第15話 恨んだり、すがったり
平成生まれで、久美子という名は珍しい。『久美子さんには美人が多い』との自説をもとに、彼女の父親が名づけたそうだ。事実、彼女は名に劣らず美人だ。例の美容室に通いだしてから、ますます美に磨きがかかっている。女性に疎い僕でも彼女の化粧の変化に気づいたほどだ。
「今回だけ…」
と言っていたのに。久美子さんはいつのまにか、イケメン美容師の専属モデルになっていた。カットモデルの件でギクシャクし、どさくさ紛れに一線を超えたものだから、僕は彼女に罪悪感があった。だから専属モデルになったと聞かされたときも、「そうなんですか」で済まし、それ以上の追求はしなかった。
ここ数カ月、カットモデルの件は僕らの間でタブーになっていた。けれど今回は見過ごすわけにいかない。世の中にはヘアカタログなるものがあるそうで、久美子さんはそれに載った。食堂で英子さんと陽菜さんから雑誌を見せられたときはショックだった。僕は何も聞かされていなかった。
久美子さんが載ったのは、どこのコンビニでも置いてある著名な雑誌のようで、店のホームページに掲載されるのとは訳が違う。僕は今夜この話をしようと、メールで彼女を誘った。誘われた本人もピンときたようで、『分かった、ごめんね』との返信だった。
家庭教師のバイトを終え、食堂に出向くと、久美子さんがいた。彼女は僕を見るなり席を立ち、おかずを電子レンジで温めなおす。ご飯もよそってくれる。そして「部屋で待ってる」とだけ言い残し、出て行った。
夕飯を終え、僕が自室に戻ると。久美子さんはベッドに腰掛けテレビを見ていた。今夜、征二君は麻雀大会のため帰らない。隣室は無人で、喧嘩するにはうってつけだ。僕がそう言うと、久美子さんは苦笑いで、
「大垣君にクチで勝てるわけないじゃん。ちゃんと説明するから、喧嘩はやめよう」
と厭戦的な振る舞いだった。
「雑誌に載ることは、佐藤さんも事前に知らされてなかったから…」
佐藤とはイケメン美容師のことだ。
「全支店の作品から選ばれたのが、たまたま佐藤さんだったわけで、選ぶのは編集者だから。佐藤さんが介入できることじゃないよ」
僕に対する釈明というより、佐藤を庇っているように聞こえる。僕が顔をしかめると、久美子さんは「怒るのは最後まで聞いてからにして」と、たしなめる。
久美子さんは三回生になったので、これから就活で忙しくなる。頻繁に美容室に行くのは面倒なので、モデルはあと二ケ月でやめるという。佐藤さんが手がける広告用のヘアスタイルも、就活には不向きなので、これからは一般客として切ってもらうそうだ。
「でも、ハーフの美容室は料金が高くて通えないって、言ってませんでした?」
「…佐藤さん、独立するんだって。路上ライブをしてた、あの近辺で。あの辺は心斎橋と違って家賃が安いから、カット料金を下げるんだって。私の場合は特別会員ってことで、さらに安くしてくれるって」
「どこまで行っても、佐藤さんのお気に入りなんですね…」
「佐藤さん、『彼氏も連れておいで』って言ってくれたよ。彼氏も特別会員でいいって」
「僕のことを話したんですか?」
「だいぶ前に話してるよ。『アニソンを歌ってたのが彼氏です』って」
久美子さんは屋上でバーベキューをしたことやダムに行ったこと。手料理を褒めてもらったことを話したそうだ。
「…この半年間、僕は何に対して怒っていたんでしょう?」
「知らないよ、私が聞きたいよ!」
久美子さんはベッドにダイブして、ふて寝する。僕は冷蔵庫からアイスを取ってきて、彼女に渡した。
「これで済むと思うなよ」
そう言いながらも、彼女は嬉しそうにアイスを頬張る。アイスはコンビニで調達した。ついでに彼女が載っている雑誌も買っておいた。僕がページをめくろうとすると、久美子さんは邪魔をする。彼女の腕は僕が想定していたより長い。簡単に取りあげられそうだ。必死に抵抗するが、彼女は腕力もある。追い込まれた僕は言葉でやり込めるしかなかった。
「両親に紹介するときに、この雑誌を見せたいんですっ!」
途端に久美子さんは勢いを失くす。目を潤わして、「それって、プロポーズ?」と興奮気味に言う。
「僕にプロポーズされて、嬉しいんですか?」
「嬉しいよ、嬉しいに決まってるやん」
出力結果は僕の意図をはるかに超えていた。
その晩、彼女は僕の部屋に泊まった。布団に入りながら、進路のことや結婚後の生活を二人で妄想した。幸せの絶頂だ。世界で一番幸せなんじゃないか。このまま目が覚めなくても悔いはない、とまで思えた。そんなことを思いながら眠りについたが。数時間後、僕はあっさりと目を覚ました。半開きの目で天井を見上げると、部屋はまだ暗い。そこへ不気味な物音がする。少し経ってから、その物音が久美子さんに拠るものだと気づいた。寝言にしては大きいなぁ、そう思ったところで、久美子さんが悲鳴を上げる。
電気を点けると、久美子さんは額や首筋にびっしょり汗をかいていた。Tシャツの一部が汗で濡れ、変色している。僕は久美子さんに新しいTシャツを渡し、自分は台所へ水を取りに行った。
戻ってくると。久美子さんはこちらに背を向け、汗だくのTシャツを脱ごうとする。彼女の上半身裸の姿を見て、僕は息を飲んだ。恐怖から言葉が出ない。久美子さんの左肩から背中にかけて、誰かに掴まれたような手形が付いている。怪奇現象を前に物怖じするのが、僕の顔にありありと表れていたのだろう。着替えを済まし、振り返った久美子さんは怪訝な顔で僕を見る。
「どうしたの、何かあった?」
「いや、なんでもないですよ」
この場を取り繕うためにも、とりあえず水を手渡した。久美子さんは水を受け取ると、ベッドに腰かけ、一気に飲み干す。そして溜息と共に、我が身に起こった出来事を話してくれた。
「実際に体験したみたいにリアルな夢だった。こんなこと初めて。体が凄く疲れてる」
「どんな夢を見たんですか?」
「誰かが怒鳴ってた。その人に追いかけられて、捕まりそうになったところで目が覚めて…」
これ以上、彼女を怖がらせたくなかったので、僕は手形のことは言わなかった。僕も怖かったので、その晩は彼女としっかり手を繋いで眠った。
翌朝、目覚めると。彼女は隣にいなかった。風呂場から水音が聞こえる。シャワーを浴びているようだ。
台所で朝食を見繕っていると、久美子さんが風呂場から出てくる。彼女はバスタオルを胴体に巻きつけ、髪を頭頂部でまとめている。ラフにまとめただけの、この感じ。イケメン美容師が手がける華美なヘアスタイルよりも、自然なのに艶っぽい。
僕がそう言うと。久美子さんは「適当に結んだだけなのに。こんなので外に出れないよ」と恥ずかしそうにする。
「それがいいのに。久美子さんは着飾り過ぎですよ」
そう言いかけたところで、絶句した。彼女の背中には、やっぱり手形がある。心なしか、昨夜より赤く色付いているようにも見える。言おうかどおか、探り探りで様子をうかがっていると、彼女の方から切り出した。
「左肩から背中にかけて、痒くてチクチクする…でも、鏡で見たけど何も無いんだよね」
そう言って彼女は手形の上をポリポリと掻きむしる。手形は僕にしか見えていないようだ。
どこからどこまでが現実なのか、ハッキリさせるため、僕は洗濯機の中を調べた。案の定、久美子さんが汗で濡らしたTシャツが入っている。僕はそれを見せ、昨夜の悪夢について話したが、彼女はまるで覚えていなかった。それもあって、僕は手形の件は話さないことにした。知らぬが仏だ。彼女の異変というより、もしかしたら僕の心身の問題かもしれない。この寮に来てから、かつてないほど幸せ過ぎて、アドレナリンの分泌過多なのだろう。そういうことにして、僕はこの不可解な出来事に蓋をした。
それから暫くして。久美子さんは皆を避けるように、食堂へ顔を出さなくなった。僕以外の寮生も彼女の異変に気づいたようで、夕飯の席で、それが話題にのぼった。彼氏としては、皆に心配をかけて申し訳ないと思う反面、自分の彼女がああだこうだと詮索されるのは不本意だ。彼女の異変を間近で見ているにも拘らず、僕は「色々、忙しいんじゃないですか?」と当たり障りのないことを言って、皆の詮索を止めにかかった。
ところが。そんな僕でさえ、耳をかしてしまうような話を、陽菜さんが披露する。
「久美ちゃん、毎晩、うなされてるよ。私の部屋まで聞こえるもん」
心配した陽菜さんが、翌朝、部屋を訪ねると、久美子さんは「ぐっすり寝ている」と言い切るそうだ。けれど、久美子さんの顔色は悪く、肌荒れが酷いらしい。 僕もここ何日か彼女に会っていない。僕がメールをしても、返信しないことが多々あった。そんなわけで、不本意ではあるが。僕は彼女と話をするため、合鍵を使って部屋に乗り込んだ。
窓もカーテンも締め切って、クーラーもつけていないから、室内は異様な暑さだった。その上。暗いところへテレビだけが点いていて、ホラー映画のワンシーンのようで薄気味悪い。
この暑さの中。久美子さんは布団を体に巻きつけ、フローリングに横になり、ぼうっとしている。僕がエアコンをつけようとすると、「寒い、やめてよ」と酷く嫌がる。僕は彼女のデコに手をあてがい、体温を確認したが、風邪をひいているわけではなさそうだった。
「大丈夫ですか?御飯は食べてますか?」
「うん、食べてるよ」
僕は熱中症を心配し、グラスに水を入れ、彼女に持っていった。久美子さんは水を飲もうとして、体に巻きつけた布団から手を伸ばす。
僕は身を竦めた。彼女の左腕には誰かに掴まれたような痕がついている。それは、またしても僕にしか見えていないようで、久美子さんは水を飲み干すと、その手形の上を痒そうに掻きむしる。
「体調はどうですか?」
「大丈夫、元気だよ」
「陽菜さんから聞いたんですけど。毎晩うなされてるらしいですね。それは覚えてませんか?」
「そんなことないよ、ちゃんと寝てるもん」
彼女はそう言うが。目の下にクマができ、睡眠不足のせいか、肌には赤い発疹が幾つもある。久美子さんの悪夢と手形には因果関係があるだろが、それは人知で解明できないことだろう。この怪奇現象を前に、僕は成す術もなかった。
ふいに父や叔父や祖父母のことが思い出された。母が龍に憑依されたときも、家族はこんな気持ちだったのか。まさか、龍のせいか?御坊さんを使って、龍退治したせいか?これは祟りか?僕があんな話をしたばかりに、今度は久美子さんが…。
叔父に相談しよう。自室に戻って電話だ。僕はいてもたってもいられず、部屋を飛び出した。
外廊下に出ると。いつもの景色はそこになかった。K大の三十八号館の窓明かりを阻むように、白い龍が立ちはだかる。龍は四階にいる僕のところまで首を伸ばしている。動物園で猛獣と接するより近い。手すりから身を乗り出せば、髭にも鱗にも手が届きそうだ。
だが、そんなことできやしない。声も出ない。耳元で蚊がブーンと唸るが、恐怖に支配され、追い払うことさえできない。
暫くそうしていると。階下から笑い声がする。どうやら、月極駐車場に若者数人がやってきたようで、談笑しながら車に乗り込む。車が出て行くのと行き違いに、今度は犬の鳴き声がする。散歩中の飼い犬が駐車場を横切ったのだろう。犬は龍の気配を感じるようで、立ち止まって
すると、龍が犬の方に首を向ける。
「面白いだろ?見える奴には見えるんだ」
そう言って、また僕の方に向き直り「なぜだか分かるか」と聞いてくる。
返事に困る。現に見えている僕でさえ、心当たりなんてない。そうこうしているうちに、隣室から物音がする。どうやら陽菜さんが外出するようだ。久美子さんと僕は交際をひた隠しにしているので、僕がこの場に居るのは非常にマズイ。それに。陽菜さんは龍が見えないだろうから、この場に佇む僕を不審に思うだろう。そうは分かっていても、龍を前にして恐怖で足が動かない。
「場所を変えよう」
龍がそう言った途端、僕は屋上に居た。通りの向こうで、自転車に乗った陽菜さんが見える。それが見えなくったところで、龍が口を開いた。
「おまえは順子のせがれか?」
あの場から瞬間移動で逃がしてくれたものだから、恐怖も和らぎ好感さえ湧いていた。また、母の名前が出た以上、僕はこの龍に聞かねばならない。
「そうです。母を知っているということは、母に憑依したのは、あなたですね?」
「順子には悪いことをした」
「そもそも、御坊さんが除霊したはずなのに…どうしてここに居るんですか?」
「坊主が見たのは私のエネルギーの
「どうして母に憑依したんですか?」
「憑依したつもりはない。私は順子の子として生まれたかった。お前が居るということは、私は失敗したのだな」
「母とはどういう関係ですか?」
「お前に話すようなことではない」
「僕は蚊帳の外ですか?なら、どうして僕の目の前に居るんです?」
「それは私にも分からない。目覚めたら、お前が居た。邪険にしたつもりはない、真実を話したところで、お前が混乱するだけだ。詫びに、別の真実を教えよう。久美子を苦しめているのは私ではない。私は関与していない」
「久美子さんを助けて下さい。それが無理なら助ける方法を教えてください」
「人間はあいかわらずだ。神を恨んだり、すがったり」
月極駐車場のアスファルトが水面のように波立つ。龍は頭から潜っていく。下へ下へと潜り続け、尻尾が沈みきったところで、波はおさまり元のアスファルトに戻ってしまった。
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