第10話 無敗の女王
屋外に出ると、ベランダ用のスリッパが氷のように冷たい。居た堪れなくなって、左右の足をジタバタ踏み鳴らす。それに呼応するようにカラスが鳴いた。カラスは寮の裏手にある送電鉄塔の中腹から飛び立つ。つられて目で追うと、生駒山から太陽が半分突き出るのが見える。その半円の太陽がフロアライトのように天上を照らす。昇天に至らない太陽のせいで地上は薄暗く、空の青さは未だ見えない。
でも、雲がないことは分かる。天気は上々、行楽には打ってつけ。けれど久美子さんのことを思うと、一瞬にして心が曇る。左の口角もクイっと上がる。
自称雨女の久美子さんは今日の雲行きを酷く心配していた。彼女があまりにも気にかけるので、僕もこまめに天気予報に目を通した。けれどそのうち、天気以外のことが気になりだした。
久美子さんの言動は天気予報よりも曖昧だった。ついぞ一週間前は明け方まで話し込み、出掛ける約束まで交わした。それなのに、ここ最近の彼女はどこか余所余所しく、約束のことなど忘れているように見える。
スリッパの冷たさも忘れるほど、物思いに耽っていると。体が芯から冷えた。耐え切れなくなって居室に戻るが、何もすることがない。結局また、悶々としてくる。いや、本当はすることなら色々ある。トイレ掃除も随分していないし、なんなら、征二君から借りたままの『ワンワールド』の続きを読んだっていいわけだ。
けれど、どれをする気も起こらない。久美子さんに会いたいばかりで、他のことに集中できない。それに期待と緊張のせいで、腹の辺りが気持ち悪い。内蔵がプカプカと宙に浮いたように感じる。
ベッドに横たわり伸びをする。天井を見上げ、これまでの経緯を整理する。
先日、久美子さんの部屋で話し明かした際。僕の曽祖父のことが話題にのぼった。僕は曽祖父に生き写しで、自分の誕生日と曽祖父の命日が同日だった。久美子さんはこの事実を興味深げに聞いていた。だから僕も勢いを増し、来週に曽祖父の供養にいくことや、その寺の場所を話した。すると彼女は、その寺の地名に食いつき。その寺の近辺にダムがあるのではないかと聞いてきた。
「そういや、ありましたね」と言うと、久美子さんは目を輝かせ、「ダムが見たいので私も行きたい」とせがむ。迷惑ではないが、僕は生まれてこの方、異性と出かけたことがない。ましてや久美子さんのような美人を連れ立って歩くなど、(妄想以外で)経験がない。
戸惑う僕をよそに、久美子さんは何を着て行こうかと思案しながらクローゼットを漁る。それから「おにぎりとサンドイッチ、どっちが良い?」と当日の昼食のことにまで考えを巡らせる。この気遣いは恋愛感情によるものか。それとも、こんなことは女性にとっては当たり前の作法なのか。
彼女は今、何をしているのだろう。
こうして思い返しながら、見上げるこの天井の向こうに久美子さんがいるわけだ。クローゼットを今も漁っているのか。それとも昼食作りに励んでいるのか。結局、彼女は『おにぎり』と『サンドイッチ』どちらを用意したのだろう。それとも、僕との約束を忘れ、今も布団の中で眠っているのか。あれこれ逡巡しているうちに、自分も眠くなって夢をみた。
夢のなかで久美子さんは泣いていた。僕がいくら宥めても彼女の涙は止まらない。一層激しくなる。そして僕らを取り囲むように見物人が増えていく。泣いている久美子さんをあざ笑う者もいれば、僕を叱責する者もいる。僕は彼女の手を引いて群衆から立去ろうとするが、それを阻むように人々は僕らを押し戻す。その押し合い圧し合いの最中、目が覚めた。
慌てて飛び起き、時計を見るが、まだ十五分しか経っていない。洗面所に向かい、もう一度念入りに歯を磨いた。
駐輪場に降りると、久美子さんの自転車は既になかった。約束を忘れ、寝ているわけではなさそうだ。
「行ってみなけりゃ分からない」
ふいにそんな言葉が口をついた。僕は自転車にまたがると、「なあぁぁぁ」と悲鳴とも憤怒とも言えるような奇声を発した。そうして漸く、最初の一漕ぎに踏み切れた。自転車を漕ぎながら空を見上げると、早朝に見たままの行楽日和。けれど視線を前方に移すと、そこに広がる世界はドンヨリしている。僕にはそう見える、いつか見たあの悪夢のようだ。
夢の中で、僕は重力に潰されそうになっていた。どういうわけか、僕にだけ重力が強くかかっているのだ。一歩踏み出すにも息切れするし、大汗をかく。あのとき見た夢の感覚に似ている。と言っても、似ているのはその体験をしているときの僕を取り巻く世界の様相だ。異様な状態で歩く僕を、誰も気に止めない、僕が存在しないかのように振る舞う。そして今まさに。あの街の印象や、あの瞬間の心象とぴったり重なる。これはデジャブか?
いつか見た悪夢を引き合いに、自分の感情を
結論に至るや。僕は
悪い未来を想像したおかげで。駅に着いたら、世界はいつも通りに見えた。独りで向かうものと決め込んだので、改札を抜け、ホームに辿り着いても僕は彼女を探そうともしなかった。それより、出発前に用を足そうと、トイレへ向かった。
トイレまで、あと一歩…というところで。甲高い物音が背後に響いた。その雑音が気になって、振り返ると、久美子さんがいた。
久美子さんは一息吐いて呼吸を整えると、「何回も呼んだのに」と拗ねる。さっきまで自分が抱いていた被害妄想を、彼女は一瞬で蹴散らす。僕は感動したと同時に、この場に登場するだけで根暗な自分に光を与える彼女が猛々しく見えた。
猛々しくも華麗な久美子さんは、デニムにスニーカー、そしてリュックサックを背負っている。このイデタチからして、先日言っていたように、何がなんでもダムを見る気でいるらしい。僕は久美子さんの衣服に気を取られ、ああだこうだと黙考していたので、彼女の視線に全く気がつかなかった。
「大垣君、その格好…」
と言われてから、久美子さんが僕の衣服に注視していたことに気づいた。僕の私服センスの無さに彼女は面食らっているのだろう。確かにそうだ、初めて二人で出かけるのだから、服の一着くらい買えば良かった。けれどオシャレに疎い自分のことだから、結果は同じだろう。僕は何と言って取り繕えばいいか分からず、しどろもどろした。すると、久美子さんは真面目な顔で言う。
「山は冷えるよ、その格好は絶対に寒いよ」
久美子さんは僕の身形を気にもせず、それどころか僕の体調を気遣ってくれる。それなのに、自分ときたら「ありがとう」の一言がやっとだ。
電車に乗り込んでからも、自分の不甲斐なさに消沈し、俯き加減で黙っていると。久美子さんが僕の顔を覗き込むようにして尋ねる。
「眠いの?」
そう言って、彼女はまっすぐにこちらを見つめる。その目を見ていると、『ワンワールド』を思い出した。久美子さんの目は漫画に出てくるヒロインのようにパッチリしている。僕はその目に魅せられて、照れくさいから「えぇ、まぁ」と簡単な返答で済ませた。
「あんまり寝てないの?」
「寝ておきたかったんですけど、ダメでした。遠足に行く子供みたいですよね」
「私も!おかげで時間があったから、お弁当は作れたよ」
寝ていないと言いながらも、久美子さんは
久美子さんとの会話に相槌を打ちながら、こうして彼女の多面性を腑分けしていると、別のあることに気づいた。向かいや斜めに座る人達が、こちらを盗み見る。それだけでなく、電車に乗り込んでくる人や通路を歩く人たちもだ。そうして意想外のモノに出くわしたときのように奇異な目をする。僕は今日までこのような注目を浴びたことがない。この注目は彼女の美しさから来るものか。それとも。美人が上機嫌で
一通りの状況把握が終わると、僕はゲンナリした。久美子さんの隣に居ることが悪いことに思える。「立場をわきまえなさい」と諭されているように感じる。僕は周囲の視線を避けようと伏目をした。口数も徐々に減らし、終には下を向いて寝たふりに転じた。それを見受けてか、久美子さんも御喋りを止める。
悪いと思いながらも、僕は寝たふりを続けた。その間、あれやこれやと黙考に耽った。久美子さんは乗客からの視線に気付きもしない。というより、こうして注目されるのは彼女にとって日常茶飯事なのか。寺に行くだけのはずが、こうして彼女の日常を味わうことになるとは思いもしない。そう思った途端、ある感覚が起こる。幼少の頃から持て余した、あの感覚だ。
兄弟の居ない僕は独りで遊ぶことが多かった。目に見える範囲には自分しか居ない。そのせいか僕は幼児の頃から自分の世界というものをハッキリ自覚していた。そしてある時分から疑問が沸いた。自分が体感しているこの世界は両親には見えているのか。自分が居間で遊んでいるときも母は台所で炊事をし、父は働きに出ている。自分も父や母の世界は見えない、分からない。それでも家族として成立していることが、僕には奇妙に感じた。
大人になれば、父や母の世界がハッキリ見えるのか。実は自分の知らないところで、僕の世界と両親の世界は繋がっているのか。けれど。歳を重ねるにつれ、そんなロマンもいつしか消えた。他人と交わされるのは情報ばかりで、他人というのは情報の媒介者でしかない。大人になっても、他人の世界は見えるはずもなく、自分の世界は自分だけのもので、他人に理解されることや、交わることは無い。僕は、そう結論づけた。
それなのに。こうして隣に座り、電車に揺られているだけで、彼女の世界が垣間見える。その片鱗はとても大きく、小さな窓から見える空のようだ。僕は寝たふりをしながら、この場を味わった。そのうち、気持ちよくなって真に眠ってしまった。
目を開けると。隣に座っていたはずの久美子さんが目の前にいた。僕を見下ろし、「やっと起きた」と言いながら、僕の腕を引っ張り、降車を急かす。状況を理解し、僕は慌てて立ち上がる。
改札を抜けると、久美子さんは辺りを見回し、「こっちでいいの?」と前方を指差す。
「そうです」と言ったものの、ここに来るのは二年ぶりなので、一先ず案内図に目を通してから彼女をエスコートすることにした。図面に描かれた道順を目視で追っていると、久美子さんが横から割って入る。
「ダムはここでしょ?長谷寺からは一時間くらい?」
そう言ってダムの場所を指でなぞり、そこをトントンと叩く。
僕は地図を見るのは得意だが、即答できなかった。僕はダムを示す彼女の人差し指に見惚れていた。白く、すらっとした指。電車で居眠りしていたとき、ヒンヤリとしたものが頬に触れた気がしたが、それが何であったか、この指を見れば瞭然だ。僕は恥ずかしくなった。両頬には細かいニキビが幾つも点在している。それに彼女が触れたかと思うと…
「大垣君!」
久美子さんに呼ばれ、我に返った。
「大丈夫?今日、ちょっと変だよ」
「変なのは久美子さんです!」
そう叫びたかった。ここ最近、懇意にしてくれるし、僕が寺に行くと言えば「着いて行く」と言う。けれど約束をしたはずなのに、僕のことを忘れているのかと思うほど、そっけない。かと思えば今日は上機嫌。そして、電車であれだけ注目されたというのに全く動じない。けれど、それを言ってしまえば、僕も混乱するし、彼女も困惑するだろう。何より今日のこの日が台無しになってしまう。僕は言いたいことの全てを飲み込んで、笑って誤魔化した。
駅を離れ、門前街に差し掛かると、長谷寺へ向かう参拝客がそこら中にいた。門前街には旅館や土産物屋が軒を連ね、そこに並ぶ建造物は漆喰に瓦屋根を施したものが多い。大きなリュックを背負ったバックパッカーの外国人が、日本情緒あふれる街並みを愛おしそうにカメラにおさめている。
しばらく歩いていると、列を成す人の群れに出くわした。僕は一目見てそれが何であるか思い出した。初見でないのもあって素通りするが、隣を歩く久美子さんが興味を持ったので僕らは引き返した。立ち止まり、そこで営まれる商いを見物していると。僕らの先を歩いていた外国人も足を止め、店先で餅をつく店員の動作を、目を丸くして見入っている。
「草餅かぁ、美味しそうだね」
「この辺の名物なんです。帰りに買ってかえりましょうか」
「今じゃなくて?」
「だって僕らにはサンドイッチがあるでしょ?」
「そうだね、ありがとう」
このとき僕は違和感を持った。久美子さんの言う「ありがとう」が何を指すのか分からない。だからふいに「えっ?」と聞き返した。
「うん?何が?」
「いや…さっき『ありがとう』って言ったでしょ?何に対しての『ありがとう』なのかなぁって。サンドイッチを作ってもらったのは僕なのに」
「大垣くんは私が作ったサンドイッチを食べ残したら失礼だと思ったんでしょ?だから帰りに買おうって言ってくれたんでしょう?」
「あぁ、そういうことですか。確かにそうなんですけど。でも、僕がケチだからそういうことを言ったかもしれないって、思わなかったんですか?」
「思わないよ、そんなこと」
久美子さんは一笑する。
「どうして僕がケチじゃないって分かるんですか?どうしてそう思ったんですか?」
食い下がる僕に久美子さんは少々戸惑っていた。僕がこうして食い下がるのは『議論好きが高じて』ではない。僕は自分よりも人間交際に長ける彼女の経験を拝聴したかった。
その辺のことを説明すると、久美子さんはこちらの意図を理解したようで、さっきよりも表情を和らげ「ええっと」と言いながら宙を仰ぐ。
「うーん…なんとなく、一緒にいたら分かるよ。実際、大垣くんはケチじゃないでしょ?」
そのフワッとした回答に、僕は内心がっかりした。答えを欲していただけに、満たされない欲求から、なおも食い下がってしまう。
「そうなんですけど。その、なんとなくってのが、僕には分からないんです。その、なんとなくっていうのは直感ですか?人間交際における直感ってアテになりますか?思い込みと何が違うんですか?人間交際は数学と違って明確な答えは出せないし、客観性も乏しいでしょ?勘が当たれば直感で、外れれば思い込みですか?だとしたら物凄くギャンブルですよね」
気が付けば、久美子さんは押し黙って項垂れている。彼女の言うことにケチをつけるつもりはなかったが、勢い余ってこうなった。僕は慌てて謝った。すると意外にも「謝ることないよ」と返ってくる。久美子さんは顔を上げ、「別に怒ってないよ。そう言われたらそうだなぁと思ってさ」と言いながら腕組みをする。
「たぶん…でもいい?」
「はい」
「私が知り得る大垣くんの長所や趣味や思考に基づいて、私の頭のなかのCPUが一瞬で解析したんじゃない?その一瞬の解析が直感なんじゃないかな?」
「経験則に基づいてってことですか。あぁ、なるほど。僕は人間交際の経験が少ないから一瞬の解析が出来ないんですね。だから直感と思い込みの違いも分からないんですね…」
「大垣くんは、私のことも分からない?」
「私のことって、例えばどんなことですか?久美子さんの趣味とか?」
「それもだけど、私の言動から…何か思うところない?」
「そうですね…」
僕は久美子さんの考えていることなんて全く分からない。特にここ一週間の彼女の言動はチグハグで、彼女が待ち合わせに来るとも思えなかった。もっと言えば、僕のような男と人目も
僕はいっそのこと打ち明けようかと思ったが、どこから切り出せばいいか分からない。打ち明けるにしても、このモヤモヤを、不満や批判と受け止められないように上手に表現したい。そのためにはどういう切り口で披露すればよいか。頭を捻ったが瞬時には見つからなかった。僕は白状するのを諦らめて無理やり話題を変えた。
「長谷寺は有名なんですよ、本堂は国宝ですよ」
「全然、知らなかった。国宝が身近にあるって言われても、ピンとこないなぁ」
「近畿は神社仏閣が多いですからね。御実家は亀山ですよね?亀山にも有名な建造物はありますか?」
「うーん、あったかなぁ?今のところ、全国的に知られてるのはシャープの工場かなぁ。でも、私が使ってる空気清浄機はダイキンだけど」
「あっ!そうでしたね。ダイキンの方が好きなんですか?」
「えっ、なんで?」
「だって、地元の企業さんでしょ?気になりませんか?」
「うーん、そうなんだよね。だからウチのお父さんは張り切ってシャープの製品を買うんだけど、私はそういうのが苦手なの。郷土愛はあるけど、天邪鬼なんだよねぇ。自分が使いたいものを買いたいというか…。だからさ、地元を離れたからには堂々とシャープ以外のものを使いたい」
その言葉通り、久美子さんは天邪鬼だった。寺に到着すると、彼女は通い慣れた参拝客のようにさっさと入館を済まそうとする。その傍らでは、さっきのバックパッカーが寺の景観を余すことなくカメラに収めようとしている。
入山料を払い、受付を出たところで何やら人だかりができている。近寄って野次馬の肩越しから伺うと、割腹のよい野良猫がふんぞりかえっている。その猫は妙に人間臭い。オッサンが魔法をかけられて猫にされたのではないかと思うような、ユニークな容姿をしている。そのオッサン猫は物怖じせず、参拝人に愛嬌を振りまく。久美子さんも魅せられたようで、スマホで写真を撮っている。僕は猫の写真を撮るふりをして、彼女の横顔を撮った。
寺の美観そっちのけで猫の写真を撮ってばかりの久美子さんも、本道へと続く登廊には圧倒されたようで感動していた。
運動不足の僕は久美子さんに遅れをとって歩いた。彼女は途中、何度も振り返り、息ぎれする僕をからかって笑う。そして僕のいるところまで引き返すと。僕の右手を掴み、引っ張り上げるようにして歩き出す。女の子と手を繋いだのは小学校の運動会以来だ。手袋をしていたので直接触れているわけではないが、緊張から手が汗ばんでくる。
平時は立ち入りが厳禁されている本堂も、この日は特別拝観期間中とあって、一般公開されていた。本堂には日本最大級の木造仏がある。国宝とはいえ、意外にも触れることは禁じられていない。
以前から拝みたかったので、僕は「本堂へ行きます」と言った。彼女は少し考えて、「大垣くんが行くなら自分も…」と応じる。久美子さんの声色からして、無理して僕に付き合おうとしているのが分かる。僕は二人分の拝観料を払うと言ったが、久美子さんは自分で払うと言って聞かない。おごってもらうと、素直な感想が言えなくなる。それじゃつまらないから自分で払う、それが彼女の言い分だった。そうして、それを断固行使すべく、彼女は僕を置いてスタスタと本堂の方へ行ってしまう。
拝観料を払い、本堂への階段を数段上がると、そこに御坊さんが立っていた。この方をモギリだと決め付けていたので、僕は入場券を見せた。すると御坊さんは軽く一礼し、僕の手首を掴む。そうして「これは五色線です。貴方と仏を結ぶ紐です」と言いながら、ミサンガのようなその紐を僕の手首に巻きつける。
僕はありがとうございますと言ったが、内心ヒヤヒヤしていた。御坊さんからそんなことを言われると、間に受けてしまう。この紐を失くせば何か悪いことが起きるような気がした。罰当たりだが、小心者の僕には、この紐が煩わしく感じた。
けれど本堂に踏み入るや。そんな自分本位な考えは吹き飛んだ。
狭い部屋の中央に大仏が鎮座していて、部屋が狭いぶん大きく感じる。大仏との密接感もある。僕は不意に小説の西遊記を思い出した。御釈迦様の手のひらで仏と対峙した悟空もこんな気持ちだったのか。
見物人は僕らの他にも居て、初老のカップルが大仏の背後に回って後頭部の写真を撮っていた。そのうち、女性の方がこんなことを言う。
「お父さん、見て。真下から見る仏様の顔は穏やかなのに、違う角度から見ると、人間を怒っているように見えるわ」
お父さんと呼ばれた男性は奥さんの真横に立つと、「ほんとだねぇ」と言いながら、また写真を撮る。僕もこの夫婦に習って色んな角度から眺めてみたが、僕にはどれも同じに見えた。
大仏の周囲をぐるりと回って、久美子さんの隣に戻ると、彼女は手を合わせ熱心に何かを念じている。そういや、ここは一願成就で名の知れた寺だ。僕も目を閉じ合掌した。
目を閉じているのだから、大仏は見えないが、さっきよりも仏を近くに感じる。願掛けする僕を、仏様が修羅の形相で睨みつける絵が頭に浮かんだ。そのせいで、柄にもなく世界平和を願った。
長谷寺へは何度か来たことがあるものの、ダムへ行くのは初めてだ。道に迷うことはなかったが、ダムへの道のりは想像以上に険しかった。勾配が延々と続く。けれど冷静に考えれば当たり前のことで。ダムというのは山と山の谷間に作られるのだから、上からダムを覗こうと思えば山を登るしかないのだ。
そうだ。久美子さんはそれが分かっていたから登山に適した服装で、ここに居るのだ。僕は彼女の様子を盗み見た。息こそ上がっているが、彼女は冬山の景観を楽しみながら力強く登っていく。
それにひきかえ、僕の足取りは重い。長谷寺の回廊のときと同じだ。それどころか朝露に濡れた雑草のせいで、前のめりに滑った。先に手を着いたからズボンは汚れなかったが、生成りの手袋が一瞬にして古びた軍手のようになる。溜息をつきながら、手袋についた泥と雑草をはらう。そんな僕を見て、久美子さんが「大丈夫?休憩しようか?」という始末。
「なんともないです」
僕は何事もなかったかのように、毅然と言った。意図して久美子さんの気遣いを蹴散らすような、素っ気ない物言いをした。男のプライドを保つため、というよりも。日頃の運動不足のせいだ。少しでも休憩しようものなら「ここで昼食にしましょう」と言ってしまうだろうから。朝食をコーヒー一杯で済ましたせいで、ダムなんて、もうどうでもよくて、早くサンドイッチを食べたかった。けれどきっと、久美子さんはダムを見ながら食べたいだろうから、僕は相当な痩せ我慢をして、ダムへと続く勾配を踏破した。
それなのに…。
呼吸を乱し、ヨロヨロになりながら見下ろしたのは、ダムというより池だった。久美子さんも拍子抜けしたようで何も言わない。ちらっと横顔を見ると、虚ろな目で遠くを見ながら呼吸を整えている。そこに感動の喜色はない。僕は久美子さんの口から『がっかりな感想』を聞きたくなかったから先に言うことにした。
「奈良県が作ったものですからね。こんなもんでしょう」
「他の県なら、もっと大きいのかなぁ」
「うーん、奈良が悪いってわけじゃないんです。たぶん国交省が作ったものならもっと立派なんですよ。僕らがイメージしてる『ダム』そのものだと思います。国交省の管轄となれば税金の使い方が桁違いですから」
「そうなんだ」
と言うと、久美子さんはリュックからビニールシートを取り出して「もうここでいい?」と言いながらシートを地面に広げる。僕はシートの片側を持って、広げるのを手伝った。その最中、彼女がこんなことを言う。
「大垣くん、『ここ』何ていうか知ってる?」
久美子さんは地面を指差す。
「『ここ』って、僕たちが今居るこの場所のことですか?」
「そう、何ていうと思う?」
僕らはダムの淵にいる。この淵は二車線ほどの道幅で、そこから水面を覗き込めるようになっている。久美子さんはこの淵の名称を聞いているのだろうが、僕には見当がつかない。
「『てんば』って言うんだよ。『天の端』って書いて」
「なんにでも名前があるんですね。というより、なんでそんなこと知ってるんですか?」
「昔、家族で黒部ダムの見学ツアーに行ったから。そのときに覚えたの」
「そうだったんですか。黒部と比べたら、ここのは見応えが無いでしょう?がっかりしたんじゃないんですか?」
「うーん、イメージとは違ってたけど。後悔はしてないよ。ここに来て良かったと思ってるよ」
久美子さんはそう言いながら、手際よく昼食の準備に取りかかる。それを見ていると、ふいに幼稚園の頃を思い出した。あのときも、こうしてビニールシートの上で女の子と向かい合っていたっけ。同級生の女の子が泥で作ったハンバーグを皿に盛り付けて、「ごはんですよ」と言って差し出すのだ。
あれから十五年経つ。もはや『ごっこ遊び』ではない。目の前に差し出されのは湯気のたつカフェオレと色とりどりのサンドイッチ。感慨から言葉に詰まる。僕は「美味しそうですね」の一言も発せず、久美子さんに「食べて」と言われるまで、それらを見下ろしていた。
サンドイッチは三種類あって、どれも美味く。タマゴはふわふわ、カツはジューシーで、口直しに食べたジャムの酸味が心地よかった。朝食を抜いたのもあって、無我夢中で食べた。食べている最中から疲労が回復していくのが分かる。
一通り食べ終え、久美子さんが用意してくれたカフェオレを飲む。そこで気づいた。辺りを見渡すと僕ら以外に誰もいない。それどころか、天端に座り込んでしまうとダムさえ見えない。こうしていると、無人の道路にビニールシートを敷いてピクニックをしているような、変な心持ちになる。人類が絶滅したあと、僕たち二人だけが生き残ってしまう…そんな妄想をした。けれどそれを口にしたら、ドン引きされるだろうから頭の中だけにとどめた。僕の妄想が終わったところで、久美子さんが、フフフと笑う。
「大垣くん、楽しそうだね」
僕は焦った。恐らく、妄想中に顔がにやけていたのだろう。変な妄想の後ろめたさと恥ずかしさがあって、僕はそれを隠そうと質疑に切り替えた。
「久美子さんは楽しいですか?」
「楽しいよ。男の人と二人で出かけて楽しかったのって、初めて」
その答えからして、以前にも男性と二人で出掛けたことがあるわけだ。彼女の年齢や容姿からすれば当然のことだろうが、僕にとっては受け入れがたい。そのくせ、至極気になる。そんな葛藤が顔に出ていたのか、久美子さんの方からその男について話してくれた。
「その人、ヨネダっていう人で。カフェの店長をしてるんだけど…」
久美子さんは出会った経緯から話してくれた。そして始終ヨネダヨネダと呼び捨てにする。その言い方からして、心底、その男を軽蔑しているのが分かる。
久美子さんの話に拠ると。初回のデートにも拘らず、ヨネダはフレンドリーを裝ってはボディータッチを繰り返し。あげく映画館ではスカートの内側に手を突っ込み、内ももを触ったという。
交際を前提にしたデートとはいえ、度を超えている。嫉妬も幾分あるだろうが、僕はヨネダを心底軽蔑した。
「…すごく怖かった」
「そうですよね」
僕は簡易な返答で済ませたが。軽蔑を通り越し、私怨に至るほど、ヨネダへの悪感情に満ちていた。久美子さんは僕のものではないが、触られたのが悔しかった。自分の大事なものを汚された気分だ。引越し初日にノートパソコンの入った段ボールを征二君に蹴っ飛ばされた、あのときよりも不愉快だ。感極まった僕は、語気を荒げ言った。
「この話は本当に不愉快ですねっ!」
「そうでしょう。だから、手に持ってたジュースを、ヨネダの股間にぶちまけて逃げたの」
僕は驚きからフリーズした。
けれど瞬く間に、『粗相をしたようなヨネダの股間』が頭に浮かんだので、大いに笑った。
「それでこそ、久美子さんですよ!」
僕がそう言うと、彼女も笑ってくれた。
サンドイッチの美味しさとヨネダの話も手伝って、早朝から続いていた緊張も随分和らいだ。心に余裕ができたことで、久美子さんへの探究心も高まる。これまでは伝えたい感情の殆どを飲み込んできたけれど、今なら言える。二人の間に漂う笑いの余韻にかこつけて、ずっと気がかりだった『あのこと』を尋ねた。
「ところで先週は忙しかったんですか」
「なんで、そんなこと聞くの?」
「約束したことを忘れているように見えましたよ、連絡先を交換したのに音沙汰が無かったし」
「あぁ、それは…わざとそうしたの」
「わざ…と?」
「うん、私、雨女だから。楽しみにしてるときこそ確実に降るから。楽しみじゃないフリをしてたの」
ついさっきまで軽蔑していたヨネダが、今は羨ましい。ヨネダなら何のためらいもなく、この場で彼女を抱きしめただろう。僕はそれができないから、こう言うしかなかった。
「今、何か困ってることはありますか?僕にできることがあれば協力します、いつでも言って下さい。サンドイッチのお礼です」
「でも、この前、オバケが出たときに助けてもらったし。これは、あのときの御礼みたいなものだから」
天端の上を風が吹きぬける。久美子さんの緩くウェーブのかかった横髪が舞い上がる。彼女は髪を押さえながら言う。
「ちょっと寒くなったね」
彼女は巻いていたストールを外し、それを僕の首に巻き付ける。ストールから甘い香りがする。彼女が風邪をひくことを案じ、僕はストールを遠慮したが、それを阻むように久美子さんが「わがまま言ってもいい?」と僕の目を覗き込む。その声色は『わがまま』という言葉とは対照的に控えめで、それでいて、こちらの気分をしっかりと窺っている。そのアンバランスな物言いが僕の心を鷲づかみにする。僕は
「お肉が食べたい」
この肩透かしな返答にはガックリきた。雨女であることを憂い、ワザと楽しみじゃないフリをする幼気な行動。風に舞う長い髪。風に煽られ思わず目を瞑る無防備な顔。それら一つ一つに魅せられ、恋々としていたところで、この答えだ。けれど話を聞くと、納得できた。久美子さんは僕よりも寮生活が長い。実家に居た頃は年に数回は高級牛肉に有り付けたが、親でもない英子さんに、やれ『すき焼』だ『焼肉』だと
「僕も焼肉は暫く食べてないです。かといって、食べ放題じゃ…食べた気がしないですよね」
「そうそう、『今日はお肉を食べた』って、心に刻むような良い肉が食べたい」
僕はわかります、わかりますと言って頷いた。
「でも、予算は限られるしね」
「だったら七輪を使いますか?」
「それ使ったら、どうなるの?」
「安い肉でも、かなり柔らかくなりますよ。七輪は千円以下で売ってますし。ただ、どこで焼くかですよね。室内は無理ですし、ベランダは火気厳禁ですよね。かといって、こんな真冬に河原でバーベキューしてたら変な目でみられますし」
「私、良い場所知ってるよ。ただし、真夜中になるけど」
「真夜中って、どこでするつもりですか?」
「それはお楽しみ」
その後もバーベキューの話は続いた。どちらが肉を買うか野菜を買うかなどを話し合っていると、時間はあっという間に過ぎた。久美子さんが用意していたカフェオレも底をつき、今朝方、雲量ゼロだった空も、今は太陽の周囲に薄い雲がまとわりついている。僕らは引き上げることにした。撤収作業の最中、彼女が言う。
「くだりは膝を痛めやすいから気をつけてね。しんどかったら、遠慮せずに言って」
僕は苦笑しながら「ありがとうございます」と返した。そして密かにダイエットと筋トレを決意した。
行きも帰りも僕の前を歩き、颯爽としていた久美子さんも、帰りの電車では熟睡していた。それも、僕の肩に凭れながら。さっきからずっと、互いの二の腕がくっついている。微かに彼女の寝息も聞こえる。久美子さんのストールから湧き立つ、甘い香りに酔いしれながら。車窓に映る自分たちの姿をじっと眺めた。それは、誰かが作った映画のワンシーンのようで、自分が主演俳優であるような変な錯覚さえ起こった。
たった半日で。こんな自意識過剰な所感を持つようになったのも、僕の中で『ある仮説』が立ったせいだ。久美子さんは僕のことが好きなのだ。本人に確認をとったわけではないが、それでも浮足たってしまう。明るい未来を想像してしまう。あぁこれが、彼女の言っていた、『なんとなく分かる』ということなのかもしれない。
明るい未来を想像し、調子に乗っていたせいで。暇つぶしに車内に居る女性の一人一人を久美子さんと見比べた。彼女は誰にも見劣りしない、連戦連勝だ。途中、女子高校生がたくさん乗り込んで来た。各自が楽器を担いでいる、吹奏楽部のようだ。飾り気の無い無垢な顔とセーラー服。そんな集団はさすがに目の保養になるが。生徒一人ずつと勝負すれば、やっぱり久美子さんの圧勝だ。
そうして三十五勝したところで、久美子さんが目を覚ました。
「おめでとうございます。三十五連勝です。今の御気持は?」
久美子さんは何のことか分からないようで、寝ぼけ眼で困惑している。それでもこちらに合わせてくれた。
「ありがとうございます、次回も頑張ります」と。
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