第3話 ムギ
あぁするしかなかったと思いながらも、大家さんの心配りを蹴散らしたことに良心が疼く。そこで、申し開きのつもりで。大家さんに告げた通り、引越し作業に取りかかることにした。
衣類の入った段ボールに手をかけると、どういうわけか掃除機の紙パックが出てくる。思い返せば、不精な僕は。荷造りも中盤に差し掛かると飽きが来て、手当たり次第、箱に放り込み封をした。だから、ある箱を開ければカーテンとDVDが入っていたし、別の箱には、しまい損ねたDVDと文房具と洗面用具といった物がギュウギュウに詰め込まれていた。
そんな雑多において、一際個性を放っていたのが目覚まし時計だ。時計の針は不自然な時刻を示す。外れていた電池を指で押し込むと、規律正しく動く。「前進!前進!」と叱咤されているようで気が滅入る。何もかも嫌になり、床に枕を放り投げ、横になる。つい今し方、奮起したのが嘘のようだ。
寝転がった僕の枕元で、目覚まし時計がカチカチ言う。指し示す時刻はでたらめでも、浪費した時間は正確に教えてくれる。あれから一時間は経つ。けれど何も片付いていない。時計の針さえめちゃくちゃだ。せめて言い訳すればよかった。レンタカー店からの帰り道。あのとき、理想的な言い訳を完成させるべきだった。否…言い訳なら今からでも遅くない。
「今日中に片付けを済ませたかったので」
「慣れないことをして疲れたので」
やめよう、何を言ってもおかしい。もう、悩むことを止めよう。悩むことなんて何もない。ゴミ出しのルールを守って、騒音に気を使って、挨拶さえしておけば文句ないだろう。
「よぉし」
自分を励ますように大声を出し、起き上がる。スマホで時刻を確認すると、七時四十分。目覚まし時計を正確な時刻に戻した瞬間、「ピンポーン」と部屋の呼び鈴が鳴った。絶妙のタイミングで鳴った呼び鈴は『正解』を告げる効果音のようだった。
大家さんが来たのだろう。それしか考えなかった。今日まともに口を利いたのは大家さんだけなのだから。
ドアを開けると、眼鏡をかけた長身の男がいた。僕より少し上の世代だろうか。口元の縦皺が目立ち、面長で、目元は縦にも横にも小さく、『きりん』に似ている。そのユーモラスな人相を上回って珍妙なのが、彼が着衣するTシャツだ。Tシャツの胴体部分にはミニスカートの女子高生がデカデカとプリントされていた。
「こんばんは。ご飯まだだろう。食べにおいで」
予期しない人物の予期しない誘いに、言葉が詰まる。
「大丈夫、食堂には誰も居ないから」
大丈夫と言い切られ一瞬怯むが、どうにか気力を搾り出し、物怖じせずに意見した。
「ここで食べます」
「それは無理だよ。ここは、そういうサービスやってないから」
しまった、誤解された。何もルームサービスを主張したつもりはない。「自分で取りに行く」と言えばよかった。訂正しようとしていると、男はドアの取っ手を外に引っ張る。僕は内側の取っ手を握っていたので、前のめりになって、必然的に表に飛び出す格好になった。男は、よろける僕を他所にして「さぁ、行くよぉー」と高らかに誘い、階段を下りて行く。
強引な誘いに面食らって、僕は靴下のまま、廊下に立ち尽くした。下の階から、男が急かすように僕の名を呼ぶ。せめてもの反発として、僕は聞こえないのを装い返事をしなかった。しぶしぶ靴を履き、表に出ながらも、意を唱えたい気持ちはあったので、『きりん眼鏡』を思い浮かべながらドアを蹴って閉めた。
食堂に出向くと、男は冷蔵庫から『漬物』と『梅干』を取り出していた。そして「これ、チンして」と言い、肉巻きが盛られた皿を僕に託す。さっき嗅いだ甘い匂いは肉巻きのタレだったのか。
僕はそれを受け取って、レンジにセットしながら、この男の人柄を分析した。この人は大胆なことを軽妙にやってのける。手短にこちらを誘い、それが断られるや、最後は力業で僕を自室から引っ張り出した。金髪のように横柄ではないが、どこか威風がある。
男は、汁椀と飯椀を僕によこすと、何かを思い出したかのように嘆く。
「先に味噌汁を温めればよかった」
そう言って、男はコンロに火を点ける。そして振り向きざまに、「米、食わないの?」と聞いてくる。
僕は手に碗を二つ持ったまま、立ち尽くしていた。これでは、また『ルームサービス』を主張したように取られてしまう。僕は少しでも積極性を見せようと、俊敏に炊飯器を見つけ、適当に飯をよそった。
男は僕の碗を覗き込み、「少食だなぁ」と呟く。僕は何と答えればいいか判断できず、今のは独り言だと決め付けて、応答を放棄した。
男はコンロの火を止めて、味噌汁の入った鍋をこちらに持ってくる。僕は慌てて、コンロから一番近い席に汁碗と飯碗を置いた。その瞬間、電子レンジが鳴ったので、またもや積極性を強調しようと、俊敏に肉巻きをレンジから取り出しテーブルに置いた。
その間。男は「箸はここにあるから」と言い、食器棚の引き出しから箸を取り出してくれる。小心者の僕は、さっき応答できなかったことを帳消しにしたくて無理から質問した。
「箸はどれを使ってもいいんですか?」
「今日は割り箸を使っといて。箸は自分で用意して。間違っても、久美ちゃんと陽菜ちゃんのは使ったら駄目だよ。何を言われるか分からないから。あと、これを渡しておくよ」
そう言うと、男はズボンのポケットから鍵を取り出した。
「ここを出るときはテレビと電気とガスだけ確認してね。戸締りさえキチンとしてくれたら、食堂への出入りは自由だから」
「わかりました」
僕は普段したことのない、溌剌とした物言いをしてみた。その積極性溢れる物言いに、我ながら聞き惚れる。だが、男は「ええっと、それだけかなぁ」と僕の積極性を気にも留めず、腰に手を当て、辺りを見渡す。
そのとき、ガタっと音がした。音の方を見ると、誰も居ない靴脱ぎの方から鈴の音がする。
「おぉ、ムギ!おかえり」
そう言って男は床にしゃがみこんだ、と思ったら立ち上がって、腕に抱いたそれを僕に見せ、テーブルに置く。黒猫が、赤い首輪をした黒猫がテーブルに四つんばいになって、こちらを見据える。その目には見覚えがある。記憶を手繰ると…そう!爬虫類だ。アーモンド形の黄色い瞳孔は蛇やワニを彷彿させる。
「大垣君は、猫アレルギーある?」
無いですと答えると、男は会話をそれっきりにして僕に背を向け、戸棚を漁る。男は猫の餌袋を取り出すと、「あれ?もう、これだけしかない!」と言いながら袋を覗き込む。
猫はぬいぐるみの様に大人しく四つん這いになって、男を見上げている。男は猫の頭を二三撫でると「買ってくるかぁ。大垣君、戸締りよろしくな」と言い放ち、出て行った。
緊張から解放されたのと、空腹が相俟って。全身の力が抜ける。着席すると、それを真似るように猫もお座りをする。猫は身を屈め、僕のおかずをクンクンしだす。猫に口をつけられないよう、自分の方へ皿を引き寄せると、猫もこちらへやってくる。
「欲しいのか?」
僕は牛肉に包まった人参を取り出し、それを小さく切って猫の前に置いた。猫はクンクンするが食べない。すると、何を思ったのか寄ってきて、僕の手の甲を嗅ぎ出した。
出会って数分で、これだけ距離を詰められると、こちらも心変わりしてしまう。僕は箸を置き、親交を深めようと、指先で猫の肩をチョンと触った。猫はさらに寄って来る。せっかくだから額に触れてみた。実際やってみると、猫の額というのは本当に狭い。額と眉間が重なり合っている。
「ムギ」
僕に名を呼ばれたからか、ムギは目を開け「ニャア」と眠そうな声で返事する。
今日一日の疲れがほぐれる。
両親が知れば情けなく思うだろうか。ここへ来て、僕が心を許せたのは『ムギ』という名の黒猫だけだ。否、ムギだって、家賃の代わりに愛敬を振りまくことで立派に居住権を得ている。ムギも立派な寮生だ。臆することはない。そう自分に言い聞かせ、誰とも出来なかった世間話を一方的にムギにぶつけながら、晩飯を頬張った。
「大家さんは料理が上手だ」
「お前は誰の猫だ?みんなに飼われてるのか?」
「あの『きりん眼鏡』は何者だ?ここの寮長か?」
ムギはもちろん返事はしない。だが、時折、相槌を打つかのように、尻尾を上下に動かしながらテーブルの中央でゴロンとしている。
「ムギ、可愛いな」
そう呟いて、ハッとした。そういえばムギの性別を知らない。ムギという名前からでは判断がつかない。尾を持ち上げ、確認したところ女の子だった。その瞬間、唐突に引き戸が開いた。いくら相手が猫であっても異性の局所を拝見している最中だ。疚しさからか、体がビクっとなる。
現れたのは大家さんで、こちらを見て目を丸くしている。この顔を見るのも、本日二度目だ。
「なんだ、ここに居たの?」
「はい。男の人が呼びに来たので」
「…あぁ、弘助ね。あれは主人。ご飯どう?口に合う?」
「はい、美味しいです」
そう良かったと言いながら、大家さんはムギを抱き上げる。そしてムギの額に自分の額をくっつける。
「お母さん、ずっと探してたんだから」
大家さんが探していたのは僕じゃなかった。心当てが外れ、人知れず恥じ入った。
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