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「じゃぁ次の問題を、橘さ…………んの前の横田くんで」
今日はどの授業も問題の解答を当てられたり、指摘されることはなかった。
教科書一式を机に置いていないのに、だ。
それは私が鬼の形相で、顎を組んだ手の上に乗せ、異様なオーラを体全身から醸し出しているからだろう。
若干、前後と左右の机が昨日より離れている気がする。
周りと距離を縮めるという意識はどこかに消えてしまったようだ。
だが、今はそれどころではない。
朝のアレは、一体どう説明がつくのだろう、いや、説明されても理解できないだろうし、説明してくれる人もいないだろう。
文字が浮いてみえることなんて有り得るのだろうか。
いや、透明の標識板だったのかもしれない、いやいや、そんな標識板が生徒一人に絞って、頭上にあるだろうか、いや、ない。というか標識板って何だ。
池野さんが実は恋愛ゲームヲタクで、現実でもそういう雰囲気を味わいたいが為に、自作の選択肢を襟元から浮かせるように…。
だめだ、考えが幼稚すぎるし、飛躍しすぎている。あり得ない。
授業中も、合間の休み時間も、チラッと…周りからはギロッと睨んだように見えているのだろうが…あたりを見回しても朝同様の現象はない。
いつも通り、私と目があった生徒がビクついて体ひと回り以上萎縮しているだけだった。
あれは幻覚だったのだろうか。あまりにも人付き合い、および恋愛に飢えていたから妄想が現実化して見える…という現象が起こったのだろうか。
「…いやいや……うーん……いやしかし…」
「なぁ、絶対橘さん今日誰か絞めあげるんじゃねぇ?」
「誰か歯向かったやつが居たんだろうな…」
「心当たりあるなら今のうちに謝っといた方がいいと思うよ…」
またしても嘘で塗り固められたヒソヒソ話は、いつもだと聞こえているはずなのだが、ぶつぶつ呟きながら考え込んでいる私には何の音も耳を通さなかった。
―――――――――
「ただいまー…」
「ただいま、じゃないでしょ。なんで毎日毎日お姉ちゃんの家に寄るかなぁもう」
デートか飲み会で家にいないと思っていた姉は、寝室からバイト着を入れた荷物を肩にかけようとしながらバタバタ歩いてきた。
「…あ…今日バイトなんだ…」
「そうなの。しかもあたしより前の入り時間の子がドタキャンしやがって…店長に早めに来てほしいってぇ~~。急いで帰ってきてしんどい~…と、いうことで。さ、でたでた」
姉の手によって手動的にUターンさせられ、靴をぬぐこともないまま、一緒に外へ出て、マンション下の駐輪場まで向かった。
ピンク色でこいでもこいでも進まなさそうな小さいタイヤの折り畳み自転車に私から背を向けてまたがった姉をみていたのだが、行くのかと思いきやパッとこちらに振り返り、
「なんかあったんでしょ。今度聞いてあげる。メールでもいいけどねっ。じゃっ行ってきまぁ~す」
しゃかしゃかした音とともに高速で消えてしまった姉の姿を見送りながら、私はお見通しされていた姉をさらに尊敬した。
―――――――――
ガチャン
本当の家の玄関を静かに開けようが、大袈裟に開けようが、「おかえり」と言ってくれる人もいなければ、部屋から顔をみせる人もいない。
それは実際よりも広く感じるこの家で、まるで一人暮らしをしているかに思えた。
この家に真っすぐ帰らずに姉の家にお邪魔してしまう理由は、姉を好きだからというよりもこの家に帰る理由がないからである。
部屋中に夕飯の香りが漂うこともなく。
そしてその手料理を心待ちにし、そそくさと帰宅するようなこともなく。
愛でているペットがいるわけでもなく。
そして勿論、
姉がこの家にいないからである。
幼少期から愛嬌がなく、自分の気持ちを素直に伝えることができなかった私は、可愛げがあって素直で元気な姉と違って親から好かれなかった。
育児放棄や虐待などは受けたことはない。ただ、姉と比較し、罵られ、蔑まれることはほぼ毎日のようにあった。
”まどかと違って桜花は…―”
”まどかはこうなのに…―”
”桜花は誰にも似ていない…―”
「キモッ」
鞄を適当に床に置いて高身長の身体は華麗にベッドへダイブした。
可愛げがないのは私のせいだ。
顔立ちが良くなくたって、笑顔を振りまけば、子供は十分に愛嬌がでる。
素直になれなくたって、ゆっくりちゃんと意思を言えば伝わるだろう。
それをすべて幼いころから諦めてしまったからこそ行きつく先である今、このような自分になっているのであろう。
自分にかえってくるとは正にこの事。
誰も悪くない。
だから誰にも恨みはない。
誰にも歩み寄らなかった自分が悪い。
でも歩み寄ろうにも…
「何喋ったらいいかわかんねーんだもん…」
え?
ガバッ
マットレスの反動とともに上半身を起き上がらせる。
何喋ったらいいかわからない…??
いやいや、今日の事を思い出せ。
何自己嫌悪をフラッシュバックしてるんだ。
朝から悩んでいた事を思い出せ。
そうだ、何を喋ったらいいか簡単に考えられるようになったじゃないか。
一文字一文字気を使って考えなくとも、もう文章は出来上がっていた。
3つの選択肢として…。
あれが本当の本当に、夢ではなくフィクションでもなく現実世界で、池野さん自作自演の標識板じゃなかったとすると…。…ってだから標識板ってなんだ。
別に何故私だけに見えるのかとか、
誰の頭にもでるものなのか違うのか、
根本的な理由を探らなくても。
利用できるのであれば利用すればよいのではないか。
何故だ何故だと考えすぎていると精神科へと足を運んでしまい、とうとう頭もいかれたのかと認知されるかもしれない。
むしろ、どこかの魔法世界のように、痛々しい設定前提で、選ばれた能力者とでも誇っておいたほうが気楽なのではないか。
まぁ、実際今日寝て明日起きたら何もなかったかのように、いつもの生活が戻っているかもしれない。そうなれば今朝のことは妄想だったと姉への笑い話にしよう。
でも
「明日もあったら…?…」
明日も選択肢があったら…
その時は…?
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