第16話 姫星美人
寮母である英子さんも、ここ最近の久美子さんの素行に困っていた。久美子さんは両親とも連絡をとっていないようで、心配した御両親から英子さんのもとに電話があったそうだ。御両親は娘が大学に通っているかを気にしているようで、その辺のことを英子さんに問い質したらしい。
龍が関与していないにしても、事態は何も解決していない。僕は彼女が悪夢にうなされているのも知っているし、手形も見えている。その上、龍が見えるし会話もできる。ここまでの霊的スペックを得ても、彼女を助けることができない。霊力が役に立たない今、僕にできるのは慰謝の心で接することだ。見舞いに花でも贈ろうと、近所の花屋に出かけた。けれど。疑問も持たず、自分の行動に堂々とできたのも行き道まで。帰りは泣きたくなった。花を見て、久美子さんが喜んでくれたとしても、そんなもの自己満足だ。恐らく、彼女を救う手立ては、この先も見つからないだろう。
前方に寮が見えるが。涙のせいで蜃気楼のように歪んで見える。瞬きで涙を払うと、寮の外階段に誰か居るのが見えた。黒い上着に黒いズボンを穿いたその人は、階段を上へ上へと昇っていく。
僕は我が目を疑って、再度目を凝らした。寮に近づくに連れ、鼓動が早まる。『黒尽くめ』のその人は、人のなりをしているが人でなかった。目も鼻も口もない。影法師が生命を持ち、独立独歩してしまったような。そんなものが、鍵も使わず、扉にも触れず、玄関扉に突入する、電車がトンネルに入っていくみたいに。
僕は自転車を乗り捨てて、階段を駆け上がった。合鍵を使って室内へ入ると『黒尽くめ』は眠っている久美子さんの傍らに立ち、彼女を見下ろしている。そして僕に気づくと、煙のように消えてしまった。
「久美子さん!」
呼びかけながら、僕は彼女の頬をペチペチ叩いた。叩いた甲斐あって、久美子さんは意識を取り戻す。彼女は半目で僕を見上げながら、「どうしたの?なんで叩くの?」と
「また、うなされていましたよ。だから無理やり起こしました」
「ホントにうなされてた?凄く幸せな夢を見てたよ」
「どんな夢ですか?」
「大垣君が指輪を買ってくれる夢。正夢だったらいいなぁ」
「指輪は無いですけど、久美子さんにピッタリの花を買ってきましたよ」
「そうなんだ、ありがとう」
彼女は体を起こす。僕はそこで気づいた、花が無い。『黒尽くめ』を追いかけることに気を取られ、自転車ごと放り出したのだ。花は自転車の前かごに入れていたから、もしかしたら潰れているかもしれない。
「買ったんですけど。自転車の前かごに入れたままで、持ってくるのを忘れました。取ってきます」
「じゃあ、私が取ってくるよ。大垣君はここにいて。その方がいいよ」
「どうしてですか?」
「どうして、って。まだ明るいし。私の部屋の前をうろつかない方がいいでしょ?今までも、そうだったよね。『行き来するのは暗くなってからにしよう』って決めたでしょ?」
確かにそうだ。さっき買った花も、本来は日が暮れてから渡すつもりでいた。それが。『黒尽くめ』を目撃したものだから、慌ててここへ来たのだ。あのときは一刻の猶予も無く、人目など気にしていられなかった。
久美子さんが部屋を出るなり。僕はクローゼット・トイレ・風呂場・冷蔵庫に至るまでの、扉という扉を全て開けた。さっきの『黒尽くめ』が、もしかしたら潜伏しているかもしれない。そんな期待を込めて、部屋中を探し回った。
あの『黒尽くめ』が久美子さんに悪影響を及ぼしているのは間違いないから、彼女に関わらないよう説得しよう。以前の僕なら、こんなことは思わなかった。それもこれも、龍に出会ったからだ。龍と意思の疎通ができたのだから、『黒尽くめ』の説得だって上手くいくかもしれない。
恐る恐るカーテンを捲ってみるが、ベランダにも誰もいない。そこへ久美子さんが戻ってくる。彼女は僕を見るや苦笑いだ。
「駐車場の真ん中で、自転車が横倒しになってたよ。鍵もかけてないし」
僕は動揺しながらも、最もらしいことを言ってのけた。
「そうなんです。もうトイレが我慢できなくて。慌てて自分の部屋に行ったんです。そしたらスッキリして、自転車のことも忘れて久美子さんの部屋に来てしまいました。ところで、花は潰れていませんでしたか?」
久美子さんはレジ袋から取り出し、僕に見せる。
「大丈夫だったよ。でも、これは…花じゃないよね?」
「花も咲きますよ。花束を買いに行ったんですけど、これが目に止まって。久美子さんにピッタリでしょ?」
「これって多肉植物だよね?もしかして、私のことを肉食系女子って言いたいの?」
「だって、現にそうでしょ?久美子さんは肉が大好物じゃないですか」
「そうだけど…」
久美子さんは納得していない。僕は久美子さんが握るレジ袋を頂戴した。袋の中を覗くと、鉢に突き刺さっていたはずのネームプレートがひっくり返っている。僕はそれをつまみ上げ、彼女に見せながら説明した。
「この多肉植物は『姫星美人』っていうんです。このネームプレートを見て、久美子さんにピッタリだと思いましたよ。久美子さんは、お姫様みたいに美しい人でしょ?」
「今日は変だよ。いつもはそんなこと、絶対に言わないのに」
久美子さんは僕の言動を
「ちゃんと、食べてますか?」
彼女は「うん」としか言わない。そして僕の体に一層組み付く。久美子さんは絡ませた細い腕に、ありったけの力を込めて、自分のもとへと僕を引き寄せる。
僕が理性を失いかけたところで、久美子さんのスマホが派手に鳴った。彼女は僕の肩から顔を上げ、テーブルの上のスマホを一瞥すると、また、僕の肩に顔を押し付ける。
「出ないんですか?」
彼女は「うん」としか言わない。スマホは鳴り止むが、切れたと同時に、またかかってくる。久美子さんは人と話すのが辛いと言う。人と話すと、生気を吸い取られるように疲れるらしい。
僕は抱きしめていた久美子さんを引き離し、スマホを覗き込んだ。着信表示には『佐藤さん』となっている。聞けば、今日は撮影の日だそうで。久美子さんはそれをすっぽかしていた。
「電話には出ましょう。佐藤さんだって、来る途中に事故ったんじゃないかって、心配しているかもしれないでしょ?」
久美子さんは押し黙る。
僕は電話に出て、久美子さんが体調を崩していること、連絡が遅れたことを詫びた。佐藤さんは、やはり事故の心配をしていて、その口ぶりは『顧客の身を案ずる美容師』を越えていた。
短い電話だったにも拘らず、僕は佐藤さんの本音を感じ取ってしまった。彼は久美子さんに好意を抱きながらも、恋人である僕さえも『特別会員でよい』と言ってくれたのか。大人の余裕を見せつけられて、僕は自分が小さく感じた。また、久美子さんが僕を見捨てて、佐藤さんに走らなかったことが奇跡に思えた。
電話を切ったあとも。こんなことを考えながら暫く突っ立ていると、物が落ちたような鈍い音で我に返った。
どこから湧いたのか。僕の足元で、短髪の女が馬乗りになって、久美子さんの首を絞めている。久美子さんは足をばたつかせ、もがく。彼女の足がテーブルにぶつかる。衝撃で飾ってあった姫星美人が床に落ちる。
僕は女の両肩に手をかけ、力づくで引き剥がした。勢い余って、女はベランダの窓ガラスに激突する。僕を睨みつけるこの顔。どこかで見たことがある…ホームページだ、この人は佐藤さんの美容室でカットモデルをしていた、あのショートカットの美女だ。確かにこの人なら、久美子さんを恨む動機はある。久美子さんの登場で、モデルを降ろされたことへの逆恨みだろう。
それにしても、この人は生身の人間じゃない。さっき引き剥がしたとき、やけに冷たく堅かった。何より違うのは、目だ。先日、出会った龍より獣らしい目をしている。
その半獣が突如として、ほくそ笑む。悪意に満ちた目元を緩ませ、柔和に微笑む。何がおかしいのか。これは自分の感情を隠すための笑みか。感情が読み取れない相手ほど、恐ろしいモノはない。これなら龍神の方がよほど親しみやすい。けれど、ここで怯むわけにいかない。この女を説得すれば、久美子さんを救えるかもしれない。
「もう、こんなことはやめよう。僕にできることがあれば力になるから」
次の瞬間、僕は床に倒されていた。女は馬乗りになり、僕を見下ろす。そして「お先にどうぞ」と言って、僕の首にふれる。女の手は痛みを感じるほど冷たい。その手が僕の首をぎゅっと絞める。女性の力とは思えない。工具で締めつけているような圧迫だ。
─ 殺される ─
そう思った瞬間、体が軽くなった。
僕は死んだのか。
恐る恐る目を開けると、薄紅色の雲が見える。どこからか子供たちの笑い声がする。
天使?ここは天国か。
違う。
足と手からフサフサした柔らかい感触が伝わる、これは芝生だ。僕は屋上にいる。そして、こんなことができるのは、僕が知る限り一人しかいない。上体を起こすと、やはり龍だった。僕は久美子さんのことが気がかりで、礼を言う余裕すらなくしていた。急いで部屋に戻ろうと立ち上がるが、激しいめまいに襲われて、ひっくり返ってしまう。
「だいぶ
「そうもいかないよ、久美子さんが…」
吐き気がして、それ以上、言葉が続かない。
「大丈夫だ、今は眠っている。お前も少し休め。あれは相当な憎しみを持った生霊だ。人間には堪えるだろう」
「僕がこれだけ辛いんだから、久美子さんがやつれるのも無理ないね…だったら、なおさら助けなきゃ。久美子さんが死んでしまう。現に、あの女は殺しにきたんでしょ?」
「心配するな。生霊を使って殺すなんて、並大抵のことじゃない。向こうも、相当疲弊しているはずだ。当分は来ないだろう」
僕が納得できずにいるのを察してか、龍は生霊について説明してくれた。
生霊というのは想念を具現化したもので、念というのはエネルギーのことらしい。龍曰く、この世のモノは全てエネルギーから成っていて、その中でも念というのは計り知れないエネルギーだそうだ。
「そんなこと信じられない」と言うと、龍は訝しげに僕を見る。
「お前は私が見えているのだろう?にも拘わらず、理解できないのか?」
「はい」
「これだから人間は…そんなだから、念を具現化できないのだ」
龍は呆れるのを通り越し、立腹する。
「じゃあ、なんであの女は具現化できたんですか?」
「憎しみに支配され、それが潜在意識にまで降りたことで、想念が具現化されたのだ。生霊は潜在意識下で作られる。だから、あの女には生霊を作ったなんて自覚はない。自覚はないが、あの女の肉体は相当疲弊している、それは確かだ」
「どうして、そう言い切れるんですか?」
「そもそも。人間の肉体に納まるのは僅かなエネルギーだけだ。潜在意識にある莫大なエネルギーを扱えるようにはできていない。今回のように、強烈な憎しみのせいで、一時的に潜在意識にアクセスしたはいいが、肉体はついていかないはずだ」
「なんとなくは分かったけど、シックリこないなぁ。さっき僕が『信じられない』って言ったら、『だから、いまだに具現化できないんだ』って言いましたよね?それって…いずれは『潜在意識化にアクセスして、想念を具現化できる』ってことですか?」
「いずれ、じゃない。今すぐにできる」
「言ってることが矛盾していませんか?人間の体は脆いから、潜在意識下の莫大なエネルギーを扱えないんでしょ?」
「だから、落とすんだ、潜在意識化に。自分の感覚も感情も肉体さえも!そうすればエネルギーを扱える。エネルギーそのものになれる」
「落とすって、どうすればいいんですか?」
「そう言っているうちは絶対に落ちない。思考が顕在意識下にあるからだ」
「理屈は分かりますけど、それだと永久にたどり着けない気がします。成功した人はいるんですか?」
龍は大口を開けて笑う。その声はあたり一面に響き渡るが、通りを歩く人たちは見向きもしない。通りの向こうで子供たちがドッヂボールをしている。僕が天使だと思ったのは、あの子たちか。
「ほら、見ろ。天使たちも笑っているぞ」
「僕について笑っているわけじゃないでしょ?そもそも、何がそんなに、おかしいんですか?」
「一刹那しか生きられない人間が、『永久』なんて言葉を使うからだ。それと。潜在意識にアクセスできる人間は、たくさんいる。現に、お前もそうだろう?」
「僕が?じゃあ、貴方は僕が生み出した生霊ですか?」
「失礼な、我は大宇陀川の神なるぞ」
「その神が、どうして僕の目の前に居るんです?」
龍は言葉につまる。
「事実を知っても、僕は混乱したりしません。教えてもらえない方が混乱します」
「混乱はお前の感情に起こるのではない。お前の『人生そのもの』に起こるかもしれないのだぞ」
「貴方のことを思い出してから、僕の人生は変化の連続です。既に混乱に陥っています」
「お前は私を知っているのか?」
「貴方に会うのは二度目です。五歳のとき、貴方が天から降りてくるのを見ています。貴方は夕日に照らされ赤く染まっていました」
僕の言葉に何か思うところがあったようで、龍は暫し黙考する。そして、故郷に思いを馳せるように天を見上げると、感傷的に言う。
「私は大宇陀川の龍神だった」
「…だった?どういうことですか」
「大宇陀川は、もう無い。私は神堕ちしたのだ」
「川が無くなったって、人間のせい?だから神様でいられなくなったんですか?」
「違う。私が堕ちたから、川が無くなったのだ。私は人間になりたくて、神堕ちした」
「どうしてそんなことを?」
「神と人間の違いは、なんだと思う?」
「力の差かなぁ?でも、力だけなら悪魔やモノノケにもありそうだから…『愛』ですか?」
「神に『愛』なんて無い」
「いやいやいや。神に愛がなかったら、愛はどこにあるんです?」
「神には善も悪もない。それゆえに神なのだ。神は何事もジャッジしない。何者を前にしてもだ。神のそんな姿に、愛や正義を見出しているのだ、お前たち人間が!」
「僕は特定の宗教を信じているわけではないです。それでも、この話は受け入れがたいです。愛や正義はフィクションですか?どこにも無いんですか?」
「愛はある。本来、人間は愛そのものだ。私は数々の愛を見てきた。愛を体言する人は美しい。海に沈む夕日や、春に芽吹く木々に劣らない。私は愛に遭遇するたびに歓喜した。そして悲哀した」
龍は僕を見据えるが、その目は僕ではない何かを見ている。在りし日の遠い出来事は、今でも龍の心を痛めているようだ。
「何がそんなに悲しかったんですか?」
「神は俯瞰して物事を見るが、人間は違う。人間は自分の視点しか持たない。そこに愛があることに気づかない。愛の美も歓喜も見えない。私は彼らにも、愛を知って欲しかった。共に共有したかった」
「貴方は優しい人ですね。あっ、すみません。神様でしたね」
「いや、お前の言うとおりだ。私は人間臭くなったのだ。だから神々に忌み嫌われた。だから決心した。神性を宿したまま人間に生まれ変わろうと。私は神と人間を繋ぐ役目になろうとしたのだ」
「それが神堕ちですか?素晴らしいじゃないですか!」
「神が地に堕ちるとき、地に災いが起きる。神堕ちは神の自殺だ。褒められるようなことではない」
「そんなに悪いことですか?貴方が堕ちたことで大宇陀川は消滅したそうですけど、おかげで育まれたものも沢山あるはずです。『川の消滅』は自然にとっては災いでも、人間にとっては『開拓』です。そこで育まれる命もあります。それに大宇陀川は消滅したけど、貴方はここに居ます。まだ、神堕ちしたとも言い切れないでしょう?」
「お前は何が言いたい?」
「いや…だから…」
「私を慰めているのか?」
僕は黙って頷いた。龍はまた、大口を開けて笑う。
「人間に慰められるとは、私も堕ちたものだ」
「ところで。堕ちるにしても、どうして母を選んだのですか?」
「選んだつもりはない。私が人間に生まれ変わると決心した『その瞬間』に『着床した受精卵』…それがお前だ」
「母との出会いは偶然だったんですね。そうですか…母に憑依した理由を知りたかったんですけど、そんな生々しい理由だとは思いませんでした」
僕は聞いたことを後悔した。自分が女性だったら、少しは感動したのかもしれないが。
「順子との出会いは偶然だが、お前との再会は必然かもしれない」
「どういう意味ですか?」
「お前が生まれたということは、私は生まれ変わりに失敗したのだ。本来なら私は存在しない。それがこうして、存在しているのは。お前が私を呼び起こしたからとしか思えない。お前は私を知っていて、私を強烈に意識するような出来事があったのだろう?」
龍が言ったことは正しい。久美子さんの『おばけ騒動』があったから、僕は龍のことを口にしたし。衰弱していく彼女を見て、龍の存在を強烈に意識した。
「それが関係あるんですか?」
「大有りだ。そもそも神の死は自殺だけでない、他殺もある」
「神が神を殺すのですか?」
「神殺しをするのは人間だ」
「そんなの、見たこと聞いたこともないですよ」
「想念は強いエネルギーだ。神への関心が薄まれば、神であっても朽ちていく。朽ちることで忘れられ、しまいには果てる」
「僕が貴方を強く意識したことで、蘇ったわけですね。神と人間は繋がっているんですね」
「繋がるどころか境界すらない。違いがあるとすれば、神は善悪をジャッジしないということだ。だから私は、久美子にもお前にも肩入れしない」
「どうして、そうなるんですか?久美子さんの一件がなかったら、貴方はここに居ませんよ?久美子さんのことを助けて下さい」
「私は人間に神の視点を与えるために、人の子に生まれようとしたのだ。おまえたちの間を取り持つために、神堕ちしたのではない」
「屁理屈だな」
「いずれにせよ、私は久美子を助けることはできない。久美子を助けたいのなら、お前が決断することだ」
「どういう意味ですか?」
「いずれ分かる」
そう言って、龍は月極駐車場に潜ってしまう。
久美子さんの部屋に戻ると、彼女は横たわり、気持ちよさそうに寝息を立てている。彼女の首には絞められた際にできた指の痕が、痛々しいほどハッキリついている。
『生霊が人を殺すのは不可能』
と、龍は断言するけれど。こんなことは最後にしたい。久美子さんの日常を取り戻すためには前任モデルを祓うしかないようだが、僕は彼女と面識がない。そもそも会ったところで、どうすればいい?清めの塩をぶっかけ、「悪霊退散!」とでも言えばいいのか?
もう、こんなこと一人で抱えきれない。煮詰まった僕はヤケクソもあって、とりあえず佐藤さんと連絡をとることにした。幸い、佐藤さんは久美子さんに好意があるようだから、事情を話せば協力してくれるかもしれない。
電話すると決めたものの。いざ、そのときがくれば躊躇してしまう。このまま電話をかけても、舌がもつれるか、思考停止して無言になりそうだ。一先ず、言いたいことを紙に書き起こすことにした。
紙に書くと、やはり気持ちが落ち着いた。あとは、これを原稿だと思って読み上げればいい。僕は自分を鼓舞し、電話番号を押した。佐藤氏は五コールで出てくれたが、知らない番号だからか、こちらを
相槌を打っていただけの佐藤さんも、生霊の件に思い当たる節があるようで、「それはマズイね」と危惧する。
普通ならこんなオカルト話をすれば
佐藤さんの言い分はもっともだ。久美子さんを助けることしか頭になかった自分が恥ずかしい。僕が羞恥心から押し黙ってしまうと、佐藤さんは「もしもし、大丈夫?」とこちらを気遣ってくれる。そして、予想外なことを言う。
「一度会って話しませんか、できれば明日」
待ち合わせは夜の八時。佐藤さんが勤める美容室に僕が出向くことになった。彼の勤務地は心斎橋にある。たしか心斎橋は高級ブランドが立ち並んでいるはずだ。そんな街に相応しい服は持っていないので、就活帰りを装ってビジネススーツで行くことにした。
美容室は御堂筋沿いの路面店のため、迷うことなく見つけることができた。店内の内装・外装はホテルのスイートルームのようで、受付の横には壁に埋め込まれた水槽があり、花びらのような尾びれをした熱帯魚が泳いでいた。
佐藤さんには受付に来るよう言われていた。アポはあるが、店に踏み込むには勇気がいる。ルビアンよりも強敵だ。入り口付近でオタオタしていると。受付にいる女性スタッフが僕に気づき、カウンターを出て、こちらへ向かって来る。不審者と思われた、そう焦る僕とは対照的に。彼女はホテルのベルガールのように颯爽とドアを開け、「いらっしゃいませ」と微笑む。
僕が佐藤さんにアポがあることを伝えると、彼女は受付前のソファーに案内してくれた。
ソファーに座って、店内から御堂筋を眺めると。通りを歩く若い女性は必ずと言っていいほど店内を一瞥する。女性からすれば、こんな店で髪を切れるのは夢のようなことなのだろう。久美子さんが、この店のカットモデルになりたがっていたのが、今になって分かった。
御堂筋を眺めるのにも飽きたころ。佐藤さんがやってきた。僕は立ち上がって、一礼した。
「お待たせしました、佐藤です。お久しぶりですね」
彼に会うのは今年の正月以来だ。あのときよりも、佐藤さんは髪を短く刈り込んでいる。そして黒のズボンに白地のプリントTシャツを着ている。Tシャツはカジュアル衣料なのに、彼が着ると清潔感があって知的に見える。
「こちらこそ、突然のお電話、申し訳ありませんでした」
「いえいえ。今日は七時からの予約がキャンセルになりまして。急なお誘いにも拘わらずありがとうございます。今から帰り支度をしますので、もう少しお待ちください」
そう言って、佐藤さんは受付の奥に引っ込んだ。
夜の御堂筋をイケメンハーフと並んで歩く。僕が女性なら、こんなシチュエーションだけで恋に落ちただろう。というのも、男の僕からみても佐藤さんは魅力的だ。ついさっきも、後方の自転車に気づかない僕をさりげなくエスコートしてくれたし、今だって、佐藤さんが事前に予約してくれた飲食店に向かっている。
僕は久美子さんとデートをした気でいたけれど。これに比べれば、僕らがしていたのはレクリエーションだ。僕は生まれて初めてデートというものを体験しているのかもしれない。
佐藤さんが案内してくれたのは、ビルの最上階にある店舗で、しかも予約していたのは個室だった。部屋に入ると窓から御堂筋が見渡せる。ネオンが美しく感じられるのも、この間接照明のおかげだろう。僕が照明を見上げている間に、佐藤さんは席についてメニューを広げていた。僕は幾分かしこまって、できるだけ音を立てないよう椅子をひいた。
佐藤さんは「食べたいものを選んでね。遠慮しなくていいから」と言う。僕は食べることが好きだから、その言葉に甘える気でいた。僕は女子ではないし、たくさん食べても恥ずかしくない。空腹もあって、ワクワクしながらメニューを開くが、値段を見て固まった。
高い。どれもこれも三千円以上する。オレンジジュースなんて七百円だ。母がこの場にいたら大騒ぎしただろう。
「あれ?中華は嫌い?」
僕がメニューに目を落としたまま硬直しているものだから、佐藤さんはこんなことを言ったのだろう。僕は見栄を張らず、正直に答えた。
「中華は大好きです。ただ、値段が高くてビックリしました」
「学生さんだから、お金のことは気にしなくていいよ。一応、これでも人気スタイリストだからね」
僕は佐藤さんの人気にあやかって、遠慮なく食べたいものを選んだ。注文したものはどれも美味しく、特に野菜炒めに感動した。火加減によって、ただの野菜がこうまで変わるのか。これに比べたら、今まで食べた中華料理はファストフードだ。
社会人になったら初任給で、久美子さんをここに連れてこよう。そう思ったところで、当初の目的を思い出した。料理が美味しすぎて、すっかり頭から抜けていた。僕は箸を置き、あらたまって「先日は久美子さんが撮影をドタキャンしてすみませんでした」と、前置きがてら謝った。そして、まず生霊の説明をした。生霊が誰かを呪い殺すことはできないこと。生霊になるだけでも、本体には相当な付加がかかること。これは全て龍の受け売りだが、知り合いの霊媒師に教えてもらったことにして、本題に入った。
「顧客情報を漏らせないのは最もです。でも、久美子さんを救うことは生霊の彼女を救うことにもなるので、二人の間に何があったのか教えてくれませんか」
佐藤さんは少し考え込んでから口を開いた。
「彼女たちの間には何もないよ、そもそも面識すらない。でも、その前任のモデルさん…『結衣ちゃん』っていうんだけど。久美子ちゃんを恨む動機はあるかもしれない」
「それは久美子さんのせいで、モデルをクビになったからですか?」
「いや、そうじゃないんだ。結衣ちゃんの方から『モデルを辞めたい』って言ってきたんだ。彼女、去年の秋からブタクサアレルギーになって、顔の皮膚が
「じゃあ、どうして久美子さんを恨んでたんでしょう?」
「僕のせいかもしれない。もう気づいていると思うけど、僕は久美子ちゃんに一目惚れだったからね」
「結衣さんと、お付き合いしてたんですか?」
「僕は誰とも付き合わないよ。それは出会う女性、全てに説明してるよ。もちろん結衣ちゃんにも」
「結衣さんから、久美子さんの存在やモデルの件で何か言われたことはありますか?」
「ないね。一度もない。それ以前に、結衣ちゃんから女性関係のことで責められたことなんてないよ。彼女も『特定の男と交際しない』って言ってたし。僕と同じタイプの人間なんだと思ってた。だから、大垣君から生霊の話をされたときは驚いたよ。僕は結衣ちゃん以外の女性を思い浮かべたからね」
「佐藤さん、女遊びは程々にした方がいいですよ。霊媒師曰く、感情って凄く強いエネルギーらしいですから。久美子さんの背中や首には、結衣さんの『手形』が付いているんです。佐藤さんだって、いつどうなるか分からないですよ」
「ちょっと待って。手形ってどういうこと?」
「結衣さんが首を絞めたときの手の跡が残っているんです。ちなみに僕も絞められました。死ぬかと思いました」
「僕は、てっきり…写真に映るとか、部屋の隅に立っているとか、そんな程度だと思ってたよ…」
想像を絶する事態を前に、佐藤さんは言葉を失い、右手で口元を覆う。その仕草があまりにもサマになっていて、俳優が演技をしているように見えた。
「久美子ちゃんは、今どういう状態なの?」
「やつれています。生霊を使って殺人をするのは不可能だそうですけど、結衣さんの憎悪は凄いです。このままだと、久美子さんはどんどん衰弱していくだろうし、他の寮生も久美子さんの異変に気づいています」
「ごめんね、僕がスカウトしたばっかりに。こんなことになって」
「確かにそうなんですけど。でも、モデルをするって決めたのは久美子さんですから。佐藤さんが無理強いしたわけじゃないし」
「久美子ちゃんの彼氏が大垣君で良かったよ」
「あのう、結衣さんと『お付き合い』してもらうわけにはいかないですか?」
「それは逆効果だと思う。付き合うとなれば嫉妬も増すし、猜疑心も膨らむよ」
「…確かにそうですね。でも、どうしたら、結衣さんの嫉妬は収まるんでしょうか?」
「それなんだけど。結衣ちゃんをもう一度、スカウトしてみようと思うんだ」
「モデルに、ですか?」
「いや、スタッフとして。来年の春までには独立するつもりなんだけど。最低でも受付スタッフを一人雇うつもりでいたから。僕に『必要とされてる』って感じたら、結衣ちゃんの怒りも多少は収まるんじゃないかな?それに、久美子ちゃんと大垣君が二人で来店して、カップルだって分かったら。それこそ嫉妬もなくなるんじゃない?」
「いや、もう、それしかないと思います。結衣さん本体の思い込みを解かないことには、生霊を飛ばし続けるでしょうから」
「出店するのはまだ先だけど、近いうちに結衣ちゃんを呼び出してみるよ」
「ありがとうございます。それにしても、どうして独立するんですか?あんな立派な店で働いているのに」
「なんか、あきちゃったんだよね。あんな感じの店でしょ?似たようなお客さんばっかりで。モデル・タレント・アナウンサー・企業家…勉強になることもたくさんあったけど、もっと色んな人間に会ってみたいんだ」
「なんでまた、東大阪なんですか?」
「あの辺は学生街だから、集客率は大阪府内で常に上位なんだよ」
「そうなんですか。でも、言われてみれば、あの辺は美容室が多いですね」
「そうだよ、激戦区だよ。でも、凄く楽しみにしてるんだ。若者から御年輩まで、幅広い世代に愛される店にしたいんだ」
「佐藤さんが出店したら、あそこの女子高生や女子大生がキャーキャー言いそうですね」
佐藤さんは「そうかもね」とさらっと言って、笑い飛ばす。
「でも、僕がチヤホヤされだしたのは大人になってからだよ。学生の頃は名前と顔のことで苛められたよ」
「ハーフだから、ですか?」
「それもだし、名前がさ。『佐藤吉男』でしょ?顔と名前に凄くギャップがあるじゃない?自己紹介のたびに笑われるんだ」
「御両親はどうして、『吉男』にしたんですかね」
「親父の実家は和歌山で民宿をやってるんだけど、外国人観光客も来るんだ。いずれ和歌山に帰って、継がなきゃならないから、東京にいる間に英語をマスターしようと思ったんだって。それで親父は英会話教室に通い始めたわけ」
「それが、お母さんとの馴れ初めなんですね」
「そう。それで、イギリス人の母と結婚するんだ。のちに僕が生まれて、僕の顔を見たときに。親父は『この顔立ちで日本風の名前にしたらウケルかも?』って思ったらしいのね。要は悪ノリなんだよね。その悪ノリに乗っかって、母が『ラッキーボーイ』にしようって言ったんだって」
「御両親、やってくれましたね」
「そうだよ。で、その後。民宿を継ぐために、家族で和歌山へ引っ越したんだけど。僕は転校生だわ、変な名前だわ、ハーフだわ、英語も関西弁も喋れないわで、五重苦なわけ」
「それは過酷な学生時代でしたね」
「だから、できるだけ目立たないようにしていたんだ。昔は本当に地味だったよ。でも、大阪へ遊びに行ったときにモデルにスカウトされたんだ」
「モデルになろうとは思わなかったんですか?」
「撮影のときって、プロの人たちに会うじゃない。カメラマンとかメイクさんとか。プロの仕事って格好いいなぁって。それで気づいたんだ。僕は表に立つより、裏の方が向いてるって」
そう言う佐藤さんの手の甲には、湿疹の跡が幾つも残っている。聞けば。アシスタント時代にカラー剤やパーマ液に拠る手荒れが酷かったそうで、皮膚科医からは転職をすすめられたそうだ。
「そんなこと言われてもね。好きな仕事だから辞められないよ」
と言いながら、佐藤さんは自分の両手の甲をマジマジと見つめる。
「辞めたくないけど、ここまで手荒れすると、見た目が気持ち悪いじゃない?お客さんに失礼かな?とは、思うよね」
「失礼じゃないです、かっこいいですよ。プロって感じがします」
「大垣君は優しいね」
僕はお世辞を言ったつもりはないのだが、佐藤さんは大変気をよくしたようで、その後、紹興酒を何杯もおかわりした。そして、久美子さんにも食べさせてあげたいと『揚げ饅頭』を土産に持たせてくれた。
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