雨宿り

雨乃時雨

雨宿り

 ぴちゃん。

 自転車のハンドルを握る腕の上で、雫が跳ねた。

 空を見上げると、少しの青空を残して、地面に落ちてきそうなほどに思い鉛色の雲が広がっている。

 嗚呼、これはもうすぐ夕立が来そうだ。

 心の全てで家に着くまで雨が降らないことを祈りつつ、田舎の全く整備されていない道を急いで自転車で走る。

 しかしどうにも雨は非情らしく、家までの距離があともう半分というところで、それまではポツポツと落ちていた雫が、ザーザーと降り始めた。僕はそれに心の中で溜息をつきながら、もっと足に力を込めて自転車のペダルを踏む。ぐいっと自転車が速くなった。

 あと少し行くと、屋根が付いているバスの停留所がある。そこで雨宿りをしよう。

 雨が早くも制服に染み込んできた。きっとこの調子では、肩から掛けている鞄の中の教科書なども濡れてしまっているのだろう。制服は濡れても乾けば使えるからいいが、紙は濡らすと乾かしても波打ってしまう。この波打った状態の教科書は、どうもいただけない。

 少し息が上がってきたあたりで、屋根が付いているバスの停留所が見えてきた。所々に穴が開いているのトタン屋根と、塗られていた白色のペンキが剥げてきている板の壁。その停留所が雨の中で輝きを放っている気がした。

 僕は急いで、雨が当たる停留所の前に自転車を止めて、自分だけは雨の降りこまない場所に入る。停留所の中は狭いのだ。その雨が凌げる僅かな場所を自転車に譲ってやることもあるまい。

「雨、ひどいですね」

 むわりと酷い湿気の中で、その声はとても涼しかった。

 後ろを振り向くと、彼女も雨宿りしているのだろう。僕と同じくらいの歳の少女が立っていた。慌てて停留所に入ったので、今まで存在に気が付いていなかった。

「あ。タオル、要りますか?」

 彼女はそう言って、とても大きな鞄をごそごそと漁りだす。

「いえ、大丈夫ですよ。僕は丈夫なので、多少濡れても平気です」

 僕はそう言ったが、彼女は鞄から真っ白のタオルを一枚取り出すと、それを広げてふわりと僕の頭の上に乗せた。

「タオルを貸さなかったことで貴方が風邪をひくと、私が後悔しますから」

 タオルからほんのりと陽の香りがした。僕は礼を言って、ありがたくそのタオルで髪や腕を拭く。

「ところで、貴女は何処からいらっしゃったのですか?」

 彼女は見慣れない顔だ。この狭い村で見慣れない人ということは、この村以外の場所からやってきたのだろう。

「東京から来ました。親戚の家がこの村にあるのです。私の家や家族は戦争で皆……」

 彼女はそういうと、俯いた。この村は山に囲まれているお陰であまり空襲の被害には遭わなかったが、東京の方は酷い空襲があったと聞く。終戦から数年が経っていることを考えると、彼女は両親を亡くしてからずっと、親戚の家をたらい回しにされ、この村に居る彼女の親戚の元に辿り着いたのだろうか。この予想が当たっていなくても、きっと遠くはない。

「成程……。それは」

「あぁ、いいんですよ。気にしないでくださいな。ただでさえ夕立で空気が重くなっているのに、雰囲気まで重くなってしまうのは嫌ですし」

 彼女が僕の言葉をやんわりと遮って言った。

「バスに乗ってこの村に来ていきなり、雨が降り出すんですもの。吃驚しました」

 彼女が雨が降る外を見る。落ちてくる雫が速くて、線に見える。何千、何万もの線に。トタン屋根に開いている穴から落ちてきた雫が停留所の一角に水溜りを作っていた。そこに後から後から絶え間なく雫が滴って、規則的な音を立てる。

「夏……ですからね。仕方ありません。まぁ、そこまで長引く雨ではないでしょう」

「ですね」

 しばらくの沈黙。雨の落ちる音が、耳に心地よく響く。

「もしかすると、同じ学校に通うことになるかもしれませんね。年齢も近いと思いますし」

 彼女が口を開いた。僕は頷く。

「ですね。学校は先生方も生徒もみんな、楽しくて面白い人ばかりですよ」

 きっと、新しい学校への不安もあるだろう。それを少しでも和らげることができれば。

「それは、楽しみです」

 彼女がふふと笑う。

 雨の向こうに黄金色の向日葵が見えた。雨に打たれてもなお、力強く上に背を伸ばす陽の花。僕が一番好きな花だ。

「あ……。止みましたね」

 ぱたり、と雨がトタンを打つ音が止まった。

「ですね」

 彼女も空を見上げる。先程までの雨はどこに行ったのか、と思うほどに急に止む雨である。

「親戚の家の場所は分かりますか?」

 彼女に尋ねた。この村の中であれば、誰の家でも案内できる。

「えぇ。ずっと……とっても昔に行ったことがあって、ぼんやりと覚えてます。それにほら。地図も書いてくださったのです」

 そう言って、彼女は手書きの村の地図を見せた。強く握っていたのだろう。その紙は疲れて、くったりとしていた。

「なら大丈夫ですね」

 彼女はえぇ、と頷く。

 彼女は大きな鞄を、しかし引っ越しの荷物にしては小さな鞄を肩に掛け直し、僕にじゃあ、と会釈をしてバス停の外へ一歩踏み出した。

 僕も会釈を返し、自転車と共にバス停の外へ一歩出る。

 彼女の一歩と僕の一歩の方向は逆だった。しかしいつかまた、そう遠くない日に再び逢えるだろう。

 雨が止んだら、さようなら。

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