振り返ったフランの表情には、喜びの色も表れていた。
共感や、共通点を見つけたことが嬉しいらしい。
俯いて、アレックスは視界を遮る。
「あるよ。当たり前だろ」
「あっ、ご主人様。見てください、何かが来ました。きれいな色です。ピンクに黄色に、水色……。イチゴやバナナの絵が描かれています。あの車は何ですか?」
横目に見ると、移動販売の車だった。
「クレープ屋だ。お菓子を売っているんだ」
「見に行ってもいいですか?」
「だめ」
「お願いします! はじめて見るんです。知りたいんです」
「……わかった」
フランの興味や関心が自分ではない別のものに向けられるほうがいい。
そう判断して少年は立ち上がる。
移動販売車のカウンターを覗き込んで、フランはことあるごとに歓声を上げた。
店主がクレープを作っている。手際よくイチゴを切る店主の包丁さばきや、ごく薄く生地を広げる器用さに、いちいち賞賛の言葉と拍手を送った。
アレックスの身長では、背伸びをしてやっと店主の手元が見える。
そこまでして見たいものではないから、噴水広場を訪れる人々を眺めていた。
今しもあの老人がここを通り過ぎるとも限らない。
広場は多くの人で賑わっていた。今日は休日だったのだと今更気づく。
大きな買い物袋を抱えた客や、遠距離旅行らしい家族連れのほかに、近所に住んでいるのか比較的荷物の少ない婦人や老人たちの姿もある。子供連れを狙ってキャンペーンの風船を配る機械仕掛けの大きなぬいぐるみが歩いている。
自動人形も、犬を散歩させる主人に付き添い、ベンチで談笑する老人たちの背後に控え、様々な場面に溶け込んでいた。
ひとつの町をこんなに歩き回るなんて、久しぶりだ。
目的のために、わき目もふらず、寄り道もせず、行って帰るだけの旅だった。
知らない町に居るのだと今更実感する。
もっと知りたいような、色んなものを見て歩きたいような、ふと湧き上がる気持ちを咄嗟に抑える。
ふいに、耳にフランの声が飛び込んだ。
「ご主人様! これ、食べてみたいです。買って下さい。お願いします!」
「食べるって、クレープを?」
「はい」
顔を上げると、店主がひとつクレープを作り終わったところだった。
店主の調理するさまがひとつのデモンストレーションだったらしく、アレックスたちの後ろには早速列が伸びている。
「でも、お前には食事機能なんてついてないんだぞ」
「持つだけです。持って歩くのをやりたいんです。そういうの、さっきの看板に描いてありました」
フランが指差す先に、映画館の看板が並んでいた。
その一つに、まさに言う通りの光景が描かれている。
賑やかな都会の町並みと、腕を組んで寄り添う男女の姿。恋愛映画だろう。
女性は手にかじりかけのクレープを持っている。
「お願いします、ご主人様」
甘えた声でねだる。
後ろに並ぶ子供連れが、迷惑顔で注文の遅い客を見つめていた。
「……分かった。ひとつ」
注文して、カウンターに代金を払う。
居た堪れなさから、早くこの場を去りたい一心だった。
「ありがとうございます!」
フランは抱きつかんばかりの勢いだ。
店主からクレープを受け取って、嬉しそうな顔で看板の画を再現しようとする。
腕を組もうとするフランに引っ張られ、彼女よりも身長の低いアレックスは肩を高く上げるはめになった。
肩が引きつって体のバランスを崩しかける。
地面に足を踏ん張って、フランの歩みに抵抗した。
「離せ、離せ」
「ああ、ごめんなさい……」
身長差を理解してフランが手を離す。
不機嫌顔のアレックスは、物も言わずに噴水の縁に腰掛ける。
並んで座って、フランは幸せそうにクレープを眺めていた。
「かわいいですね。はじめて触りました。あったかくてやわらかいです。甘いんですよね?」
「甘い。とてつもない甘さだ」
「それは、とても良いですね。甘いって、素敵な味らしいです。疲れを癒やし、気分を良くする味だそうです」
「僕は好きじゃないけど」
「わたしの代わりに食べてください」
フランが差し出すクレープを見つめて、少年は唇を引き結ぶ。
「好きじゃない、ですよね? 嫌いでもない、ですよね?」
「……仕方ないな」
まるごと捨ててしまうより良いだろう。渋々受け取って、一口かじる。
一瞬で喉が渇くような甘さに口内が支配された。
アレックスが食べるさまを、フランはニコニコして見つめる。
「おいしいですか? 疲れは癒えますか? 気分は良くなりましたか?」
「どれに対しても微妙だ」
三口四口と味わったところで満腹感に襲われて、あとは惰性に任せて食べ続けた。
ようやく片付けた頃には味も食感もよく分からなくなっていて、胃もたれまで感じる。菓子を食べるだけでこんなに疲れるとは。
歩き詰めのせいもあって余計に体が重い。しばらく動きたくなかった。
甘いものは嫌いなのに、と食べ終わってからぼやく。
「ごちそうさま」
クレープの欠片を鳩にやっていたフランが顔を上げた。
「あ、ついてます、ほっぺ」
フランが手にした紙ナプキンでアレックスのに触れる。
端から見て、まるで世話焼きの姉と弟の姿そのものだ。
アレックスは客観的な光景を思い浮かべて、不快そうに眉を寄せた。
「そんなこと、しなくて良い」
紙ナプキンを取り返して、自分の口の周りを拭く。
「いつもきれいにしてもらっているお礼です」
「自動人形は、お礼なんかしなくていい」
「同じこと、してみたかったんです」
「余計なことをするな。僕は、自分でできるんだ」
「でも、まだ付いています」
さっきよりも広い範囲をナプキンで拭う。
「ちがいますよ。ここです、ここ」
フランが己の鼻の頭を指差した。
やっとアレックスが鼻からチョコソースを拭い去ると、
「きれいになりました」
微笑みを浮かべる。今日はもう何度彼女の笑みを見ただろう。
普段の無表情を思い出すのが難しいほど、見慣れたものになってしまった。
「……笑わないでよ、フラン」
フランは笑みをひそめて、静かに問う。
「それは、命令ですか」
「そう。命令」
「……はい。わかりました」
す、と。少女のから力が抜け、唇が一文字に引き結ばれる。
生き生きした眼差しが凍りつき、少年の顔をひたと見つめた。
同じ存在であるはずなのに、先刻の少女と比べてどうしても異質なものに思えて、アレックスはうめく。
本来こうあるべきはずの少女の無表情が、たった数時間の後に、未知のものに感じられてしまう。
目をそらさず、代わりに、瞼を閉ざす。
真っ暗の視界に、鮮明に浮かぶその姿は、誰なのだろう。
自動人形のフラン、いや、違う――
ハトの一斉に羽ばたく音が聞こえた。
我に返って、アレックスは囁く。
「もう、いい。好きにしていいから」
「……はい」
閉じていた目を開けた。
視界に映るのは、人間じみた仕草で唇をとがらせたフランの顔だ。
「ご主人様は、意地悪です」
「……そう」
「いいえ、嘘です。ごめんなさい。意地悪なんかじゃないって、知っています」
気遣うような顔をする。
そうして見つめられることが、ひどく居心地が悪かった。
立ち上がって、噴水を後にする。
有益な情報を得なくてはいけない。
まだ何もつかめないから、焦って苛立って、八つ当たりをしてしまうのだ。
アレックスは自制のきかない幼い精神を恨んだ。
歩くのが遅い短い足を、フランにやさしく見下ろされてしまう低い身長を恨んだ。
――取り替えられたら良いのに。
自動人形のように、自由自在に作り変えてしまえばどんなに心が軽くなるだろう。
だけどアレックスは人間だ。
十二歳と少しの体に、十二歳と少しの精神を抱え、まだ短い足で歩いていく。
歩みは、すぐにフランによって止められた。
「ご主人様、あれっ!」
外套の裾を引いて指を指す。まるで幼い子供だ。
「何」
ぞんざいに目をやる。噴水の向こうに、見覚えのある看板が立っていた。
【
今まさに大きな旅行鞄が即席の劇場へと姿を変えていく。
目の前で、公演の準備が着々と進んでいる。
「この前――以前の町でも見かけましたよね。演目が違うみたい……ご主人様っ!」
聞くまでもなく、次の言葉が予測できた。
「見ていきたいです」
「いやだよ」
「お願いです!」
先刻八つ当たりをした自責の念と、まだ休み足りない気持ちから、アレックスは結局降参した。フランにうなずくと、五つも年上に見える少女が飛び上がって喜ぶ。
座席に並ぶ小さな子供たちの視界を遮らぬようにと、最後列に腰を落ち着かせ、開演を待った。
以前にも見かけた背の高い身の男が、劇団のプリマを抱えている。
ビスク・ドールを思わせる容貌を持つ自動人形・キャンディが愛想よい笑顔を振りまいていた。
「お嬢様方に坊ちゃん方! ご笑覧あれ!
わたくし、幕間座の座長、セリウス・イワーノフと申します!」
身の座長が長い体を折って、恭しく一礼した。
頭を上げたその顔は、上半面の仮面に覆われ、露出した口元ににやついた笑みが浮かんでいる。
「そしてこちらは、我が劇団が誇るプリマ――」
「キャンディ・ポップよ! よろしくね」
小さなキャンディが舞台の上でスカートを掴んで華麗なお辞儀をした。
「それでは、それでは。本日上演いたしますは顔をなくした男の喜劇!
怒らないから、好まれて。笑わないから、疎まれて。
悲しまないから、蔑まれ、蔑まないから笑われる。
ああ、なんという喜劇、なんという悲劇――どちらだって構わない。
なぜなら男は笑わない。なぜなら男は、悲しまない――」
キャンディが手回しオルガンを奏でる。
ノスタルジックなメロディが流れ、男の語りに重なった。
小さな舞台の幕があがる。
イワーノフが細長い体を折り曲げて、舞台の中の操り人形を器用に演技させた。
「彼が顔を失ったのは、もう思い出せない昔でございます」
「ああ、あるいは、生まれたその瞬間からか――」
「男は怒らないから、友達が増えました。
男は笑わないから、友達が減りました。
男は悲しまないから、誰も同情しませんでした。
男は蔑まないから、おひとよしめと笑われました」
『人を見かけで判断してはいけません』
――キャンディの声が女性を演じる。
エプロンをつけた人形が糸に吊られて手を振り上げる。
「みな、目をつぶってくれたなら、男の喜怒に気づけたでしょう。
男の悲哀に、気づけたでしょう。
しかしどうして、目を閉じたまま暮らすのは不便ですので、
皆目を開けて暮らし続けたのです――」
操り人形は目を手で覆い隠す仕草をしたかと思えばその手を大きく広げてみせた。
場面転換の際、背景が紙芝居の要領で入れ替わる。
「困り果てた男はある日商人から良いものを買いました。
それはいくつかの仮面でした。
泣き顔、困り顔、渋面、嘆きに怒りに喜び――笑顔。
いくつもの仮面――。
男はこれは良いアイディアだと喜んだものです。
そう、自分の気持ちと沿う表情の仮面を、そのつどそのつど被ればいいのです。
そうすれば、もう誰も、困りはしない……」
顔のない男役の人形が入れ替わる。彼は笑顔の仮面を被っている。
『見ておくれよ、きみ! 僕は顔を手に入れたんだ。
これでもう、誰にも笑われない。
誰にも蔑まれない。友達も減らない。
僕は悲しまないで済むんだ――』
男がひそかに思いを寄せる女性が、仮面のアイディアに賛同する。
『これでもう安心ね、素敵よ!』
少女のたおやかな手が男の仮面を撫でる。
『なんて明るくて気持ちの良い笑顔なの、もっと良く見せてちょうだい』
優しく接してくれるのは彼女だけだ。
男の心は高鳴り、己の幸福をかみ締めていた。
男の仮面は笑っている。
男は表情の通り、胸いっぱいに喜びが溢れている。
人生の春の訪れだ。
しかし春は永くは続かない。
想い人の女性が、ある日男へ婚約を告げに来る。
婚約相手は、もちろんのこと、顔のない男ではない。
相手は、顔のある男だった。
顔のない男の仮面は笑っている。
『わたし、いま、とっても幸せなの。あなたも喜んでくれるわね?』
『もちろんだとも。おめでとう、きみ。
すばらしいよ、今日は本当に素晴らしい日だ』
笑ったままの男が、今にも泣き出しそうな声で言う。
イワーノフの演技は見事で、胸をえぐられるような嗚咽が響いた。
『おめでとう! おめでとう! おめでとう……!』
男の仮面は笑っている。
嬉しそうに、笑ったままでいる。
「――そして結局、彼は生涯、一枚の仮面しかつけませんでした。
それは、笑顔の仮面でした。
笑顔でいる限り、彼は人に嫌われませんでしたが、
ときに、薄情者めとなじられました。
しかし、そんな扱いに彼はもう慣れっこでした。
彼は笑ったまま死にました。
その表情から、きっと幸せな人生だったのだろうと囁かれ、
沢山の花に囲まれ、孤独に葬られたのでしょう――」
「ああ、最後まで、顔のない男は、顔のない男でした。
しかし、彼はただ、顔がないだけなのでした。
ああ、なんという喜劇、なんという悲劇――どちらだって構わない。
なぜなら男は、もう二度と笑わない。
なぜなら男は、もう二度と悲しまない――」
幕が閉じ、まばらな拍手が挙がる。
*
おひねりを集めに小さな少女人形が座席を回っている。
いたずらに触れようとする子供の手をあざやかに避けるさまは、この巡業が長いことを伺わせた。
「かわいそう……」
ぽつりと、フランが呟く。
肩を落として、眉尻を下げきって、手元を見つめている。
今にも泣きそうに瞳が揺れていた。
まさか泣くはずがないのに、そう感じた自分を嫌悪して、彼はまたフランの顔から目をそらす。
なんでもいいからと視線を注ぐ先を求め、結局、イワーノフの帽子を逆さにして掲げ持つ少女人形の働きを追うことにした。アレックスの腰に届かないほど小さな人形は目の前の席に座る老人に帽子を差し出す。
老人がくしゃくしゃの紙幣を投げ入れる。
「おみごと、おみごと。かわいいお人形さん、素敵だったよ」
「あら、ありがとう、ジェントル。お褒めに預かり光栄ですわ」
「次の町でも、頑張るんだよ」
「ええ、そのつもりよ! 今日は本当にありがとう!」
見事な女優の笑みを浮かべ、キャンディが一礼して去っていく。
小さな自動人形と会話した男の声に何故か聞き覚えがあった。
咄嗟に、アレックスは立ち上がる。
「――おまえ!」
肩を掴んで、振り向かせるより先に老人が振り返る。
「おぉ、おお、アレックス!」
旧知の友人に会ったかのような気安さで老人が向き直る。
「うん。うん。お人形さん、素敵になったじゃないか」
フランの姿を眺めて、納得したようにうなずいた。
「勝手にいじっておいて、なんだよ、それ。早く元に戻してくれないか。
僕は、僕の自由で《
他人の価値観を強要されるのは不愉快だよ。
今ここですぐ解除してくれたら、警察には突き出さない。さあ、元に戻して」
まくし立てるアレックスの言葉に、老人はいちいちうなずき返した。
物分かりの良い様子に、アレックスは少し、油断した。
老人が笑う。広がった唇の中にいやに白い歯が覗く。
怯んだ隙に、老人が駆け出した。
「あっ、待て!」
慌てて追いかけて、それでも、老人の足は異様に速い。
「なぜ、どんな不都合があるというのだ?
きみは意地を張っているだけじゃないのかい?」
老人が問いを投げかける。
追いつくだけで精一杯のアレックスは答えられない。
「どうせ連れ歩くなら、楽しいほうがいいだろう。
素直に笑ってくれるお人形のほうが価値がある。そうだろう?」
「ちがう!」
それだけ答えると、息が苦しくなってとても走り続けるのは無理だった。
不慣れな町で、似たような道を進むうちに、老人どころか帰り道まで見失う。
「くそ――」
悪態をついて足を止めた。
乱れた呼吸を整えるために随分時間がかかる。
一度戻って仕切りなおそうと思った。
「フラン、行くよ」
呼びかけに答える声はない。
「あ――そうか」
咄嗟に走り出したせいで、置き去りにしてしまったのだ。
高価な製品を放置するのは心配だった。
アレックスは急いで道を引き返しかけ、来た道が分からなくて途方にくれる。
結局、元の場所に戻るころには、すっかり日は傾いていた。
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