第8話 特別の日

 祖父母と別れ、病院を出る頃には、日はすっかり暮れていた。日中の小春日和に合わせ、軽装で家を出たために夕方の寒さは身に堪える。自転車を漕ぐと尚更で、吹き付ける風に体温がどんどん奪われる。

 先に風呂に入ろうと思っていたのに、食堂の引き戸の前に白い大きな猫がいて、つい立ち止まってしまう。首輪をしていないが人馴れしいる、近づいても逃げない。噛み付かれることを案じながらも、背中を撫でてみる。毛並みはムギに劣るが、引き戸を見上げるその眼は透き通った水色をしている。

 猫の瞳に魅せられていると、引き戸の向こうから征二君と久美子さんの大きな声が聞こえた。今日の夕飯も佳境に入ったようだ。やっぱり風呂はあとだ。先に夕飯を済ませよう。

 立ち上がって、引き戸を少しだけ引いた。無論。これは猫が侵入しないようにとの配慮だが、猫はいとも簡単にすり抜ける。捕まえようと中腰になって、猫の尻尾に手を伸ばすと。猫は皆から「ミー君、久し振り」と歓迎を受ける。そうして皆は、猫の次に僕に気付いて、「おかえり」と口々に言う。

「…大家さんの猫だったんですね」

 僕の独り言は、食卓の端っこに陣取る陽菜さんには届いていた。陽菜さんは咀嚼中の口元を隠しながら、僕の独り言に答えてくれる。

「この子は御隣さんちのミー君。ムギと同い年らしいよ」

「そうなんですか」と相槌を打ちながら、僕は陽菜さんの箸先に横たわる『鰤の照り焼き』に気付いた。汁物をよそっている英子さんの背中に向かって、「ありがとうございます」と礼を述べるが、振り返った英子さんは怪訝な顔をする。英子さんの表情からして、照れ隠しでなく真に忘れているようだ。僕は『鰤の照り焼き』を指で示した。すると英子さんは両手を打ち鳴らし、「あっ、そうだった。すっかり忘れてた」と言いながら恥かしそうに笑う。

 僕らのやり取りを見ていた征二君は、英子さんよりも先に感付いたようで。笑って誤魔化す英子さんの方に向き直り、不平を言う。

「なんで大垣のリクエストには応えんの?不公平だ、しかも、これは美味しくないぞ」

「美味しくないんじゃない、アンタの味覚がおかしいの。カツオしか分からんくせに、何言ってんの」

 久美子さんはお冠だ。それに追従するかのように、英子さんも声を荒げる。

「えこひいきじゃない。大垣君は今日だけ特別なの」

 そう言いながら英子さんは僕の席に、温めなおしたトマトスープと鰤の照り焼きを並べてくれる。

 手を洗って座席に戻るや、さっそく征二君が探りを入れてくる。

「なんで特別なんだ?」

 そう言った征二君の前歯には薬味の青葱あおねぎが付着している。僕はそれが気になりつつも事の成り行きを説明した。

「ばぁちゃんが入院したんです。あんまり良い状態じゃなくて…浮かない顔してたから、英子さんが僕の好物を作ってくれたんです」

「ばあちゃん、死ぬの?」

 征二君の明け透けな物言いに、久美子さんの敵愾心てきがいしんがピークに達する。彼女は僕の心情をはばかって征二君にキレたのだろうが、そもそも僕は征二君の言動に腹など立てていない。僕の顔を覗き込む征二君の目は、他人の不幸をからかうものではなかったからだ。

「いや、死にはしないです。事故っていっても、自転車で転んだだけなんです。でも骨折してしまったから入院したんです」

「骨折でも入院するの?」

 と言う陽菜さんの質問に、看護師の佐伯婦人が専門家らしく述べる。

「骨折でも複雑な場合だったら手術になるから、入院もするよ」

「じゃあ、手術が上手くいかなかったのか?」

 そう言って征二君は再度、僕の顔を覗き込む。口を動かす度に、さっきの青葱がちらつく。葱に注意を奪われながらも、僕は事態を説明した。

「手術は上手くいったんですけど、入院中に呆けてしまったんです。もう少し様子を診ないと分からないんですけど、僕はじきに良くなると思ってるんです。でも、じいちゃんが絶望してて…」

「入院することで一時的に呆けてしまう患者さんは結構いるよ。だから少しでも日常生活に近いような環境を作ってあげるといいよ」

 佐伯婦人の助言は僕の勘を固めた。やはり革命は一時的なものに違いない。


 婦人のおかげで、昨夜から続いていた不安も和らいだ。それもあって自室に戻るなり、漫画を読み耽った。右脳と左脳、両目の筋肉をフルに使って数時間。疲れ果て、読みかけの『ワンワールド』十七巻を机上に置いた。

 僕は小学校以来、漫画を読んでいない。人種や年代を超え、人気を博すその漫画も、僕にとっては遠い昔に置いてきた代物だ。だから征二君がストーリーの一部を語っても、少しも想起しなかった。その旨を伝えると、ワンワールド談議を諦めるどころか、征二君は御丁寧に全巻貸してくれたのだ。

 目覚まし時計を見ると、日付が変わって午前二時をまわっている。こんなに疲れ果てても、まだ全体の半分も読み終えていない。せっかちな征二君が、明日にも『ワンワールド』談義を食堂に持ち込みそうだというのに。

 一旦、仮想世界を離れ、風呂に入ろうと立ち上がったところで、部屋の呼び鈴が鳴った。嫌な予感が働いて、両手に漫画を何冊も抱えた征二君の姿がよぎる。僕は玄関までの僅かな歩数の間に、愛想笑いの準備に入った。

 ところが。

 ドアを開けると、久美子さんがいた。顔は青ざめ、唇には横髪がべったり張り付いている。しかも、それを取り払おうともせず、寒そうに身を小さくする。その上、彼女はパジャマを着ただけで何も羽織っていない。そのせいで、厚みのある冬物のパジャマの上からでも、乳房の膨らみを認めることができた。

 どきりとしたが、この非日常的な光景を前に、僕の大脳は凄まじく回転した。深夜に薄着で胸をちらつかせながら男の部屋を訪ねる。そんな無防備なことを、この気位の高い彼女がするわけがない。そう思うと、反射的に火事が浮かんだ。僕は靴下のまま靴脱ぎに飛び下り、外に出ようとした。

 勢い余った僕を、久美子さんは闘牛士のようにヒラりとかわし、第一声を発する。

「携帯を借りてもいいかな?」

 意想外の返答に聞き間違いかと思ったが。久美子さんが神妙な顔つきで僕の反応を待っているので、これは火事ではなく、本当に携帯を借りに来たのだと理解した。

「壊れたんですか?」

「いや、そうじゃないの。あっ…番号覚えてない。もう、いいや。ありがとう」

「何かあったんですか」

 彼女の事情に関心を示すや。久美子さんは見る間に顔を歪ませ、わらにもすがるように、僕のスウェットのそでを掴みながら、「大垣君…どうしよう。オバケが出た」と訴える。

 あまりのことに、返答に窮する。けれど久美子さんはそんなことお構いなしで、「どうしよう」と「助けて」を繰り返し、僕の返答を促す。

 兎に角、事情を聞くのが第一なので、「寒いですから、入ったらどうですか」と、部屋に入るよう勧めた。平素なら男の下心に敵愾心をむき出しにする久美子さんも、このときばかりは二つ返事で僕のあとに続いた。部屋に戻るや。僕はパソコンチェアの背もたれに掛けてあったパーカーを彼女に渡した。

「今日は冷えますから、必ずファスナーを締めて下さい」

「ありがと」

 久美子さんは僕の含みに気づいていない。恐らくノーブラであることにも気付いていない。彼女はパーカーを受け取ると、僕の言う通りファスナーを上げ、魔性の胸元を封印した。

「適当に座って下さい。オバケが出たってどういうことですか?」

「今日、山に行ったの」

「山上遊園地でしょ」

 この話は数時間前に食堂で聞いた。山上遊園地は経営悪化のため、まもなく閉園になるそうで、久美子さんは最後の記念に訪れたそうだ。

「そう、遊園地にも行ったけど、その近くの心霊スポットにも行った。それで、写真撮った…」

 久美子さんは自分の行動が後ろ暗いせいか、後半になるに連れ声量が小さくなる。

「何でそんなことしたんですか」

「だって霊感ないし、こんな事になると思わなかったから」

「写真に何か写ってたんですか?」

「何も写ってないよ。でも夜になったら、さすがに怖くなって…」

 久美子さんは寝るのを諦めDVDを見ることにした。DVDが再生されるやいなや、部屋の灯りが消え。頭が裂けそうな耳鳴りに襲われて、部屋を飛び出した。

「友達に電話しようにも携帯がないし。英子さんも寝てるだろうし。そしたら、大垣君の部屋の明かりが点いてるのが見えたから、携帯だけでも借りようと思って。でも友達の携帯番号覚えてなかった…」

 僕は信憑性のない話に閉口した。

 久美子さんは僕の心中を察したようで、「嘘じゃないよ」と何度も言い、事実であると訴える。また僕の興味を引こうと、言葉を変え、また説明し出す。二回目は擬音を盛り込み、恐怖の表情に磨きがかかっていた。


 僕は彼女の弁舌に根負けし、仕方なく四階に出向いた。久美子さんは身を小さくしながら、僕のあとに着いて来る。玄関ドアを開けると。廊下も、その先の居間も真っ暗だった。

「電気、消えてますね」

「だから言ったじゃん!」

 オバケが居て困るのは彼女なのに。久美子さんは己の言動の正当性を認めろと言わんばかりに得意げだ。僕は一先ず、「そうですね」と彼女を肯定し、それからブレーカーを探した。ブレーカーは僕の部屋と同じく玄関ドアの頭上にあった。携帯のパネル照明を頼りに確認すると、ブレーカーは落ちていなかった。その旨を伝えると、久美子さんは声を震わせ、「やっぱりオバケだ、どうしよう」と怯える。だが、僕は彼女の話に半信半疑なので、靴を脱ぎズカズカと室内に入っていった。

「待って、置いてかないで!」

 久美子さんは駆け寄り、僕のスウェットのすそを指先で摘む。僕は部屋の中央に立って部屋をぐるりと見渡した。無論、誰も居ない。それが分かると、安心するどころか正気で居られなくなった。

 なにせ暗闇のなか、ノーブラの美女がぴたっと寄り添っているのだから。久美子さんに離れてもらおうと、「もう大丈夫ですから」と言いかけたところで、部屋の電気が突然点いた。久美子さんがあげた悲鳴のせいで、僕も身をすくめる。

 その刹那、『カチカチッ』と音がする。二人して音源に目をやると、筒状の加湿器が水蒸気を吐き出している。それから、その真上にあるエアコンが咳払いでもするかのように、『ゴォホゴォホ』と温かい空気を漏らし始める。

 以上のことからして、久美子さんの証言に信憑性が出てきた。どうやら、この部屋の電気は、ある瞬間を境に滞っていたようだ。久美子さんは恐怖の面持ちで僕のスウェットのすそを引っ張りながら、「やっぱりオバケなんだって」とわめく。だが、すぐさま。その華美な目元に喜色を湛え、半ば得意顔だ。そして、「ね?嘘じゃないでしょ。だって、電気が急に落ちたんだもん。嘘じゃなかったでしょう」と言いながらエアコンと加湿器を指差す。

「そうみたいですね。じゃあ次はカメラを確認しましょうか」

 久美子さんとは対照的に、僕は淡々としていた。早く自室に戻りたい。今はもう午前三時を廻っている。

 久美子さんはクローゼットを開けると、汚物の処理でもするようにバッグを指先で掴み、こちらに持ってくる。僕はバッグを受取るとデジカメを取り出した。デジカメが現われるや、久美子さんは「うわぁー」と喚き、動物の死骸を見つけたかのように険しい形相をする。

「塩と小皿はありますか」

「しお?食塩のこと?あるよ、持って来る」

 僕はパソコンラックの上にデジカメを置いた。それから、卓上塩の外蓋と中蓋の両方をもぎ取り、小皿に塩をこん盛りと移した。

「お祓いするの?やり方は知ってるの?」

「やり方としては、全くのデタラメだと思います」

「デタラメなことしたら祟られるよ!」

「やり方はデタラメでも、誠意は見せた方がいいと思うんです。ここは一先ず、謝罪しましょう」

 僕はデジカメに向かって手を合わせ、「すみません、二度としません。許して下さい」と頭を下げた。久美子さんも僕の隣に並んで手を合わせ、「馬鹿にしたつもりはないんです。もうしません。ごめんなさい。許して下さい」と何度も詫び言を唱える。久美子さんの謝罪が落ち着いたところで、僕は「じゃあ、これで…」と切り上げようとした。

「えぇ、帰るの?怖いよ。だって、ここに写真が入ってるのに」

「じゃあ、写真を消去してから帰りますね。どんな写真ですか」

「ええっと、風景だけのやつ」

「そんなの無いですよ。全部、人が写ってますよ」

「うそぉ…」

 久美子さんは両手で口元を覆い、額に大きな皺を刻むほど、顔を歪ませる。

「嘘です。この四枚でしょ」

「ホントにやめてっ!ええっと、四枚だったかな?」

 僕は久美子さんの胸の前にカメラを突き出し、「自分で確認して下さい」と言い放った。

「無理に決まってるでしょ!もういいから、全部消して」

「全部消すんですか?みんなで、楽しそうに写ってますけど」

「そんなの、どうでもいいから全部消して」

 僕は言われた通り全消去した。これで部屋に戻れる。そう安堵した矢先、久美子さんが何とも煩わしいことを言い出だした。

「大垣君、朝まで一緒に『ワンワールド』を読もう」

 久美子さんは散々恐がっていたくせに、僕の部屋にあった山積みのコミックスには目が行き届いていたのだ。僕は彼女と一晩過ごすことに抵抗があったので、「嫌ですよ!」と大声で突っぱねた。切羽詰った久美子さんは僕の威勢のよい拒絶に、女のプライドが傷付く暇すらなかったようで。僕の主張を軽く聞き流すと、決死の形相で食い下がる。

「お願いだから朝まで付き合って。どうしても今夜は一人になりたくないの」

「だったら、陽菜さんの部屋に居たらいいんですよ」

「陽菜ちゃん、居てないの。飲み会があるって言ってたから、朝まで帰らないと思う」

「じゃあ、ネットカフェにでも行ったらどうですか?」

「こんな夜中に一人で行けって?」

「送りますよ」

 久美子さんは少し考え込む。だが、はっと我に返り、「やっぱりそれもイヤ」と言いながら首を横に振る。

「だって、絡まれるもん」

「それはナンパってことですか?」

 久美子さんは無言で頷く。確かに彼女の容姿からして、それは充分に起こり得ることだ。

「個室に居たらいいんですよ」

「だからぁ、一人で居たくないのぉ。ナンパも嫌いだけど、オバケも嫌いなの」

「でも、僕の部屋に居るのはマズイですよ」

「なんで?もしかして大垣君…何か変なことするの?」

「しませんよっ」

 体面を保とうとしたために、つい大声を出してしまった。図星であるからムキになっているのだと、久美子さんは思ったに違いない。失態を悔やんでいると、彼女はもっと嫌なところを突いてくる。久美子さんは得意げに言う。

「だったら、大垣君の部屋に居るのが一番安全ってことじゃない」

 もう、溜息しか出ない。僕が反論しないのをいいことに、久美子さんは「私を置いて、先に寝るな」との注文まで付け足す。僕は彼女のワガママを回避しようと、「お払いの日取りが決まるまで、カメラを預かりますよ。だから、自分の部屋で寝ても大丈夫ですから」と宥めるが。彼女は先程の変事がよほど堪えたようで断固として聞き入れない。


 こうして。女性を説き伏せる口を持たないせいで、僕は彼女と一夜を過ごすはめになった。妥協の結果、久美子さんを部屋に招き入れたものの、あらぬ誤解・とんだ言いがかりだけは避けたい。それ故に彼女と距離を保ち、僕は壁に背を付いて、読みかけのワンワールド十七巻を捲くった。久美子さんは床に座り、ベッドを背もたれにし、一巻を読み始めている。魔除けのつもりなのか、彼女は机上のコルクボードに刺してあった僕の『学業成就』のお守りを右の手首にはめている。

 僕は彼女の手首から目を逸らし、黙って漫画を読み続けた。あらぬ誤解を避けるためにも、むやみやたらにコミュニケーションを取りたくない。このまま黙って朝まで漫画を読み切ろう、これが今宵の処世術だ。

 ところが。久美子さんは、こちらの思惑に大きく反する。

「人間って身勝手よね」

 彼女は漫画に落とした視線を僕に向け、返答を待ち受る。

 あまりの言い草に、失笑しそうなところをぐっと堪え、「身勝手は、あなたです」と心の内で正した。自己の身勝手を人間全般に敷延ふえんする久美子さん。その図太い神経と筋の通らない自己流の見解は、最も人間らしく滑稽だ。

 僕に失笑されていると、露ほども知らない久美子さんは。左手で横髪をかきあげながら難しい顔をする。そして、自身の手首に括りつけた学業成就のお守りを、まじまじと見つめながら言う。

「人間なんか、普段は神様なんて崇めてもいないのに、困ったときにだけ縋りつくもんね」

 あつかましいと思っていた彼女の口から客観的な自己の考察が垣間見えて、驚いた。久美子さんの意外性に興味を駆られ、つい先ほど打ち立てたばかりの処世術のことなどすっかり忘れ、僕は会話に踏み出してしまった。

「久美子さんは、神を信じてないんですか?」

 彼女は驚いた風に「大垣君は何か宗教に入ってるの?」と聞いてくる。

「そういうわけじゃないですけど、神仏に対する畏怖と尊崇はありますよ」

 久美子さんは漫画を傍らへ置くと、天井を見上げる。そして鼻から大きく息を吐くと、ふと何かを閃いたような顔をした。

「尊崇って、取れたての野菜とか果物を食べたときの感動みたいなもの?」

「ちょっと違いますね…昔は科学技術なんてなかったから、人間は自然に依拠してたわけです。だから神々を恐れ、尊敬し、崇拝したんです。自然や死者に畏れを抱くのは、人間が無力だからこそ芽生える感情ですよね。この時代を生きる僕らは人間が作ったものに依拠しているから、『畏怖』や『尊崇』という言葉も聞き慣れないものになったのかもしれませんね」

「人間は自然に生かされてると思うよ。でも人間が、自分の無力を認めたら、生きることの意味が分からなくなるんじゃない?」

「生きることに意味なんて無いと思います。人間は無力で、生きる意味さえなくて、それでも僕らは生きていく…何か、ありがちなロックバンドの歌詞みたいですけど、人間ってそんなものじゃないですかね」

「大垣君でも、そんな冷めたことを言うんだ」

「でも、ってどういう意味ですか?」

「大垣君って、順風満帆にやってきたでしょ?周りの大人に大事に扱われてたってのが顔に出てるもん。それに頭いいし、理系だし。就活だって楽勝でしょ?」

「そりゃ、一人っ子だし親の愛情を独占したと思います。自分で掲げた目標も、無事に乗り越えてきましたし。そこだけ見れば順風満帆です。だけど欲望って言っても色々あるでしょう?誰かに愛されたいとか、皆に慕われたいとか。そういうのだって欲望です。そういう面じゃ、僕だって順風満帆ではないです」

 そう言った途端、過去が走馬灯のように浮び上がる。桃ちゃんへの実らぬ恋。自分をクビにした生徒達のこと。征二君と久美子さん、彼らとの軋轢あつれき。僕は異性に愛されたこともなければ、同姓からも毛嫌いされる始末だ。 

 そして引越し初日の、段ボールを切り裂いたあの感情。それを未来の方まで延伸させれば、そこにあるのは無差別殺人者の心理だ。自棄やけを起こし、他人を殺し、死刑を待つ彼らの理屈のことだ。僕は人を殺したいとは断じて思わない。けれど僕の心中にも、その理屈が育つ土壌はあったのだ。それ以来、僕は『欲望追求』や『自己実現』という言葉を遠巻きに見るようにしている。

 僕の過去や内情を知らない久美子さんは「大垣君って謙虚だね」と僕を過大評価する。

「謙虚ではないんです。ここに来てから色々なことに気付かされたんです。久美子さんが僕に教えてくれたでしょ。『食器は自分で洗え』って。そういや、昔は。家の手伝いもしてたんですよ。いつのまにか勉強しかしなくなりましたけど。こっちに来てから、小さい頃のことを思い出すんです。ここに来たことで、自分の無力が分かったというか。それだけのことですよ」

 寮の裏手にある道路は中央環状線に通じている。そのため大型トラックがよく通る。今もそうだ。豪快な走行音と振動が体に伝わる。その振動のせいで壁にぶら下げていたカレンダーが床に落ち、バサバサと鳥が羽ばたくような音がした。カレンダーを元に戻そうと画鋲を壁に突き刺すと、背後から、「あのさぁ」と久美子さんが言う。振り返ると、久美子さんは右の方に折り曲げていた両足を崩し、膝頭を僕の方に向けている。

「私、ちょっと考えたんだけど。科学技術が発達したから、人間は死者にも自然にも畏れを抱かなくなったわけでしょ?あげく、生きてる人間がカメラを使って、退屈しのぎに撮影しようとしたら、そりゃ死んだ人は怒るよね。生きている人間の無神経さに腹が立って、死者が心霊写真で訴えようとしたところで、ボタン一つで消去される。だから電気消すことで、反省させようとしたんじゃないかな?」

 久美子さんの謙遜な想像力に、僕は腹の底から笑った。彼女は「ひどいよ、真面目に話してるのに」と怒る。でもそれが可愛かった。征二君と相対するときとは違う。この怒りは羞恥心から来るもので、これは怒っているふりだ。

「そこまで反省してくれたら、霊も怒るの止めると思いますよ。あっ、でも。これ以上、笑ったら、今度は僕が祟られますね」

 そう言いつつも、僕は笑いが止まらず、暫く両方の口角が釣り上がっていた。

「もう、いいってば!」

 久美子さんは『ワンワールド』のページを捲りながら、僕を牽制する。だけどきっと。読んでいるフリをしているだけで、頭に内容は入っていないはずだ。久美子さんもこの場の雰囲気に飲み込まれているはずだ。僕もさっきから物語に集中できない。おかしくて楽しくて仕方ない。

「大垣君は霊を見たことないから、笑うんだよ。実際、体験したら凄く怖いんだから」

「久美子さんだって、見たわけじゃないでしょ。原因不明の停電があっただけで。ちなみに僕は見たことありますよ」

「まさか…今日じゃないよね?」

「違いますよ、子供の頃です。といっても、僕が見たのは霊じゃないですけど」

「霊じゃないって、何を見たの?」

「龍です」

 久美子さんは悲しげな微笑をたたえ、僕を憐れむ。

「大学一年にもなって、中二病ですか?」

「オバケが出たって、大騒ぎしてる人に言われたくないですよ」

「確かにそうかも…じゃあ、なんで?龍を見たんだったら、オバケも認めてよ」

「そうなんですけど。言ったところで誰も信じてくれないでしょ?だったら、存在しないのと同じですよ」

「そうかなぁ。見たなら見たでいいじゃん。でないと龍が可哀想。そんなこと言ってたら、龍に祟られるよ」

「久美子さんは僕の話を信じてくれるんですか?」

「信じるよ。私も今日起こったことを他人に否定されたら嫌だもん。こんなに怖い思いしたのに、『勘違い』とか言われたらムカつくよ。だから大垣君の話を信じるよ。どこで見たの?」

「祖父母の家です。いつもより夕焼けが赤くて。あまりにも赤いから、窓をあけて見上げたら、龍が空から降りてきたんです」

「どんな龍?」

「赤い龍でした。でも、もしかしたら夕日に照らされて赤かっただけかもしれないです。とにかく大きかったです。大きすぎて顔と尻尾が見えないんですよ。雲の切れ目から胴体と龍の足が見えたんです」

 僕は両手を鍵状にして龍の足を真似た。

「一人で見たの?」

「そうです。だから誰にも言えなかったんです。証拠もないし。でも、もういいです。久美子さんに話せただけで充分です」

 それから二時間経って、僕は読み終わった『ワンワールド』二十巻をテーブルに置いた。ラグに寝転がり天井を見上げる。長い一日だった。

 病院に行くと祖母が革命を起こしていた。家に帰ると、英子さんが鰤の照り焼きを作って迎えてくれた。それから深夜に久美子さんが現われて、「オバケが出た」と騒ぎ出す。

 そうして今。彼女は僕の部屋で布団にくるまり、寝息を立てている。僕はベッドの脇に立って、久美子さんの寝顔を見下ろした。彼女の寝顔は無防備で小動物のように愛くるしい。一時間でも二時間でも眺めていられる。でも、そんなことをしようものなら盗み見がバレから、僕は背を向けた。この寝顔を見ていると、もっと親密になりたいと思ってしまう。それは叶わぬ夢だから、こう結論づけた。

 生まれて初めて女性の寝顔を見た。英子さんが言ったように、今日は『特別の日』になった。


 それから夜が明けて、昼前になり目を覚ました。床に寝ていたせいで体中が痛い。それを労わるかのように、布団が被せられていた。ガチガチに凝った上半身を起こし、ベッドの方を見ると、夏用の綿毛布が綺麗に畳まれ置いてある。久美子さんが畳んでくれたのだろう。感慨に浸っていると、カーテンの向こうから雨音が聞こえる。それに混じって腹も鳴る。

「もう、いいや。面倒くさい」

 徹夜の疲労が無気力を招き、さらに雨模様とくれば、コンビニに出向くのは億劫だ。疲労と眠気に身をまかせようと、ベッドにダイブした。枕から久美子さんのシャンプーの香りがする。さっきまで、ずっと一緒にいたのに、彼女に会いたくなった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る