第5話 自己


 その晩。布団に入りながら、頭の中で未来の自分を演じてみた。

 まず、大学を辞めた自分。これには職を探す段階で嫌になった。次に、学費を自己負担する苦学生。こうなれば、現在教えているS君だけでは工面できない。教え子を増やすとなると気が滅入る。S君と僕は変わり物同士で馬が合う。僕が家庭教師でいられるのもS君のおかげだ。もし彼でなかったら、四度目のチェンジに合うとこだった。そうなれば派遣会社からも愛想をつかされていただろう。

 方々に考えを巡らせ、眠りに就いたのは明け方だ。遠くからバイクの音が聞こえ、新聞配達だろうかと思ったのが最後の記憶だ。

 目が覚めると、昼の一時をまわっていた。昨日は部屋を片付けるのがやっとで、冷蔵庫は空っぽのまま。カップラーメンでも買いに行こう。ついでに近所をグルっと周らなければいけない。東大阪には祖父母が住まうぐらいで、友達もいない。自転車で走れる範囲の勝手は掴んでおこう。丁度、日曜日だから大学もバイトも休みで時間だけはある。

 あれこれ予定を立て、ふと我を眺めた。昼過ぎに目を覚まし、予定と言えるものは『カップラーメンを買いに行くこと』だけ。そうなると、ここに居ながら大学へ通うのが一番ラクな気がした。モラトリアムは健在だった。


 身支度を済まし、玄関扉を開けると雨は止んでいた。K大学の頭上に浮かぶ大きな雲の切れ間から、幾筋かの陽が西門に降り注ぐ。光のカーテンに覆われたレンガ造りの門は、他から際立ち神々しくも見える。

 雨上がりのK大に魅せられ佇んでいると、階下から悲鳴が聞こえた。廊下の手すりに身を乗り出し、駐車場を見下ろすと。八番の区画にセダン車が停まっていて、それを囲むように家族連れがいる。父らしき人が車についた雨水をモップで拭い。その横で、小さい女の子が「冷たい、冷たい」と騒いでいる。

 一階に下りたときには、家族とセダン車は共に去っていた。休日だけあって駐車場に停まっている車は少ない。けれど寮生の自転車は昨日と同じように、ずらっと並んでいる。僕は自転車を取り出すのをやめ、ガラ空きの月極駐車場の中央に立ち、寮を見上げた。

 金髪もヒステリーも、あの部屋に居るわけだ。休日にも拘わらず部屋にこもって何をしているのだろう。二人の部屋を注視しながらそんなことを考えていると。たちまち、不快感の残り香に見舞われた。

 そのイライラを宥めるかのように、どこからか鈴の音がした。

 見渡すと、母屋と寮の間の路地からムギが出てくる。ムギはこちらに目もくれず、食堂の引き戸に体当たりを始める。そのうち戸がわずかに開き、隙間ができると、ムギは頭だけ潜らせ前進する。

 器用なムギの行動に魅せられ、ムギの後を追い、食堂の戸を引いた。ムギに構って欲しくて、立ち入ったものの。室内に入るや、たじろいだ。

 室内には英子さんと御主人の弘助さんが居た。夫妻と顔を突き合わせた瞬間こそ意表をつかれた気になったが、一刻が過ぎた頃には状況が俯瞰して見えた。たじろぐのはおかしなことだ。いくらムギでも食堂の施錠は解除できない。ムギが戸を開けた時点で、室内に誰かが居ると察するべきだった。

 とは言え、この二人で良かった。もしこれが金髪やヒステリーだったら…そう思うだけで、顔が強張る。

 英子さんは食器を洗い、弘助さんがフキンで拭き、棚に戻していた。二人は僕に気づくと「おはよう」と言う。

 返事だけして出て行くのもおかしいので、僕はムギの方へ歩み寄った。ムギは英子さんの足元をグルグル徘徊すると、足首に頬をスリスリと擦りつけ、上目遣いでおねだりする。

「さっきも煮干あげたでしょ」

 英子さんは全く相手にしない。それでもムギはめげない。今度は高い声で鳴き出す。僕が猫の胡麻擦りを興味深く見物していると、弘助さんが「猫好きか?」と聞いてくる。

 これには困った。猫が好きというわけでもないし、飼ったこともない。可愛いと思ったのはムギが初めてだ。僕がその通りの返事をすると、夫妻は笑っていた。

「抱っこしてもいいですか」

「どうそ」

 僕はムギの脇の下に手を入れ、持ち上げた。ムギは嫌がりもせず、噛みつきもせず、大人しく抱かれてくれる。

「こいつは外面がいい猫だ。『猫を被る』って、こういう事だな」

 弘助さんは猫相手に揶揄する。そんな皮肉は気にかけず、ムギは喉をゴロゴロと振るわせ僕に甘えてくれる。

 昨晩は指の先で「チョン」と突付くか、指の腹で額を数回撫でるに終わったが、今日は一段進歩して手の平で撫でてみた。ムギの毛はしっとりしていて滑らかだ。よく見ると艶々で、テレビで見た歩くマンションとか言われている高級毛皮みたいだ。もしかしたら…それらの中には、毛並みの良好な黒猫の毛を剥いだ、まがい物もあるんじゃないか。そんな疑念を抱いてしまうほど、ムギの毛並みは素晴らしかった。

 ムギを撫でまわす僕を見て、英子さんは愛猫を謙遜する。

「ムギの毛並みが良いのは特別なことじゃないよ。単に若いからだよ。まだ一歳と三ヶ月、人間で言えば二十歳だもん」

「じゃあ、同級生だな」

 そう言って、僕はムギの背中をまた撫でる。

「ところで大垣君、お昼食べた?」

「まだです」

 と答えるや、英子さんは冷蔵庫からラップのかかった皿を取り出す。そして、

「ナポリタンを作ったんだけど、余ったから食べて」

 と言いながら、僕が了承するよりも前に、レンジのボタンを押す。

 僕がナポリタンに接するのはコンビニ弁当や冷凍食品が殆どだ。一度だけ、料理の苦手な母がナポリタンを作ったことがあったが。作った当人でさえ絶句していた。それもあって、僕は英子さん手製のナポリタンに痛く感激した。ケチャップで炒められたウィンナーにタバスコが良く合う。英子さん曰く、『ケチャップで炒めれば出来上がり』というわけではないそうで。ケチャップで炒める前に白ワインをかけたり、トマトホールで煮詰めたりしているらしい。母の作るナポリタンが不味かった理由が分かった。ズボラな母のことだから、ケチャップを廻しかけただけだろう。

 夫妻のランチは、これに『かぼちゃスープ』がついていた。ムギが人間で、この夫妻の子供だったら幸せだろうなぁ。そんなことを思いながら、僕はあっと言う間に平らげて、食べ終わった食器を流しに運んだ。昨晩、例のヒステリーから食器を洗えと言われた理由が分かる。ご馳走さまという言葉だけでは足りない。

 洗い物を済ませ、手を拭いていると。「新生活はどんなもんだ?」と弘助さんが聞いてくる。僕は「慣れないことばかりで疲れました」とありのままに答えた。こちらとしては弱音を吐いたつもりはなく、感想を述べたまでだが。英子さんはたちまち心配する。

 僕は慌てて「分かったこともたくさんあります」と付け加え、軌道修正を試みた。ここでの三年半は僕にとって修行だということ。人が集まる場所には目に見えない無数のルールがあること。そんな風に、昨日一日で感得したことを包み隠さず話した。

「修行か…ここは、そんなに居心地悪い?」

 僕は今まさに居心地が悪かった。英子さんを心配させまいとして補足した言葉が、英子さんに不満をぶつける形となった。この状況を修正するには、父に言われたことを説明する他無い。

『人間関係に苦労するのは、感受性が生かされていないからだ』

と、父に言われたこと。僕はそう思わないけれど、父が『寮に行けば感受性を養える』と言うので、ここにやって来たこと。だから僕にとっては、ここにいることが修行みたいなものだと説明した。

 英子さんは「ふんふん」と頷いている。説明の甲斐あって、英子さんの哀傷は解けたようだ。

 一方。弘助さんは父の持論に感心し、「三年もあれば、親父さんの言った意味が解ると思うよ」と僕を励ます。

 この問題は他人から答えを得るものではないようなので、それ以上のことは質問しなかった。代わりに違うことを尋ねた。本屋・病院・自転車屋・二十四時間スーパーの場所だ。

 英子さんは快く説明してくれた。そして、ここの住人についても説明してくれた。幼稚園の教諭みたいな口調の、あのヒステリーは久美子さん。もう一人の、おかっぱ頭が陽菜さん。彼女達は四階に住んでいてK大生だ。そして二階に住んでいるのが、英子さんの友人の佐伯さん。彼女は看護師のシングルマザーだ。金髪の征二は三階の僕の隣。となると。二階の母子の隣室は空き部屋なのか?

 この疑問を解消しようと、「あのう」と言った。ところが、英子さんが僕よりも大きな声で「そのうち」と言ったものだから、僕は「あのう」から下を一旦飲み込んだ。僕が退いたところへ放った英子さんの一言は、何とも気楽なものだった。

「そのうち、みんなと仲良くなれるよ」

「そうですねぇ…はっはっ」

 こちらとしては懸命に作り笑いをしたつもりでも、最善の笑顔は端から見ていて痛々しいようで、弘助さんが「何かあったの?」と聞いてくる。察しのよい弘助さんのおかげで、僕は陰口という後ろめたさを抱かずして、『乾燥機事件』を隅から隅まで話すことが出来た。

 弘助さんは、「大垣君は悪くないよ」と僕の言動を肯定してくれた。僕はさらに甘えて、昨晩のヒステリー(改め)久美子さんが抱える矛盾点を打ち明けた。

「私物を入れっぱなしにしていたのは彼女です。彼女にだって落ち度があるのに…」

「ただ、世の中は矛盾に満ち溢れてるよ。悪意のある矛盾もある。その点、久美ちゃんは悪意がない。論理的じゃないだけで」

 弘助さんの性格は飄々としていて掴みどころがない。そのくせ彼自身は物事を掴むのが早く、また、妙に他を納得させるだけの弁を持つ。今もそうだ。久美子さんを庇ってはいるが、感情論に傾いていないからこそ、僕は弘助さんの言うことに耳を傾けることができたし、久美子さんを嫌いになる一歩手前で踏み止まれた。

 弘助さんはさらに事を裁く。

「征二は変な奴だけど、悪気はない。人見知りが度を越えることもあるけど許してやって」

 そして、裁きを下した弘助さんは論説に入った。

「他人の矛盾を正しながら生きていくことは不可能だよ。そんなことに心を奪われるのは感受性が生かされてないからだ。って、大垣君の親父さんなら言うかもね」

 感受性とは他者を受け入れるだけの寛容な感性のことだと父は言いたかったのだろうか。もしかしたら、父からの御題目に半歩くらいは近づけただろうか。二日目にして半歩なら、上出来だ。大学卒業まで、三年半もあるのだから。

 形而上の問題はさて置いて、昼食後からは形而下の問題に取りかかった。英子さんから聞いた『自転車屋』は寮のすぐ裏にあったので探す手間が省けた。『病院』もそうで。よくよく眺めると、自分の部屋の窓から『●●内科・外科』という看板が見えたので、下見は不要だ。

 英子さんが言うには、そこの病院でシングルマザーの佐伯さんが働いているそうだ。現在、佐伯さんは休暇をとって里に帰っているらしい。

 そして、僕が最も頻繁に利用するのが本屋だ。ちょうど本屋の行き道に二十四時間スーパーがあるようなので、行ってみることにした。


 本屋への道程を、自転車で疾走するが。実家の周辺と似たような建物が並び、これといった特色もない。寂れた商店街・コンビニ・スーパー・ガソリンスタンド・銀行・公園。人が多いか少ないかの差があるだけて、都会の中なら、どこに引っ越しても、食い違うことなく生活できそうだ。

 駅前の本屋はコンビニの書籍欄を膨らませたようなもので、本らしい本はなかった。店の奥に階段を見つけたので上がってみると、DVD店が営業していた。店内を徘徊してみるが、品数も少なく、当り障りのない品揃えだった。その無難な作品が混雑する中で、ある作品に目が止まる。驚いたことに、万人受けするはずのないキューブリックの作品が全作置いてある。おまけに従業員の推薦コメントまで添えられて、大々的に販売促進されている。

 店員の宣伝活動に促され、僕は久し振りにキューブリックの作品を鑑賞することにした。DVDを箱から抜き取っていると、料金のことが気になった。もしかしたら五本で五百円というような料金パックがあるかもしれない。それによって借りる本数も変わってくるので、一先ず、料金表が貼られていないか周囲の壁を見渡した。すると、近くに居た二人組みの若者が間接的に教えてくれた。

「旧作六本で五百円って安いな。そのわりには流行ってないけど。客が全然、いないし」

「近くに●●●が出来たからな。だいぶ、向こうに取られたんだろう。向こうの方が、なんでも置いてるし、人気商品も大量に入荷してるから、いつ行っても借りれるもんね。でも、この店のアダルトは凄いらしいよ。他の店では置いてないモノがあるんだって。だから、遠方からも借りに来る人がいるみたいだな」

「そうやって客足を増してんだろうな」

 若者二人はこの店の経営状態を叙述すると、いそいそとその場を去った。恐らく、黒い垂れ幕の中に入って行ったのだろう。

 貸し出しカウンターに向かうと、カウンターでは店長らしき人が男性客から文句を言われていた。男は延滞金の支払いを拒んでいるようで、腹立ち紛れに、手に持った貸し出し袋をカウンターにバンバン叩きつける。袋にはDVDが入っているようで、商品が破損するのを恐れてか、店長は心配そうな面持ちで貸し出し袋を凝視する。

「六本五百円で貸しといて、一日過ぎただけで、千八百円の追加料金を取るって、どういうことだ」

 千八百円という金額を聞いて、僕もこの店のやり方に驚いた。だが、料金表を見て納得した。料金表には『一日超過毎に三百円』と買いてある。要は、この男が六本全部を返し損ねた為に、一日当たり千八百円という金額に膨れ上がっただけのことだ。

 店長は低姿勢ながらも、入会規約を見せながら懸命に説明するが、客は一向に取り合わない。眉を八の字にしながら客を宥める店長に、僕は心底同情した。店を守るための出血大サービスを詐欺と言われ、いくら相手が不逞な風体であっても、客である以上は頭を下げなければならない。そんな店長の不満は誰にぶつけることもできない。やり場の無い感情は「しょうがない」と呟いて溜飲を下げるしかない。こういった『しょうがない』出来事が津々浦々で発生することによって、世知辛い世相が出来上がるのだろう。

 世情の変遷に飲まれた店長は、客の恫喝にも飲まれたようで。店長は「わかりました。追加料金は次回からで結構です」と音を上げた。男は機嫌良く帰るどころか、「二度と来るかぁ、こんな店!」と怒鳴る。

 そのふてぶてしい態度に度肝を抜かれた僕は、自動ドアの向こうで段々小さくなる男の後姿を暫く目で追った。

「いらっしゃいませ」

 その声に反応し、振り返ると。カウンターでは店長が次の客に取りかかっていた。その客はさっきの若者二人で、彼らは、やはり黒い垂れ幕の奥に入っていたようだ。艶かしいパッケージは遠目からでも目に付く。彼らは手にしたのだろうか。噂通りの、遠方からも客を呼ぶ垂涎の一品を。その真偽を確かめたくて、僕も黒い垂れ幕の奥へ入って行った。



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