第12話 僕が選んだ現実は
隣室から聞こえる楽曲が気になって仕方ない。バンド名と曲名は思い出せないが、そのバンドマンの出で立ちはよく覚えている。歌舞伎役者のようなヘアメイク。ボーカルの歌唱力も然ることながら、華奢なドラマーがドラムセットを叩き壊していたっけ。そうだ。小泉元総理が贔屓にしていた、あのバンドだ。携帯を取り出し検索してみると、あっさり答えは得られた。エックスジャパンだ。
エックスが終わり、次の曲は『崖の上のポニョ』だった。成人女性が歌っている。時折、幼児のたどたどしい声が混ざる。どうやら隣室は家族連れのようだ。さっきまで、けたたましくエックスを熱唱していたお父さんが「上手だったねぇ」と猫撫で声で我が子を褒める。
その落差に、飲んでいた紅茶を鼻から吹き出してしまう。久美子さんが来る前で良かった。交際初日のデートで、鼻から紅茶を出すなんて悪夢だ。テーブルにはルビアンで買ってきたケーキがある。ケーキにメッセージを書いてもらった。『好き』『愛してる』は恥ずかしいから『ありがとう』にとどめた。
こんなに好きなくせして、どうして面と向かって言えないのだろう。そう言える間柄なのに。
はっと我に返って、気味悪くなる。恋愛のことばかり歌っているシンガーソングライターみたいだ。自分がこんなになってしまうなんて、恋愛は恐ろしい。
戦々恐々としているところへ久美子さんがやって来る。彼女はドアを開けるなり、「わぁ。ケーキがある」と感嘆の声をあげる。久美子さんはケーキに注目していたが、僕は彼女のミニスカートに釘付けになった。山に行ったときも、部屋で寛ぐときもズボンを穿いていたから、ひときわ色情的に見える。
久美子さんは僕の隣に座ると、ケーキの箱を開け、そこに描かれた文字を見て、クスッと笑う。そして「こちらこそ、ありがとう」と、僕の方に向き直る。おかげで。首を少し伸ばせば、唇に届きそうな至近距離。僕は咄嗟に目をそらした。久美子さんは恥ずかしいとも思わないようで話を続ける。
「リュックから鍵が出てきたとき、本当に嬉しかったよ。大垣君が好きなのは私じゃないって思ってから」
僕は驚きから恥ずかしさも忘れ、久美子さんの方に顔を向けた。
「そんな!他に誰がいるんですか?」
「同じ大学の人とか、地元の同級生とか。あるいは、陽菜ちゃんとか」
「陽菜さんが好きだったら、彼女の部屋の前を通って、久美子さんの部屋に行ったりしませんよ」
「そっか、それもそうだね。なんか、色々考え過ぎてたなぁ」
「それは僕も同じです」
「二人して遠回りしてたね」
「僕は近道だったと思ってます。遭難してしまうような道なき道を突き進んだら、久美子さんが居た、そんな気がします。寮に住むのが本当に嫌だったのに、こんな未来が待ってるなんて、今でも信じられないです」
「私もそうだよ。大垣君には悪い印象しかなかったもん、下着見られたし。でも、気づいたら、どんどん好きになってた」
恋が成就したことがない僕には『好き』という言葉は重すぎた。幸せすぎてどう受け止めらたいいか分からない。だから「そんな、とんでもないです」と遠慮した。久美子さんは「なんで、遠慮するの?失礼だよ」と笑う。
その笑顔に吸い込まれた。それはクラスメイトからの冷笑とも違う。テレビを哄笑する母とも違う。世の中を嘲笑する父とも違う。僕のことを、僕と過ごすこの時を、彼女は心から楽しんでくれている。それが嬉しくて僕も笑った。
笑っている最中。頭の片隅に、高校時代の自分が過ぎった。あまりの違いに同じ人物とは思えない。幾多の選択の結果、こうなっただけで、別の現実もあっただろう。
作り笑いを繰り返し、不登校になった僕。家庭教師をクビになり、路上でナイフを振り回す僕。一目惚れした女子高生にストーキングする僕。そんなことを考えていると、目の前に居る久美子さんにも現実味が薄れていく。僕のためにケーキを切り分ける彼女が絵空事に思える。
脳を通じ時空を彷徨っていた僕を、久美子さんはいとも簡単に引き戻す。切り分けてくれたケーキの甘さが、舌を通じて、僕をこの瞬間に蘇らせる。過去はどうあれ、僕が選んだ現実はこのケーキのように甘いのだ。このケーキの甘さがそれを裏打ちしている、そんな気がした。
僕が物思いに耽っている間に、久美子さんはケーキを食べ終え、サンドイッチを頬張っていた。
「ルビアンのサンドイッチはやっぱり美味しいね」
「僕は久美子さんが作ったやつの方が美味しいと思います」
「大垣君、ちゃんと噛んで食べた?」
「食べなくても分かります。久美子さんのが好きです」
「そっか。じゃあ、また作るよ」
久美子さんはサンドイッチを食べ終え、紅茶を飲み干すと、「よし、歌う」と言ってデンモクを手にとった。初めから歌う曲が決まっていたようで、久美子さんはテンポよく検索し、入力する。手際のよさからして、カラオケにはちょくちょく行っているようだ。
イントロが流れると。久美子さんは頭を揺らし、リズムをとりながらマイクを握りしめる。その第一声たるや、お世辞にも上手いとは言えなかった。アマチュアなのだから下手でもいいはずなのに、華麗な容姿のせいで、ガッカリ感が否めない。けれど当人はなんとも思っていないようで、堂々と最後まで歌いきった。そして「次は大垣君だよ」と言って、デンモクを僕によこす。
「こういうときって、何を歌えばいいんですか?女の子と来たことがないからなぁ…」
「私のことは気にしなくていいよ。大垣君が好きな歌を選べばいいよ。私だって上手じゃないし」
久美子さんは下手を承知で熱唱していたのか。征二君同様、己の欠点に対して堂々とできる性分らしい。僕は彼らのそういうところが好きだけど。もしかしたら、彼らがイガミ合うのは『同族ゆえに』かもしれない。
僕は久美子さんの言葉に甘え、自分が好きな曲を入力した。これは大学受験の頃。ストレス発散に、よく聞きよく歌っていたバンドの曲だ。
唄い慣れた曲とはいえ、好きな女性の前だから恥ずかしい。僕はイントロが始まると座席を移動し、久美子さんに背を向けた。緊張から一小節目は出遅れた。サビが終わり、間奏をむかえた頃には背中にぐっしょり汗をかいた。
僕の緊張をあおるように久美子さんは何も言ってくれない。アウトロに差しかかっても、後方にいる彼女からは拍手も感想も聞こえない。いつもならアウトロに入った時点で曲を止めるが、気まずさからそのままにしておいた。久美子さんの反応を見るのが怖くて、振り返れない。曲の世界観に入り込んでいるフリをして、演奏を最後まで聞いた。
演奏も終わり、とうとう室内は静まり返る。僕は恐る恐る、久美子さんを見た。彼女は俯き、顔を伏せている。込み上げる笑いを堪えているのか。
ところが。顔を上げた彼女の頬に涙があった。僕が「なんで泣いてるんですか」と驚くと、久美子さんは「感動した」「びっくりした」と何度も言う。
久美子さんの涙には驚いたが、彼女に喜んでもらえたことの安堵から、僕は紅茶を飲み干した。歌いなれた曲なのに一仕事終えたように疲れる。
「大垣君、みんなから上手いって言われるでしょ?」
「そんなこと、言われたことないです」
「またまた。大垣君はすぐ謙遜するから」
「ホントにないです。友達とカラオケに行ったことがないんです。いつも独りでした」
「こんなに上手いんだから、みんなと行けばいいのに」
どうやら久美子さんは、僕が『恥ずかしがって、みんなからの誘いを断っていた』と思い込んでいる。『誰からも誘われなかった』という現実は、彼女には想像もつかないことらしい。
僕は真実を詳らかにしなかった。僕の身に起きた高校生活を知れば、心優しい久美子さんは、我が事のように悲しむだろう。だから話せる範囲で事実を話した。
「母方の叔父がカラオケ店を経営していたんです。今は潰れて、もう無いんですけど。店を手伝うかわりに、タダで歌わせてもらってたんです」
「こんなに上手いんだから、独りで楽しむよりも、みんなに聞いてもらった方がいいよ。勿体無いよ」
「勿体無いってどういうことですか?僕の歌なんて、誰も聞きたがらないですよ。僕だって自己満足で歌ってるだけだし」
「私は感動したよ」
「それは…彼女だから」
久美子さんはすくっと立ち上がると、二三歩、後退する。台形の布から伸びる、細く長い足。ミニスカートを穿いていると、スラリとした体型が一際強調される。
「大垣君だって、私のミニスカート見て、何か思うことあったでしょ?」
あの一瞬の凝視を見抜かれていたとは思いもしない。
「謝らなくていいよ。似合うと思ったんでしょ?私だって、似合うと思ってるから穿いてるし」
「久美子さんはやっぱり凄いですね」
「なんで?せっかくの長所だから、それを大事にしたいだけだよ。私だって、昔はスカートなんて穿いてなかったよ。でも友達が『似合うのに勿体無い』って言ってくれたから」
久美子さんの言いたいことはよく分かった。けれど僕にはカラオケに行くような友達が、本当に一人もいないのだ。勿体無いと言われても、どうしようもない。
「僕の周りはカラオケが嫌いな人ばっかりなんです。久美子さんが聞いてくれるだけで充分ですよ」
「だったら、征二と一緒に駅前で歌ったら?」
「駅前って、路上ライブってことですか?」
「征二だってそんなに上手くないよ。征二にギターを弾かせて、大垣君が歌う方がいいよ」
「でも、それは征二君に失礼でしょう」
「アイツはチップ目当てで歌ってるようなものだから、その辺のことは気にしなくていいよ。大垣君が歌う方がチップも多くもらえるかもしれないよ」
「うーん。やっぱり。何とも言えないですね。征二君に聞かないと…」
久美子さんは携帯を取り出すと、どこかへ電話する。
「まさか征二君に電話してるんですか?」
久美子さんは自身の唇に人差指をあてがい、僕に黙るよう示す。
僕の意見を汲まず、突き進む彼女に困惑したが。僕に黙るよう仕向ける、その仕草が可愛くて、つい従ってしまう。
征二君は電話に出たようで、久美子さんは「今すぐここに来い」と命令口調で言う。端で聞いていても無茶な物言いだ。当然、征二君はそれに反発する。電話の向こうから喧嘩腰の応答が聞こえる。具体的に彼が何と言ったのかは分からないが、久美子さんを怒らせるようなことを言ったのだろう。彼女のパッチリ二重が一重に変わっている。久美子さんはドスの利いた声色で、「とにかく来い。来たら分かるから」と言うと、一方的に電話を切った。
「征二君、来ますかね?」
「アイツは来るよ。そういう奴だから」
久美子さんは嫌いと言いながらも、征二君のことをよく理解しているし、こうして待つこともできるのだ。実際、彼女の言うとおり。征二君は三十分も経たない内にやって来た。三十分前、あれだけ罵り合っていたのに、二人共よく顔を合わせられるものだ。
久美子さんは開口一番「遅い」と怒鳴る。
「遅くないわ。なぁ、大垣?」
「遅くないですよ、早いくらいです」
久美子さんは飼い犬に言うように「うるさい、お座り」と言って床を指差す。征二君は僕を直視して、「こんな見た目だけの女に騙されるな。絶対に好きになるなよ」と真剣に言う。
「好きどころか、今日から彼氏です」
と言えるわけもなく。僕は返答に困って、久美子さんの方を見た。彼女は『バーカ』と言わんばかりの勝ち誇った笑みを浮かべる。征二君を出し抜き、こっそり交際していることが嬉しいのだろう。
僕はこの場を治めようと、「久美子さん、ちょっと言い過ぎですよ」とたしなめ、征二君を椅子に座らせた。征二君はドカッと座り込むと、「来たら分かるって、どういうこと?」と久美子さんを睨む。
「黙れ。そのうち分かるから」
そう言いながら、久美子さんはデンモクを手に取って入力していく。
イントロが始まる。これは僕がさっき歌った曲だ。久美子さんは当然のように僕にマイクを渡す。二回目とあって、一小節目も飛ばさず歌えた。そしてサビを終えたと同時に、隣にいる征二君が「うまいな」と褒めてくれる。その一言が嬉しくて、さっきみたいに背中に汗をかかなかった。アウトロを迎えたとき、風呂上りのように爽快だった。こんなに気持ちよく歌えたのは初めてだ。その上、征二君が盛大に拍手してくれる。
「上手いのはよく分かった。じゃあ、帰るわ」
そう言って席を立とうとする征二君を、久美子さんが制止する。
「座れ、バカ」
「アホはいいけど、バカはやめろ」
罵られながらも征二君は大人しく着席する。この二人、一体何なのだろう。
「聞いたとおり、大垣君は上手いでしょ?」
「まぁ、な」
「征二が路上で歌うより、大垣君が歌った方がいいと思う」
「俺をバカにするために、ここに呼び出したのか?」
険悪になってきたので、僕は両者の間に割って入った。
「久美子さんは『僕と征二君の二人で路上ライブをやったらどうか』って言ってるんです。僕がギターを弾けないから…」
久美子さんは征二君を説き伏せたいようで、威勢のいい声で詰め寄る。
「征二だって、チップ目当てで歌ってるだけじゃん。大垣君が歌う方が稼げるよ」
僕は胸のうちで異を唱えた。『チップが全てじゃないだろう』と。征二君だって、僕と同じで歌うことが好きなはずだ。僕は久美子さんの勢いに水をかけた。
「決めるのは征二君ですからね。嫌なら『イヤ』って言って下さい」
征二君は少し考え込んで、頭をポリポリ掻くと、「別に嫌じゃないけど」と呟く。
意想外な返答に、僕は拍子抜けした。
「だって、知らん奴と組むわけじゃないし。大垣が無理してないなら、別にイイぞ」
「でも、僕がボーカルで征二君がギターですよ?歌えなくなっても、いいんですか?」
「散々、独りで歌ってきたし。そろそろ飽きてきたところだから、丁度イイよ」
僕は展開の速さについて行けなくて、呆然とした。久美子さんは「じゃあ、決まりね」と嬉々として、酒をあおるかのように紅茶を飲み干す。
「ところでさ。これは何だ?」
そう言って征二君がケーキの箱を指差す。
僕と久美子さんは路上ライブの件に気を取られ、ケーキの存在をすっかり忘れていた。そもそも今日は恋愛成就を祝うためにここに来たのだ。それさえも忘れかけていた。
久美子さんは助けを乞うような視線をこちらに向ける。僕は征二君に感づかれまいと、その熱視線を避けながら、あることないこと、でっち上げた。
「征二君が僕と組んでくれたときのために、ケーキを用意しておいたんです」
「結成祝いってことか。やるなぁ、大垣」
征二君は箱を開ける。
「『ありがとう』ってメッセージは嬉しいけど、なんで先に食べるわけ?普通、待つだろ」
返答に窮していると。本来、僕にあるはずの回答権を久美子さんがひったくる。
「もう、そんな細かいこと言うな。これだけ残ってたら充分。さっさと食えっ」
久美子さんが乱暴に丸め込もうとするから、征二君の物言いも荒々しくなる。
「どうせ、お前が『先に食べよう』って言ったんだろ。大垣がこんな無神経なこと、するわけないからなっ!」
二人の口論はその後もずっと続いた。
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