第7話 革命

 寮生活にも一通り慣れ、征二君との剣呑な関係も修復した。その上、教え子のS君もメキメキと力をつけ、絶望的だった志望校への道が明るくなった。S君の母御も御満悦で、休憩時間に虎屋の羊羹を出してくれた。僕の母は虎屋の羊羹を紙切れのように薄く切るが。S君の母御は文庫本かと思う程の厚みで切り分けてくれる。

 万事上々で。父から与えられた『感受性を養う』という御題目は、とうに頭から飛んでいた。それを叱りつけるかのように、頭の痛い出来事が降って涌いた。

 祖母が交通事故で入院したのだ。

 僕はそれを、母からの電話で知った。その時点でも事故から十日が過ぎていて、母もつい先日知ったそうだ。祖母はたった数日の入院で呆けてしまったらしく、それを恥ずかしがった祖父が、実の娘にさえ連絡するのをためらっていた。

 とはいえ。見舞いに行った方がじいちゃんは喜ぶに決まっている。もしかしたら、ばあちゃんは認知症の入り口に立っただけで、これから先、もっと悪くなるかもしれない。そうなれば、じいちゃん一人で抱えられる問題じゃない。

 身支度を整える間も、僕はそんなことを考え続けた。その方が病院に行ってから、きちんと現実を受け止められる気がしたからだ。けれど、そんな祖父に対する思いやりも。外廊下に出た途端、消えうせる。

(クサいっ!)

 それは明らかに排泄物の臭いで広範囲に漂っている。けれど足元のタイルはきれいなもので、汚物が落ちていた痕跡は微塵もない。臭いの元を突きとめようと見渡すと、廊下の突き当たりに英子さんがいる。英子さんは雑巾で床のタイルを丁寧に拭いている。その姿を見て、臭いの原因が分かった。

 歩み寄ると、英子さんは僕に気付き「おはよう」と言う。だが、こちらは挨拶どころでない。

「猫の糞って、こんなに臭うんですか?」

 英子さんは笑いながら「違う、違う。ムギじゃないよ」と言って、寮の裏手の方を指差す。

「自転車屋があるでしょ?。その、向かいの御宅にイチョウの木があるの。ここからじゃあ、見えないけど、すごく綺麗だよ。ここから見えたら、この臭いも許せるのにね」

 自転車屋の朽ちた裏口を見つめながら、僕は「へぇー」と賞嘆の相槌を打った。さもそこに『イチョウの木』が黄金の葉をなびかせているかのように。

「それより、おばあちゃんの具合どう?」

「それが、あんまりよくないみたいで」

「そうかぁ…今から御見舞い?」

「はい、とりあえず行ってきます」

 そう言って階段を下りようとしたところで、「ちょっと待って」と引き止められた。待てと言うので振り返ると、英子さんはニッコリ笑っている。そして、「今日の晩御飯、何が食べたい?大垣君の好きなものを作るよ」と言う。

 嬉しさから体がこそばゆい。照れくさいのを誤魔化したくて、ワザと大きな声で「ぶりの照り焼き」と頼んだ。


 祖母が入院している病院は駅から離れていて、電車で行くよりも自転車で行った方が早い。それにつけても、祖母は自転車に乗っていて事故を起こした。幸い、被害者はなく自損だ。昨夜、事故の知らせをくれた母は。詳細を話し終えるや「自転車は二度と乗せない」とか、「せめて三輪にしなきゃ」と激怒し、怒りの矛先は僕の方に向いた。

「アンタもよく自転車に乗るでしょ?もっとスピードを落として走りなさい」

 母の説教は煩わしいこと、この上ないが。事実、自転車事故でも刑務所に服役するし、多額の賠償金を払うこともあるわけだ。自転車に乗りながら母の説教を思い返したせいで、ペダルを漕ぐ足の力も自然に弱まる。

 そうして、ゆっくり自転車を漕ぐこと三十分。祖母が入院する病院が見えた。この老朽化した建物を見ていると不安になる。ここに入院していても治る病も治らない、そんな気がしてしまう。建物の老朽化と祖母の容態には何の因果関係もないのだが、祖母の容態が悪い以上、感傷的になってしまう。

 駐輪場に自転車を停め、表玄関にまわる。玄関の自動ドアも旧式で、開閉するたびに鈍い音がし、ガラス戸がガタガタ揺れる。ロビーに置いてあるソファーも、ところどころ皮が破れ、ガムテープで補強されている。

 入院生活の前半で、祖母は部屋を移動した。最初の大部屋で、祖母は隣近所から除け者にされ、それに気づいた看護師さんが、祖母の心中を察し、部屋を替えてくれたのだ。

 この経緯を、僕は昨夜の電話で知った。母の説明に「うん、うん」と頷きながらも、ある所感を口にしたくて、母が話し終わるのを今か今かと待っていた。

「まぁ、そういうことだから」

 長々と事の次第を説明していた母は漸く一息ついた。僕はさっそく抱いていた所感を口にした。

「年寄りのイジメも日常茶飯事なんだね、嫌な世の中だ」

「入院して呆けたからねぇ。隣近所の人に、迷惑をかけたのかもしれないね…」

 そういうのもあって。祖母はあまりにも帰りたがって、そのうち病院を脱走するかのように廊下を徘徊するようになった。そのため、ナースセンター近くの大部屋が祖母の引越し先に選ばれたのだ。祖母が徘徊したであろう廊下を歩いていると、すれ違う従業員や見舞い客の口元に目がいく。皆がマスクをしている。そのマスクを見て、今がインフルエンザのシーズンであることに気づいた。僕はマスクを用意しなかったことを悔んだ。

 大部屋の入り口に立って、中を見渡すと、祖父が祖母に水を飲ませているところだった。祖父の顔付きは険しい。慣れない看病による疲労のせいか?

 僕が歩み寄ると、祖父は頭をもたげる。すぐさま、祖父の顔から強張りが消えた。祖父は「ばぁちゃん、順二が来てくれたよ」と言いながら、御機嫌宜しく祖母の口周りをタオルで拭う。祖父の上機嫌とは裏腹に、祖母は知らない人を見るような目つきで僕を見上げる。

「ばあちゃん」と声をかけると、祖母は繁々と僕を眺め「順治か…」と呟く。その一連の言動は、忘れた漢字を辞書で確認するかのようだった。

「順治が来てくれて良かったな」

 祖父の言葉は届いていない。祖母は、ちぐはぐな返事をする。

「さっきラウンジで月村さんに会った。月村さんの御主人も、ここに入院しているそうなの。私、挨拶に行きたいわ」

 祖父は祖母に気付かれないよう、ちらっと僕に目を合わせると、「ばぁちゃんはラウンジなんか行ってない」と声を潜める。けれど祖母の話では、月村さんは菓子折りを持って来てくれたそうだ。

「私は糖尿で甘いものが食べられないから順治に食べさせてあげて」

 祖母はそう言いながら、祖父の服の袖を掴んで、しきりに頼む。

 月村さんというのは近所に住む、祖母の二十年来の友人だ。祖父は身内以外の誰にも入院したことを話していない。それは祖母がこう言ったからだ。「私の見舞いに、時間を使わせるのは気が引ける」と。それなのに。祖母は自分が口止めしたことさえも、すっかり忘れているのだ。

 僕は「ありがとう、あとで食べるよ」と言い、祖母の気を静めた。そしてベッド脇の円椅子に座り、祖父と二言三言話しながら、祖母を観察した。祖母は少し痩せて、きょろきょろと落ち着きがない。その上、忙しなく溜息を吐く。しかし何より異様なのは言動だ。

 祖母は窓の外を眺め、「見て、紫色の雲よ」と言う。僕は円椅子に座ったまま、体を後ろに捻り、窓に目をやった。勿論、空は青で雲は白い。

「うわぁー鳥だわ、あんなにたくさん鳥がいる。紫の雲から鳥が出てきた。どんどん出てくる。あぁ…今度は緑の雲に変わった。雲がどんどん流れる。今度は黄色になった。きれいねぇ」

 そして祖母は「自然は凄い」と何度も湛える。祖母の口から出る空の形容は、僕に『ピカソの泣く女』を連想させた。祖母は芸術家になったのだ。あるいは、真実の世界を見たのかもしれない。伴侶の戯言に愕然とする祖父を尻目に。僕は独り感慨深く、祖母の戯言に耳を傾けた。そして以前読んだ、本の一節を思い出した。

 中世ヨーロッパでは、狂人は常人よりも神に近い存在だと考えられていた。現に僕も、祖母の言動に目を背けるどころか、神秘性を感じてしまう。けれど、このまま祖母の言動を崇めるわけにもいかない。僕の隣では、祖父が顔面蒼白だ。祖父のためにも、祖母がこうなった原因を現実に即して考え直すことにした。

 祖母は普段テレビも本も見ない。友人といるか、祖父といるかのどちらかだ。いくら祖父が毎日見舞いに行っても、それは一日の数時間だ。残りは自分の頭の中で過ごすしかない。祖母は頭の中で月村さんに会い、テレビの変わりに空のショータイムを楽しんだ。生きるための自己防衛だ。生きるために脳内で革命を起こしたのだ。

 僕なりの結論を導き出したところで、祖父の方も独りで結論を出していた。

「明日、精神科の受診をお願いしようかな…」

 祖父は祖母と世間を憚って、そんな大事なことを独り言のように言う。僕が驚いて間誤付いている間にも、祖父の考えは固まったようで、「ばあちゃんを精神科の先生に診せるよ」と言い切る。

 僕は精神科に対して偏見は無いが、向精神薬を安易に用いるべきではないと思っている。幼少の頃、身近な人が服用しており、服用を中止する際の離脱症状に苦しむ姿を目の当たりにしたからだ。そういうわけで。僕は、もう一日様子をみようと祖父を引き止めた。それに。革命は毎日やるもんじゃない。今日で終わりかもしれない。

「僕も出来るだけここに来るよ。ばあちゃんの友達にも知らせて、見舞いに来て貰ったら?」

 祖父は「そうだなぁ」と言いつつも、祖母を見つめたまま思考が停止している。僕は、祖父を見ているのが心苦しかった。祖父は茫然自失であるように見えるが、その落ち窪んだ目の奥に、革命前の祖母の姿を映しているのかもしれない。はたまた、革命後に待ち受ける混乱と焦燥の悪夢にうなされているのか。

 意気消沈する祖父を尻目に。祖母は激しく瞬きをしながら、扇風機のように左右にゆっくりと首を振り続ける。さながら機械仕掛けの人形のようだ。

 僕は心の中で祖母に語りかけた。

 真の革命は大切な物を守るために行うものだ。真に大切なものはいつだって、自分の肉体と精神の外にある。ばあちゃん、意味の無い破壊なら止めてくれ。『ばあちゃんの中』が空になったら、じいちゃんは革命すら起こせない。

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