第2話 

 桜本町さくらほんまち駅から長楽寺ちょうらくじまでは歩いて10分ほどだ。日陰を選んで歩きながら、私は彬に尋ねた。

「おじさん、元気?」

「おお、元気元気。この前、泊まってったよ。美優みゆんとこは?」

「みんな元気だよ。今の旦那さんとはお母さんも上手くやってるし」

「妹、いくつになった?」

「もうすぐ4才。かわいいよ」

少し間を置いて彬が言った。

「美紀ちゃんは?」

「元気でやってるんじゃない。この前、テレビに出てた」

「何だそれ、教えてくれよ」

「私も出るって知らなかったんだもん」

姉は今、東京でモデルをしている。中学3年の夏、自分でオーディションを受けに行き、卒業と同時に上京したのだ。ファッション誌の専属モデルになり、そこそこ人気が出て、時々バラエティー番組に出たりしている。

 私は横目で彬の顔を見上げた。彬の思い人は姉なのだ。同居していた頃からずっと続いている片思いだ。


 ブブ失踪の一件以来、私と彬は急速に親しくなった。ブブは年寄りで、彬の言うとおり少し耄碌もうろくしていた。普段は寝てばかりいるのだが、時々ふらりとどこかへ行こうとする。ある時、ブブは目を離した隙に部屋から出て外塀に登り、足を踏み外して地面に落下してしまった。猫でもこんなことがあるのかと驚いたが、それ以後ブブは寝たきりになってしまった。余命が長くないのは明らかだった。私と彬は交代でブブの看病に当たった。

 姉は相変わらずほとんど家には寄りつかず、たまに帰って来ては母と激しい喧嘩を繰り返している。そのうちに母と彬の父親までののしりあうようになり、殺伐とした空気が家の中に漂っていた。私と彬は互いの部屋を行き交い、ブブを真ん中に置いて息を潜めるように暮らしていた。

 梅雨入りして間もない頃、私の部屋に突然姉が入ってきた。中には彬とブブがいた。

「なに、いつの間にあんた達仲良くなってんの」

「ちょっと、いきなり入ってこないでよ」

部屋から追い出そうとしたが、姉は私を横に押しやり、彬と座布団の上に寝ているブブの側に近づいた。

「どうしたの、この子。あんたが連れてきた猫でしょ」

「調子が悪いんだ。もう年だから」

姉は座ってブブの顔を覗き込んだ。ブブは力無く横たわって眠っている。

「病院連れて行かなくていいの?」

「多分老衰だから。病院に連れて行って余計に苦しませたくない」

「そうなんだ」

姉は手を延ばし、無言でブブの体を撫でた。長い睫毛が頬に影を落としている。細い鼻筋から少し反りかえった唇、小さな顎に掛けての横顔の線は、完璧な彫刻のように整っていた。普段は火の玉のように怒り狂っているのに、なぜこんな静謐せいひつな表情ができるのだろう。彬はブブを撫で続ける姉に見とれている。

 彬はこの時の姉の美しさに魅入られて恋に落ちたのだ。

 馬鹿な話だ。今までの行動を顧みれば姉が激情型の自分勝手な人間だということは分かっているはずなのに、たった一瞬の表情に囚われてしまった。この時、私の中に湧き上がってきた感情をどう説明すればいいのだろう。嫉妬や悔しさとは違う痛みが鋭く胸を刺した。驚きと、呆れと、諦めと、後悔と、悲しみと、とにかく色々な感情が少しずつ混じり合った、何かは判別し難い苦い痛み。

 自分が彬に恋していたとは思わない。ただ、恋になったかもしれない淡い好意を、この瞬間に諦めてしまった。

 7月1日、ブブは亡くなった。動物の葬儀を行っている場所を調べ、二人で南区の長楽寺に連れて行った。貯金を出し合い、読経をしてもらって、荼毘だびに付した。そして彬父子は夏休み中に家を出て行った。私たちは他人に戻った。


 寺の受付で彬は位牌の管理費を払っている。高校生にとっては決して安くない金額なのに、彬は御布施おふせを欠かさない。高山からの交通費も結構な額になるはずだ。おじさんから仕送りをしてもらっているのだろうが、それで賄えるはずもなく、彬は勤労学生なのだ。

「混んでるから読経は20分後だって」

長椅子に座って待っていた私の横に彬は腰掛けた。

「美優はさ、やっぱ看護師になるの?」

彬がこちらを見ながら聞いてくる。

「もちろん。看護師になって自立するのが目標だって、ずっと言ってるじゃん。家出たいから寮付きの学校受験するつもり。今年の夏は本気で勉強しないと」

「じゃあ、今日は付き合わせて悪かったかな」

「一日ぐらい平気だって。彬だって同じでしょ」

「俺は‥大学行かないことにしたから」

私は驚いて彬の顔を見直した。

「林業組合に就職することにした」

突然のことに何と言っていいの分からず、私は視線を落とした。

「林業業界は人出不足なんだ。俺、何だかんだ言っても山、好きだしさ。で、そうことに」

「そっか‥じゃ、おじさんと同じだね」

「そうだな、今住んでるとこよりもっと山奥に引っ込むことになるな、きっと」

彬の選択は少し驚いたが、でもそんな兆候は前からあった。肉体労働のバイトが多いのか、高校2年になったあたりから急激に背が伸び、体格が良くなった。厚く張った肩は、体を使う男のものだった。彬は椅子に座り続けるよりも、自然の中で働きたいのだ。

「なかなか会いづらくなるかもね、私も学校遠くになるかもしれないし」

「そうだな‥」

私たちは無言になった。大人になれば環境も変わって今まで通りにいかなくなる。それは頭の中では分かっていたが、こうして面と向かって事実を突きつけられると、ちょっと動揺した。

「なあ、一回俺んとこ遊びに来ないか」

彬のアパートは高山市の中心街から少し外れた場所にある。

「そうね、そのうちね」

「そのうちっていつだよ。ずっとそう言ってんじゃん」

彬の声が少し苛ついている。今まで何回も誘われているが、行ったことは一度もない。確かに高山は観光地で行ってみたいような気もするのだが、今の彬の生活をあまり知りたくなくて、ずっとはぐらかし続けている。

「宇津井さま、間もなく読経を始めますのでご位牌をお持ちください」

寺の事務員の人に声を掛けられ、私たちは二階にある位牌が安置してある部屋に向かった。


 


 








 











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