第4話 モラトリアムは没収された 


 棚を組み立てるスペースを確保しようと、散乱した段ボールを壁際に押しやる。その際、段ボールの角が何かに当たった。飲み干したつもりの缶コーヒーが、僕の気を惹きつけんばかりに外に飛び出している。しかも運悪く、まだ敷いてもいない、白い玄関マットを汚して。慌てて洗濯機に放り込むが、半ば諦めた。洗ったところで染みはうっすらと残り、新しいのを買うはめになるだろう。平生の僕なら、汚れたマットを見つけた時点で苛立っていただろうが、今はもう苛立つ気力もない。あるのは、さっさと荷解きを終わらせよう、それだけだ。

 せっせと棚を組み立て、段ボール三箱分の本を並べ終えたところで、洗濯機の終了ブザーが鳴る。マットを取り出すと、染みは意外にもきれいに消えていた。

 ベランダには雨を避けられる庇がないから、食堂にある業務用の乾燥機を使うことにした。食堂へ入ると。室内は思いのほか暗く、マンションの一階部分だけあって、街灯や隣家の窓明かりは行き届いていない。

 電気を点けると。暗闇と行き違いにオレンジ色の花が目に飛び込む。花瓶に生けられたそれは、テーブルの上で体幹をくねらせ、見映えするポーズをとっていた。

 僕が出て行ったあとに誰かが来て、この花を生けたのだろう。そう思うと、頭の中で御主人の言ったことがリピートされる。

「戸締りさえしてくれたら、ここへの出入りは自由だから」

 それを象徴するかのように、誰かが乾燥機を使ったようで。扉を開けると衣類が入れっぱなしになっていた。


 自室に戻り。テレビの設定を終え、チャンネルボタンを手当たり次第に押すと、『クライマックスシリーズ』が放映されていた。さほど野球に興味はないが、

『野球は九回裏二アウトからと言いますが、まさに言葉通りの展開となりました』

との実況に大いに惹きつけられた。

「いよいよフルカウントです」

 アナウンサーの声色は厳粛に充ちていて、刀剣を用いた、本物の決闘に立ち会っているかのようだった。アナウンサーや皆の緊張とは裏腹に、次の球はファールで、その後もファールが十二球まで続いた。そして十三級目。甘く入った玉をバッターは見逃さず、センター前ヒットを生んだ。

『野球は九回裏二アウトから』

 クライマックスシリーズ第三戦は、その言葉通りの逆転劇で幕を閉めた。部屋の片付けは後回しになったものの、熱心な視聴のせいで有意義な時間潰しができた。玄関マットを取りに行こうと、立ち上がったところで、呼び鈴が鳴る。

 ドアを開けると。女性誌から飛び出したような、顔の小さい長身の女の子が立っている。胸元まである茶色い髪にゆるくパーマがかかっていて、風呂上りだからか、風が吹くと彼女の髪から甘い香りが立ち上る。

 その可愛い人は、僕の玄関マットを手にしており、無言でマットを手渡す。というより、正拳突きでもするかのように粗野に突っ返す。

 僕が礼を言うと、ふたえの大きな目が別人の様に細くなった。この鋭い目つきには覚えがある。食堂でおかっぱ頭と共に、僕の容姿を査定していた女の子の一人だ。せっかくの華美な目元を崩し、人相を悪化させてまで怒りを顕にする彼女。その心中は察し難い。だが、それはお互いさまのようで。彼女の方も僕の行動に疑問を抱いていた。

「非常識じゃない?」

 彼女は不愉快そうに言う。そして、こうも言う。いくらなんでも女の子の洗濯物を取り出すのは失礼だと。廊下に彼女のカナギリ声がこだまする。僕が取り出した衣類は冷たくなっていた。彼女は長時間放ったままにしていたのだ。僕は乾燥機が一台しかないことを主張したが通じなかった。それどころか。彼女は僕への嫌悪を、その整った顔の上にありありと表す。

 僕は慌てて、下着には触れていないことを強調したが、それがマズかった。僕が放った『下着』という言葉に、彼女は烈火の如く怒った。「だから触って欲しくないの」と声を荒げる。

 女の子の気持ちを察するのが下手すぎた。僕の目に彼女の下着は映った。それが彼女の気を悪くしたのだ。僕は下着という言葉は使わないで、人の物を勝手に触ってすみませんでしたと謝った。けれど彼女は。僕の謝罪なんて聞こえていないようで、矢継ぎ早に第二の苦情を申し立てる。

「それから。自分が使った食器くらい、洗って棚に戻しておくように」

「すみません、あとで洗います」

「もう、洗いました。ここの決まりではないよ。でも、英子さんの負担になるから各自そうしてるんです。分かりましたか?」

 説教をされる最中、不意に幼稚園に入学したときを思い出す。各自、決められた棚があって、そこに自分の持ち物を片付ける。クレヨンに粘土、カスタネット、ハーモニカ。僕に説教をする彼女の口調は、園児に片づけを教える先生みたいだ。

 一通りの自己主張を済ませた彼女は、これ見よがしに大きく溜息を吐いてから、僕に背を向け、廊下を歩いて行く。言いたい事を散々述べて、あの溜息は何だろう。まだ怒り足りないのか。それとも、面倒をかけた僕に呆れているのか。階段を登る彼女の足音には、まだ微かに僕への怒りが漂う。僕がドアを閉めようとすると、上の階から乱暴にドアを閉める物音が聞こえた。

 室内に戻るや。僕は彼女の態度に打ちのめされて、床に倒れこんだ。そして。今日起こったことの一つ一つを思い返す。追体験のせいで体全体が強張る。その強張りを解こうと大きな溜息をついた。

 引越し初日にして、見通しの甘さを思い知った。人が集まるところには無数のルールがある。それは紙に書かれてはいない。自分で一つずつ拾っていくしかないのだ。

 無数にあるルールの中から、僕が今日一日で引き当てたのは食器と乾燥機、そして駐輪場にまつわるルールだ。僕はそれらについて考えた。

 まずは駐輪場の件。金髪の粗暴を別にすれば、根本原因は僕にある。段ボールで通路を塞いでいた僕がルールを犯していたのだろう。食器の件にしても、自分が使った食器くらい片付けるのが当然だった。これも、僕に落ち度がある。

 乾燥機は… 一見、こちらに非があるように見える。けれど、どこか釈然としない。自分で取り出さず、彼女の部屋に行って、衣類を取り出して欲しいと懇願すればよかったのか。しかし、その場合でも、下着を見たことには変わらない。そうなると、ああいう場合は、何も見なかったことにして使用をあきらめるのが最適なのかもしれない。

 考えた結果、『あきらめるのが最適』と導かれても、納得するどころか、一向におさまらない。私物を入れっぱなしにしていたのは彼女なのに。彼女だってルールを守っていないじゃないか。それなのに、こっちが『あきらめる』というのは何とも遣り切れない。彼女は下着を見られたことの羞恥を、嫌悪にすりかえ、僕にぶつけただけだ。

 矛盾だ、矛盾している。彼女の理不尽な物言いに悔しさが込み上げる。それを霧消しようと、目を閉じて、記憶の内から桃ちゃんの笑顔を引っ張り出した。たった一度、僕に降り注いだ笑顔は、今もこうして癒してくれる。


 桃ちゃんと出会ったのは通学中だ。満員の車内で僕と彼女は向かい合って立っていた。彼女は自動ドアと右半身の間に学生鞄を挟み、空いた両手に文庫本を持って熱心に読書をしていた。彼女は黒髪をポニーテールにしていた。とてもよく似合っていた。

 彼女の容姿がこの髪型に相応しいというよりも、この髪型が彼女の器量のよさを引き出していた。この、後頭部で一つに束ねただけの凡庸な髪型は女性の生まれ持った器量を診断するのに適しているのだろう。

桃ちゃんは制服を行儀良く着ていて、カトリックの学校を思わせる身形だった。個人の趣味や主張を押さえ込むような堅苦しい制服を着ていても、彼女は充分、人の目を惹いた。俯き加減にしていても、長い睫が際立ち。白いだけの肌とふっくらとした頬は、化粧っけがないせいで産毛まで見える。白桃みたいだなと思うと、そこから目が離せなかった。

 車内に到着のアナウンスが流れると、桃ちゃんは文庫本を閉じ、それを鞄にしまった。僕もすかさず視線を逸らし。不審な点を一切残さないために、訳もなく鞄から財布を取り出した。

 その頃、電車はホームに入ろうとしていた。カーブを曲がったところで、車体はいつになく揺れた。財布に気を取られていた僕は、誰かに突き飛ばされたかのように足元がおぼついた。

 後方へ倒れかかった僕の腕を、咄嗟に掴んでくれたのが桃ちゃんだった。あまりの恥ずかしさに。蚊の鳴くような声で「すみません」と言うのがやっとだった。それなのに、桃ちゃんは。そんな僕に対しても優しく微笑んでくれた。

 それからも。度々、桃ちゃんと通学時間が重なることがあったが、ホームで彼女を見つけても、すかさず踵を返し、彼女との距離をとった。

 桃ちゃんの存在は日増しに大きくなっていったが、自己を主張しようとは思わなかった。そんなことをすれば、彼女に恐怖や猜疑心を与えてしまう。彼女の親切を仇で返すようなことはしたくなかった。

 けれど、こうして家を出て。あの時刻・あの駅に縁がなくなった今となっては、少しばかりの後悔に胸が疼く。だが独居生活というのは人の神経を尖らせ、物事のアラをすぐに感じ取ってしまうらしい。僕は瞬時に数秒前の自分に説教することが出来た。

「アホらしい」

 それは独居生活一番目の独り言だった。後悔の念が沸いた自分に腹が立つ。勇気を振り絞ったところで結果は目に見えている。僕が彼女の笑顔を再び手に入れることは有り得ない。桃ちゃんが僕にくれた笑顔は、あの一瞬で散ったのだ。その残像を反芻し、幻に酔っているに過ぎない。

 桃ちゃんに見切りをつけると、今日の出来事が急に色濃く現れ始める。段ボールを傘で殴る金髪と、金切り声で捲し立てるヒステリーが、僕の思念を再び占拠し始める。

「バカらしい」

 僕はベッドから起き上がって、壁に建て掛けた段ボールを手にとった。腕に有りっ丈の力を込めて、段ボールを引き裂く。金髪とヒステリーを頭から取り払おうと、無我夢中で段ボールを粉砕する。破く紙が無くなると、火照った頭が冷え出した。

 床に散らばった紙屑を見ていると、情けなかった。これでは僕も彼女と同じヒステリーで、金髪と同じく粗暴だ。

 処世術を持たない僕は、たった一日で撃沈された。

 人間交際は難しい。池に放り込まれた小石が大きな円を描いて外へ広がるように、ほんの些細なことが悪い方へ広がっていく。自分自身に問題があるのかもしれないが、手にとるようにはわからない。数学のように例題も解説もない。間違った答えを消す術も知らない。そんな人間交際に不知な僕を、人々は不審な目で見る。だが、何より恐ろしいのは、人々は僕に『人間交際の落伍者』とレッテルを貼るだけで、僕の人間交際に何の助言も与えてくれないのだ。

 寮生活なんて、しなきゃよかった。

 挫折した際は残りの学費を自分で払う。そんなこと、言わなければよかった。僕の頭には大学中退すら過ぎった。モラトリアムは没収された。

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