第6話 カフェオレとミルクティー
「大垣君は学祭の準備をしなくていいの?」
娘の口に、ほうれん草の御浸しを運びながら佐伯婦人が尋ねる。子を産んだ女性は角が取れて接しやすい。その上。子に注ぐ愛情が余剰となって溢れ出し、僕の緊張までも、あやす。食堂デビューの日に佐伯婦人のような人がいてくれたのは幸いだった。
「彼女たちはK大生ですよね?やっぱり学祭の準備に追われていますか?」
婦人は僕の質問に丁寧に答えてくれた。
彼女たちの通うK大は学祭に力を入れていて、取り仕切る実行委員の人数も百名近く上るらしい。彼女らは、その百名から成る組織に参加していて、準備に追われながらもアルバイトに行き、この時期は夕飯を外で済ますことが多いそうだ。
これは朗報だ。暫くは彼女らと、ここで顔を合わせることはないわけだ。弘助さんの帰りも遅かったので、当分、僕が食堂で顔を合わせるのは英子さん・佐伯親子・征二君の四人だけのようだった。
僕は内心、嬉々としながら、佐伯婦人の質問に答えた。
「大学が遠いってのもありますけど、ああいうお祭りごとは苦手です」
イベントにはお決まりの『みんなで楽しもう・みんなで盛り上がろう』といった、半強制的なムードが苦手だ。大して面白くない事柄であっても、嬉々と反応する人々が僕には不思議でならなかった。だが、こうして今でこそ「苦手です」と口にしているが、高校時代はそんな自分を恥じていた。すんなりとその場のムードに乗れない自分は余程つまらない人間なのではないか、そんなことを思っては自分を責めた。自省の結果。自分の方から歩み寄ろうと、作り笑いを試みるも。その都度、心は重くなり、益々、自分がつまらない人間に思えた。
けれど。高校を卒業すると同時に、その胸の重みからも解放された。大学というところは色々な人がいて、僕と似たような癖のある人間がゴロゴロ居る。彼らのような癖のある人間は、多数派から異系の扱いを受けてはいるが、高校よりもずっと深く広い大学という世間では異系と多数派が共存できた。おかげで僕の無愛想な性格も、異系という括りの中へ紛らすことができた。だから学園祭にしても、痩せ我慢してまで参加する必要がなかった。最低限のマナーとして。開催初日に模擬店の手伝いをし、あとは寮で過ごすつもりでいた。 大方、憂鬱で憂鬱を打ち消したようなものだが、食堂に足を運んだ理由は他にもある。
入居二日目の昼に、夫妻と懇意にしておいて。時間をずらして一人で食事をするなど、今さら出来ない。上手に嘘がつけない自分が、あることないこと理由をつけて食堂を避けようものなら、それは必然的に夫妻への反発となる。自分にそんなつもりはなくても、傍にはそう映るだろう。傍から誤解され、住み辛くなるのなら、大人しく食堂に出向くのが賢明だ。
打算の結果、食堂に通いだしたに過ぎないが。征二君との軋轢を蒸し返さないようにと、なるべく機嫌よく振舞っていた。
一方、かの征二君は別人のように大人しく、借りてきた猫のようだった。彼のあまりの変わり様に、僕の目には(ムギも顔負けの)猫被りとしか映らなかった。
そんなわけで、暫くは水に流すどころではなかったが、今は違う。夕飯の回を重ねる毎に、征二君に親しみが沸いている。
征二君との会話を円滑にしたのは彼の珍妙な言動だ。例を挙げると、まず、彼は嫌いな食べ物が多い。野菜、魚、乳製品、剥くのに時間がかかる果物。英子さんが作る料理を見ては、「俺が食べれるオカズが無い」と嘆く。
だが、残したりはしない。征二君は偏食をなおすために寮へ入居したからだ。彼は偏食どころか食事をすることさえ嫌いで、栄養失調になり救急車で運ばれたこともあるそうだ。
この話を聞いたときから、征二君への憤りは大方消えていた。それまでは皆の話を聞くばかりで、会話に参加することは殆どなかったが、このときばかりは快活な口調で割って入った。
「好きな食べ物も無いんですか」
「あるよ。俺が好きな食べ物は肉や、覚えとけ」
「なんでそんな偉そうな言い方をするの」
と、英子さんが甥っ子をたしなめる。英子さんは箸で肉片を掴むと、征二君の目前にブラブラ掲げ、「この肉じゃがは何の肉?」と質す。
「肉は、肉だ」
征二君は誇らしげに答える。
「アンタが食べたのは豚肉、よく噛んで覚えとけ」
敵はとったよ、と言わんばかりの勇ましい顔付きで、英子さんは僕の方を見る。
「何肉でもいいだろう、なぁ?」
と、今度は征二君が僕の方に向きなおり、同意を求める。僕はどちらの味方をすればよいか分からず、続けざまに質問した。
「肉の他に好きなものはありますか?」
「あるよ。ええっと、何だっけ?英子、俺が好きなやつ。あれ、何だった?カフェオレ?ミルクティー?」
「征二が好きなのはミルクティー」
牛乳が嫌いなくせに、征二君はミルクティーを日に二リットルも飲む。
「じゃあ、カフェオレって何だ?」
「コーヒーと牛乳。ミルクティーは紅茶と牛乳」
「コーヒーと紅茶の違いって何だ?」
「コーヒーは豆、紅茶は葉っぱ」
この事実を知った征二君は「へぇー」と至極驚く。英子さんは「二十四年間何してたの」とがっくりきている。
落胆する英子さんに反し、僕は
高校時代。その場に馴染もうと、己の感性を否定し続けた僕。それとは対照的に、征二君は無知な自分に対して堂々としている。些細な物事に過敏に反応してしまう気の小さい僕からすれば、大胆な言動を振り撒く彼が大きく見えた。征二君は己の無知と無教養にまるで無頓着で、体面を気にしない。征二君のそんな無防備が、僕の警戒心を解かしていった。そのせいか。征二君の方も僕に対して、日に日に口数が多くなっていった。征二君は男のわりに御喋りで、気を許せば幾らでも話す。そんなとき、僕は大抵聞き役にまわった。
征二君が披露した幾つ物エピソード。その中でも、僕が特に気に入っているのは彼の副業の話だ。征二君はK大近辺にある雀荘で働いている。これが彼の本業で、休日はギターを持って駅前に行く。最寄り駅から二駅先の、特急が停まる人通りの多い駅。そこの高架下で歌っている。彼は歌手になりたいのではなくチップが目当てなのだ。酔っ払いが千円札と間違えたのか、三万円もくれたことがあったらしい。
「俺は、その三万円は使ってない、人にあげたんだ」
征二君は得意満面だ。
「またその話か」
英子さんが呆れる。
征二君はお構いなしに続ける。
「雨が降ってきたから、帰り支度をしてたら。女が走ってきて、『誕生日のうたを歌って欲しい』って言うわけ。『もしかして今日が誕生日か?』って聞いたら、『そうだよ』って言うから一曲歌う変わりに三万円をあげたわけ」
「三万円もあげてしまうほど、綺麗な人だったんですか?」
「うーん、美人ではないなぁ。とにかく早く帰りたかったんだよな、雨が降ってたし。それに、三万円っていっても、俺が稼いだ金じゃないし」
英子さんが「心が狭いのか広いのか、よく分からない話でしょう?」と突っ込む。
「俺の話にケチつけんな。これはイイ話だ。だって、その子は俺の彼女になったんだから」
「征二の彼女が『プレゼントを貰ったのは、その三万円が最後だった』って言ってたよ」
征二君は「嘘だ、嘘」と首を横に振りながら、「英子の作り話だ」と釈明する。こんな調子で僕と佐伯婦人は食事をしながら始終笑っていた。
征二君とは反対に、佐伯婦人の娘さんは好き嫌いが全くない。お母さんが口に入れたものは何でも食べる。娘さんは口に入れたら一生懸命噛んで、張り切ってゴックンする。好奇心に満ちた目で、また口を開け。最後の一口をほおばって、お母さんが「ごちそうさまでした」と言うと、「うふっ」と笑う。
僕は娘さんの食べっぷりを密かに感心していた。娘さんは二歳だ。佐伯婦人はここで彼女を産んだ。故郷で産むという考えはなかったらしい。シングルマザーとその子供には都会の方が居心地は良く、娯楽の少ない地方では、訳合いの人間は世間話のネタにされてしまうらしい。
英子さんは娘さんのほっぺたをプニプニしながら、「この子が、居なくなったら寂しくなるわ」と言う。
「引越しでもするんですか」と、僕は間髪を入れず聞いた。
「まだ先の話しになるけど。この子が小学校に上がるまでには引っ越すつもり。今の間取りじゃ、学習机が置けないし」
『引越し』という言葉を耳にして、不意に佐伯親子の隣室が頭に浮かんだ。
「そういえば、二階の空き部屋は、まだ決まらないんですか」
僕の問いかけに英子さんはキョトンとしている。その横で征二君が意味深に笑う。
「ウチの隣は空き部屋じゃないよ。長期出張に行ってるだけで…」
佐伯婦人から説明を受け、「そうなんですか」と言いながら英子さんの方を見ると。英子さんは「私、言うの忘れてたなぁ」とバツが悪そうにしている。
「
英子さんは、「そんなことない」と、征二君の肩を叩いた。征二君は叩かれたことを気にも止めず、「東さんどうしてるかなぁ」と芝居かかった口調で遠い目をする。
「なんか、外国に居る人に言うみたいですね」
「大垣、よく分かったな。東さんはインドネシアに飛ばされたんだ。いつ帰って来れるかも分からないし」
英子さんと佐伯婦人は、その話題から逃げるように黙って箸を進める。
「いつ帰って来れるかも分からないのに、部屋を借りてるんですか?」
征二君は箸の先端を僕に向け、箸で指差しながら、「鋭い!そこ、すごく面白いところ」と、騒ぎ立て。さらには…
「まぁ、あれだな。『自分は絶対日本に帰ってくるぞ』って、それを形にしなきゃ、旅立てなかったんだろうな」
と言いながら佐伯婦人を凝視する。
英子さんは、さっきよりも強く征二君の肩を叩いた。
佐伯婦人は苦笑し、英子さんと顔を突き合わせ、大きな溜息をつく。男女関係に疎い僕でも察しがつく。二階の大人達には何かしらの事情があるのだ。僕は娘さんを見て複雑な気持ちになった。
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