第9話 これから

 僕が最後に久美子さんに会ったのは五日前。その日は家庭教師のバイトがあって、遅い夕飯になった。帰宅すると。誰も居ないはずの食堂に久美子さんが居て、銀杏の皮をせっせと剥いていた。その銀杏は、『イチョウの悪臭のお詫びに』と御近所さんが持ってきたらしい。

「捨てるのは、もったいないでしょ?」

 そう言いながら、久美子さんは剥いては食べを繰り返す。剥きにくい銀杏の皮も渋い実も、苦にならないようだ。僕は夕飯を済ませると、「手伝います」と言って銀杏に手を伸ばした。

 もう一度、二人きりでゆっくり話がしたい。そう思っていた矢先、こんなチャンスが巡ってきたわけだから、これを逃す手はない。その晩は銀杏をアテに遅くまで話し込んだ。その結果、久美子さんは食中毒で病院に運ばれた。

 銀杏にはメトキシピリドキシンという有毒物質が含まれているそうで、食べ過ぎると、嘔吐・痙攣・呼吸困難といった症状が出る。幼児が食べた場合、死に至ることさえある。成人で中毒を起こす例はあまりないのだが、彼女はその少数派に選ばれてしまった。

 幸い、大事には至らず、一泊しただけで退院できた。だが、問題はここからで。彼女は退院してから一度も、皆と夕飯を食べていない。退院早々、征二君が野次を浴びせたからだ。「銀杏をいっぺんに五十個も食ってアホだ」と。

 僕は英子さんと共に、謝罪を勧めた。「病み上がりの人に向ける言葉じゃないよ」と、理性的なことを言ったが、僕の本音は別のところにあった。さっさと二人が和解して、久美子さんには以前のように、食堂に出入りして欲しかったのだ。

 征二君は、僕と英子さんに言われるがまま謝罪文を書き、久美子さんの部屋の郵便受けに投函した。それでも久美子さんは籠城を続け、征二君は「執念深い女だ」と怒っていた。

 僕は見舞いがてら、彼女の部屋を尋ねようかとも思ったが、幼少時の経験が足を阻んだ。

 僕には病気がちな従妹がいた。母と共に、従妹の好きなぬいぐるみを持って見舞いに行ったことがある。従妹は僕とロクに目も合わさず、始終不貞腐れていた。帰り道、僕が不平を漏らすと、母は微笑みながら僕の頭を撫で、「女の子は、病気のときに男の子に会いたくないもんよ」と言った。

 ましてや。久美子さんは成人女性なのだから、そう思うかもしれない。だから今日まで何の行動も起こさないでいた。

 けれど。この日は自分でも不可解なほど彼女に会いたかった。家庭教師のバイトを終えた帰り道、彼女のことだけを考えた。食堂の引き戸を開けると、そこに彼女が居るような気がした。確証がないにも拘わらず、駅のホームで電車が来るのを今か今かと待った。  


 こないだ同様、九時前に寮に戻ったが、敷地に踏み込むと同時に期待は砕かれた。食堂の電気は点いておらず、ダイニングテーブルにも一人分の食事しか出ていなかった。今日の献立は『鰯のトマト煮』だ。鰯嫌いの僕でも美味しく食べられるようにと、英子さんが考案したものだ。鰯の臭みが消え、醤油風味のトマトソースが旨い。それなのに。今夜は味覚と嗅覚が沈んで、『ご馳走さま』の感動もない。

 まずい気分で夕飯を終え、ゲンナリしながら食器を洗っていると、ふと思い出した。久美子さんが食中毒になったあの晩、僕はコンビニでアイスを買って、ここの冷凍庫に閉まったのだ。久美子さんと遅くまで話し込み、彼女に気を取られ、すっかり忘れていた。

 後片付けを済ませ、冷凍庫からアイスを取り出し、自室に引き上げる。仄暗い靴脱ぎのタイルの上に、白い何かが浮きだっている。目を凝らすと紙切れだった。その途端、母の顔が浮かぶ。この紙切れには、英子さんの字で『お母さんに電話してね』と書かれている、そうに違いない。

 僕は家を出る際、携帯の名義を変更するよう母から言われていた。必要な書類を持たされ越して来たが、面倒なので放っておいた。そのため名義は父のままで、利用料金も父の口座から落ちていた。それに気付いた母から何度も電話があったが、着信履歴を見ただけで母の用件が読めたので、電話に出ずに放っておいた。近いうちに手続きを済ませてから電話をすればいい、そう判断した。その後、急な外出が重なり、名義変更も母への電話も後回しになった。延ばしに延ばし、記憶から携帯の件が消滅しかけたところで、今日の様に英子さんからメモが廻ってきたのだ。そこには、


 お母さんから電話がありました。

『急用なので電話するように』との事 


 その後、携帯の名義変更を済ませ、母には電話で詫びた。

 そんなわけで。僕はこの紙切れと母を容易に結びつけることができた。だが連絡の内容に到っては不明瞭だ。祖母の容態が悪化したのであれば、いくら携帯のメール機能に不慣れな母でも、一文よこすに決まっている。要は他愛無い用件なのだ。僕はそう決め付けた。

 この頃の僕は、母と話すのが億劫になっていた。母は取り留めのないことを、さも用件にでっちあげ、ここぞとばかりに携帯を鳴らす。面倒だから、さっさと話を切り上げようとすると、「どう、うまくいってる?」と、こちらの様子を透かさず訊ねる。僕はこの質問が嫌で堪らなかった。征二君や久美子さんと悶着を起こした頃は特にそうだった。母に心配をかけまいと、「大丈夫、大丈夫」と繰り返したが、何かにつけて携帯を鳴らし、こちらの様子を窺おうとすることに、いい加減腹が立った。

「今度は何の用だ」

 苛々しながら部屋に上がって電気を点けた。メモを見下ろすと、電灯に照らされ浮かび上がった内容に驚いた。緊張と動揺で胸が苦しい。そのうち頭の中で、こないだ観た野球中継の『野球は九回裏二アウトから』という実況が鳴り響いた。


 緊張がピークに達したときのことを考え、逃走の機会を残しておこうと、久美子さんに気付かれないよう足音を消し、階段をそろりそろりと踏みしめる。


安静にするあいだ、

ワンワールドの続きが読みたいです。

征二には内緒で貸してくれませんか?

部屋に届けてくれると助かります。


 ついさっき、玄関先で拾ったメモにはこう書いてあった。なんてことはない、漫画を渡しにいくだけだ。腕時計を見ると、九時四十五分。彼女は病み上がりなのだから、あまり遅くなってもいけない。差し迫る時間に背を押され、漸く決心がつく。

 久美子さんの部屋を訪ねるのは二度目だが、心臓が激しく脈打つ。部屋の呼び鈴を押すと、ドアの向こうから足音がする。緊張がピークに達し、便意もする。

 カタンと内鍵を廻す音がして、ドアの隙間から久美子さんが顔を出す。僕の心は瞬時に落ち着いた。彼女に会えたことの喜びが緊張をも飲み込んで、便意さえも引っ込める。

 メモの文体と久美子さんの態度に温度差はなかった。久美子さんは「ごめんね」と愛想良く謝る。それに引き換え僕は、照れ隠しから返事もせず、ただアイスの入ったレジ袋と『ワンワールド十冊』をつっけんどんに渡した。

 袋を覗き込み、中身がアイスだと分かると、彼女は「あぁ!ありがとう」と笑みを漏らす。そして漫画本を受け取ると、「どうぞ」と言いながら自分の背中で扉を押し開け、僕を招き入れようとする。久美子さんは漫画本を下駄箱の上に置き、動揺する僕をよそに、「入って」と言いながらスリッパを差し向ける。

 僕は気恥ずかしさから「それはちょっと…」と遠慮した。けれど久美子さんに「入って」と二度まで言われると、元より断る理由を持ち合わせていないので、言われるがままスリッパを履き、彼女のあとに続いた。

 こないだ訪れた際に気にも止めなかったのが不思議で、今日は彼女の私物がやけに目につく。自分の部屋と同じ間取りであるはずのそこは、全く違う様相をしている。あるべきはずの学習机が無いし、お洒落なカフェにあるようなレトロなソファーがある。同じ寮に住み、同額の家賃を払っていても、生活用品が違うだけで久美子さんの部屋には高級感が漂っている。そして何より違ったのは、ワンピースがハンガーに吊るしてあることだ。ワンピースの胸元は大胆にくり貫かれ、それを隠すように大ぶりのネックレスが胸元を覆っている。

 僕は台所に佇む久美子さんとワンピースを交互に見て、似合うだろうなと感心した。だが、たちまち悪い想像にかられる。一体、このお洒落着は何のために購入されたのだろう。誰か大切な人と出かけるために用意されたのか。僕はワンピースから視線を外し、飾り棚に置かれた写真立てに注目した。

 そこに映っているのは紛れもなく久美子さんだが、彼女の魅力の一つである長い髪はバッサリと切られ、別人のように雰囲気が違う。それでいて、どちらの久美子さんも愛らしい。僕は久美子という女性に感服した。彼女の美の可能性は無限なのだろう。恐らく、清楚なワンピースも似合えば、異性を挑発するような派手な衣服も着こなせるはずだ。僕は心密かに絶賛しながら、その短髪の美少女を食い入るように眺めた。

「かわいいでしょ?」

 振り返ると、久美子さんが盆を持って立っている。可愛いに決まっているが、そう答えたが最後、彼女の虜になりそうで恐かった。答えられず、モジモジしていると、久美子さんは残念そうに「そうだった。大垣君は猫派だもんね」と言いながら、テーブルに盆を置いた。

 僕は再度、写真立てを覗き込んだ。そこに居たのは短髪の美少女だけでなかった。少女の膝の上には赤いリボンを付けたトイプ―ドルが居る。その事実に驚嘆した。さっき見たときは犬の姿など、全く認められなかったのに。

「どうぞ」

 久美子さんは僕をソファーに座らせ、自分はラグに腰を降ろした。盆には器に盛られたアイスと湯気の立った茶がある。廉価な大量生産のアイスが器に盛られただけで、女性が化粧をしたように様相を変える。見た目だけでなく、口に入れてもその違いは歴然だった。久美子さんの気配りが、いつになく甘美に思わせる。足し加え、その気配りが自省を促す。下心から彼女の私物を盗み見たことが悔やまれる。

「真冬に暖かい部屋でアイスを食べるって、贅沢だね」

 そう言って、久美子さんはしみじみとアイスを味わう。

 同感だ。それどころか、僕の生活とは繋がりが無い洒落た食器。これまでの人生において没交渉であった美しい人。こんな贅沢を僕は知らない。未知の領域にいるせいで、自分を見失いそうだ。スマートに振舞うのは無理だとしても、暴走は避けたい。僕は理性をコントロールするためにも、まずは病状を尋ねた。

「もう落ち着いたよ」と久美子さんは軽快に答える。

「でも、もう少しゆっくりして下さい。ところで、征二君の手紙は読みましたか?」

「見たよ。びっくりした。どうせ、英子さんに無理やり書かされたんでしょ?」

「まぁ、大方そうですね。でも、征二君なりに反省してるんですよ」

「私だって根に持ってるから食堂に行かないわけじゃないよ。食欲が落ちてるから食べるのに時間がかかるの。ちんたら食べてたら、英子さんに気を遣わせるでしょ?だから一人で食べるようにしてるの」

 久美子さんの顔は、以前より一回り小さい。顔色も普段より白い。それを伝えると、久美子さんは右手で頬に触れ、「たぶん、これはファンデーションを塗り過ぎたんだと思う」と弁解する。

 久美子さんが恥ずかしそうに笑うから、僕もこそばゆい。そのせいで沈黙が、ぶり返す。そんな中、あることに気付いた。僕は今まで一度だって、異性の部屋に招かれたことがない。こないだの夜と違い、突発的な事情もない。なにより会話も弾んでいない。ここにいる理由が見当たらない。胸騒ぎがし、クローゼットに目をやる。あの中に征二君や陽菜さんが潜み、僕の声色を窺って、笑いを堪えているのではないか。そんな悪夢のような仮説が浮かぶ。

 一刻も早く退散しようと、残りのアイスを急いで食べた。口内の温度が瞬時に下がった隙に、熱い茶を一気に飲み干す。そして、「ごちそうさまでした」を起点に食器を片付けにかかった。

 久美子さんは僕がこの場を失礼しようとするのを察してか、急に話を振ってくる。

「大垣君は、なんで生きてるの?」

 この質問は、会話の脈絡をすっ飛ばしている。ましてや、この場の緊張をほぐすような気の利いた問いでもない。それにしても珍しい質問だ。『そんな身形でよく生きてこれたね』とでも言いたいのか。僕は答えるよりも先に、質問の意図を探った。

「すみません…それはどういう意味ですか?」

「えっ、だから、その…ほら!この前、大垣君が『生きる意味なんて無い』って言ってたでしょ。それなのに、なんで生きていられるのかなぁって」

「あぁ、そういうことですか」

「不思議なんだよね。意味も理由も無いのに、生きていけるの?」

「僕はそうなりたいです。だって。明確な理由がないと生きていけないって、すごく怖いことですよね」

「そうだよ、凄く怖いよ。私、不安だもん。大学を卒業してから、この先、何年生きていけるだろうって、こんな夢も目標も無い私が。だったら、早く結婚して子供を産んで、共働きでお金を貯めて家を買って…そういう『レール』に乗ってしまいたい。自分が生きていくだけの理由が欲しい」

「でも。結婚生活が上手くいかなかったらどうするんですか?子供が出来なかったら?久美子さんの言う『レール』ってそれが未来永劫、健全に維持されることを前提にしていますよね。そこに生きる理由を見出すのは無理がありませんか?」

「それ言われたら、私に生きていく理由なんかないよ。未来永劫ないよ」

 そう言うと、久美子さんは黙り込んでしまう。その沈黙に引きづられ、僕も黙った。 

 久美子さんは伏し目がちに茶をチビチビ飲んでいる。僕はアイスも茶も空にしていたので、沈黙を凌ぐ行動をなくしていた。だから意味もなく、マグカップに描かれたアルファベッドを目でなぞった。

 温かい茶を飲んで気分が落ち着いたのか、久美子さんが口を開く。

「大垣君は分かってるの?生きていくだけの理由がなくても、生きていけるだけの方法を」

「そうですね…」

 即答できるような明解な回答を、僕は持っていない。でも。その答えを既に見知っているような既視感がある。昔見た映画のタイトルを思い出すように、記憶をたどっていくと。やはり僕の中に答えはあった。その喜びから、答えを言語化する前に、僕は久美子さんの両手を握ってしまった。

「すみませんっ!」

 慌てて手を離し、オタオタする僕とは対照的に。久美子さんは手を握られたことなど気にも止めていないようで、「分かったの?」と答えを求めてくる。 

 僕は気を落ち着かせようと一息ついてから、姿勢を正し座り直した。そして見解を示した。

「父に言われたんです。『お前は感受性を生かしきれてない』って。『寮生活すればそれが養われるだろう』って。当初は父の言ってることが分からなくて。それに、この寮で生活するのも嫌だったんです。実際来てみたら、想像以上に辛くて。キツイ精神修行だと思いました。でも段々とそんなことも思わなくなりました。英子さんの御飯は美味しいし、ムギも佐伯さんの娘さんも可愛いし。征二君には僕に無い長所があって。久美子さんとも、こうやって話せるようになったし。少しずつ、この寮の良いところを見い出せるようになりました。ここは精神修行をする場ではない、『楽しむところ』だって思えるようになりました。だから生きていく上で必要なのは、理由じゃないです。物事を楽しむための感受性です」

「幸せになりたければ、悟りを開けってこと?」

「でも、お金や学歴じゃなく、そういうセンスが第一義とされる時代が来れば、みんなが幸せになれませんか?」

「逆だと思う。幸せになれる人と、そうじゃない人の差がひらくよ。お金や学歴がモノを言う時代の方が簡単だよ。大垣君の言うような、感受性?そんなものが問われる時代の方が残酷だよ。私達、芸術家でも坊さんでもないのに。現に、私の方が長くここで生活してるけど、感受性が豊かになった実感がないもん。でも、大垣君の言う意味も分かるよ。状況や結果に左右される幸せは、本当の幸せじゃない。だけど、状況や結果に左右されず、物事を楽しむって、どうしたらいいの?そのためには感受性が必要だとしても、それはどうやったら養われるの?」

「それは僕にも分からないです。これからだと思います」

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