第2話 金髪

 阪神高速に乗り、目指すは荒本出入り口。そこから一般道に出て五分ばかり走ったら、鮪の研究で有名なK大学が御目見えする。ここら一帯にある寮や学生マンションはK大生中心に部屋を貸している。これから行く寮もその一つで、寮生の多くがK大生だろう。そうであるから、大阪市内の大学に通う僕が、この辺りで部屋を借りるのはおかしなことだ。寮生から「なんでここに住むの?」と聞かれても、簡潔には答えられない。

 そのくせ。今、走っている道路も、車窓から見える建物も、子供の頃から知っている。ついこないだの正月も、両親と祖父宅を訪れた。その際も、この道を通ったけれど両親は何も言わなかった。僕一人何も知らず。数ヶ月後、ここに住むとは夢にも思わず。

 モヤモヤしながら運転していると、心の整理をする間もなく寮に辿りついてしまった。寮の前には月極駐車場がある。むろん契約などしていないが、空いているところに車を停めた。

 寮の隣には昭和を感じさせる古い一軒家があって、そこが大家さんの住居だった。自室の鍵を貰うのと母から持たされた手土産を渡すためにも、まずは母屋を訪問しなければならない。挨拶の文言を見繕いながら車外に出ようとしていると。こちらが向かうよりも先に大家さんが母屋から出て来た。

 ここの大家は、肩書きとは裏腹の幼い風貌をしている。童顔を覆う直毛の艶々した髪が、天使の輪を放っている。また、この人は。小柄であるのにビッグサイズのTシャツを着ていて、十月だというのに暑がりなのか、両袖を肩のところまで捲くっている。見様によっては部活帰りの中学生だ。半月前、両親と訪れた際に感じた驚きは今も健在で、初対面でもないのに新鮮と稀有の目で見てしまう。

「雨降りそうだね」

 大家さんに釣られ、見上げると。低空に暗灰色の雲が漂っている。 

 幸が思いやられるスタートだ。雨が降り出す前に搬入を終えたい。自室の鍵を貰おうと、大家さんの方に向き直るが、彼女はこちらに目もくれない。空を見つめる大家さんの幼い横顔を見ていると、僕は生まれながらの貧富の差というものを痛烈に感じた。

 寮と母屋の前にある月極駐車場は、左右に五台ずつ停めるようになっている。その十台に及ぶ駐車料金と家賃収入が、このうら若い大家の懐に毎月入ると思うと、さすがに羨んでしまう。

 その羨ましき大家さんは「とりあえず、あそこに停めて」と言いながら駐車場の八番の区画を指した。そのすぐ近くには寮生が部屋に上がるための外付けの階段がある。

 大家さんが八番の区画を指定したのは、トラックから荷を降ろし、部屋まで運ぶ作業の効率を考えてのことだろうから。僕は言われた通り車を八番の区画に移動させ、土産を携え、大家さんのもとに駆け寄った。

 手土産を渡し、一渡りの挨拶を済ますと。大家さんはズボンのポケットから部屋の鍵と駐輪用のステッカーを取り出した。この寮の一階部分は二つに仕切られていて、その一つが駐輪場だ。大家さんの話では。この辺はK大生が多いので、寮生に紛れ違法駐輪する輩が多いらしい。

 駐輪場にずらっと並ぶ自転車の、後輪部分を指差しながら大家さんは念押しする。

「あのタイヤカバーみたいなやつ。ステッカーはあそこに貼っといて。違う箇所に貼ったらダメだよ」

「分かりました。フェンダーに貼ればいいんですね」

「あれ、フェンダーって言うんだ。知らなかった。良いこと聞いた」

 僕の雑学が役に立ったようで、大家さんはお年玉を貰った子供のようにニコッと笑う。雑学も然ることながら、大家さんは僕が乗ってきた軽トラを見て、しきりに感心する。

「業者に頼まず、自分でやって偉いね。さすが男の子」

 そう言うと、大家さんは軽トラに積んだ荷物に半ば触れて、こちらに手を貸すつもりでいるらしい。僕は不慣れな年長者と共同作業はしたくない。自分一人の引越しは体力を消耗するが、精神を働かすよりはマシだ。僕が遠慮を装い断ると、大家さんは荷台を見ながら少し考え込んで、「四時までには運び終りそう?」と聞いてくる。

「たぶん、終わると思います」

「それだったらいいけど。四時過ぎたら、八番の区画を借りている人が戻って来るの。この月極駐車場はウチの物件じゃないから、融通が利かないの」

 僕が驚くと、大家さんは、

「ウチの物件と思った?よく間違えられるんだよね、柵も塀も無いからねぇ。これだけ地続きだったら、そう見えるよねぇ」

 と言いながら、頭頂部を人差し指でポリポリ掻く。そして、「四時を廻りそうだったら、呼んで。母屋に居てるから」と言い置いて、去って行った。

 時刻を確認すると、与えられた猶予は一時間。意気込んで引越し作業に取りかかる。まずはトラックに積んだ荷物を、階段下に移動させる。その最中、嫌でもステッカーの貼られた自転車が視界に入る。その度にジワジワと新たな人間関係を意識してしまう。

 引越し早々揉めたくない。

 そう思えば思うほど、僕をクビにした生徒達の顔がちらついて、これから先が憂鬱になる。人間関係の難しさを知ってから、今まで以上に人見知りが増した。難しいのを通り越して恐怖さえ感じる。

 過去や未来を行き来しているうちに。気付けば、全ての荷物を階段下に運び終えていた。一つ目の荷物を抱え、自室のドアを開けると。室内は空っぽで新しい匂いがした。ここで残りの三年半を過ごすわけだ。感慨に浸り、部屋をぐるりと見渡すと、ベランダのガラス戸に細雨が打ち付けるのが見えた。

 慌てて一階に下りると。

 若い男が「邪魔じゃ、ボケ」と言いながら、僕の荷物を足で退けている。男の髪型は一昔前の不良を彷彿させる。金髪の襟足部分だけを長く延ばし、それを黒いヘアゴムで一つにまとめている。これが六年前(中学生時分)なら、イジメや報復を恐れ、何も言えずに引き下がっただろう。

 臆するな、僕は学校という狭い世間から解放たれたのだ。そして、社会という広い世間には『法律』という番人がいる。万が一、金髪に暴力を受けても、法を用いてなら報復できる。僕は自分を鞭打って、恐る恐る意見した。

「あのう、僕の荷物なんですけど…」

 金髪はザッとこちらを見るが、気にする様子もなく、再度、足で段ボールを退ける。金髪は撫肩で線の細い体つきをしている。色白で顔も小さく、女装が似合いそうな顔立ちだ。だが。女性のような柔らかい表情や感情は見受けられない。現に人の荷物を足で退かしているのだから、しかも所有者の目の前で。

 けれどこの第一印象よりも最たる悪は、この金髪に寮生の可能性が大いにあることだ。金髪が取り出そうとしている自転車のフェンダーには例のステッカーが貼ってある。 

 未来に絶望している僕を余所に、金髪は思いもよらぬ行動に出る。金髪は自転車のハンドルに引っ掛けていた黒い傘を大きく振り上げると、馬の背中を鞭でしごくように、僕の荷物を傘で二・三発叩いた。叩く前に、「ここに置いておく方が悪い」とか何とか言っていたけれど、あまりの出来事にハッキリとは聞き取れなかった。

 傘で叩かれた段ボールにはパソコンとスピーカーが入っている。金髪が傘を差し、自転車にまたがって去ったあとも。僕は叩かれた段ボールを見ながら、金髪に反撃している自分を思い描いた。

「もういいじゃん、気が済んだでしょ?」

 そう言わんばかりに、雨が僕の肩を叩く。気付けば雨はリズミカルに降り注ぎ、段ボールの表面が早いペースで変色していく。急ピッチで運ばなければいけないが、金髪のせいで、やる気が出ない。しびしぶ二個目の段ボールを持ち上げようとした矢先。大家さんが母屋から出てきた。

「降ってきたから手伝うよ」

 雨のせいで目を細め、険しい表情をしているが、その声からは女性特有の柔らかい感情が見受けられる。さっきの金髪とは正反対で、それが余計に金髪の悪態を思い出させる。

 大家さんなら、僕の肩を持ってくれるだろうと期待して、金髪の悪態ぶりを訴えた。

「あぁ、征二ね。アイツがやりそうなことね」

 今しがたのトラブルを、大家さんは、いとも簡単に想像できたようだった。さらには、「征二は私の親戚で、寮生だけど社会人だよ」と言う。あげく、「大垣君の隣人だよ」とも言う。

 

僕の気楽な引越しは瞬く間に頓挫した。金髪の登場で心に波風が立ち、大家さんが手伝ってくれたものの、雨に急かされ、余計に体力を消耗した。それでも休むことなく、軽トラを返しに行ったが、レンタカー店を出たところで傘を忘れたことに気づいた。

 目の前の横断歩道の信号が青に変わる。横断歩道の先にコンビニがある。けれど、不幸中の幸いとは思えない。余計な傘を買うことが運命的に決まっていたようで癪だ。また、金髪の嫌がらせが僕の判断能力に影響しているようで余計に面白くない。むしゃくしゃしながら横断歩道を渡っていると、コンビニの自動ドアが、僕を誘うようにスッーと開く。こうまでされると、ちょっと面白い。

 不本意に傘を買い、もと来た道を帰りながら、これからのことを考えた。両親と内見した際。大家さんは部屋を見せる前に、一階の食堂へと案内し、こう言った。

「私も主人も、ここでみんなと夕飯を食べているんだよ」

 だからと言って、決められた時間と場所で食事するのが絶対というわけではないだろう。刑務所じゃあるまいし。そんな所だったら、さっきの金髪が耐えられるわけない。

 寮生と鉢合わせしない時間帯を選びたいが、寮生の生活サイクルを知らないから選びようがない。自分の部屋で食べますと言うしかないのか。しかし、あの大家さんに言うのは気が重い。雨の中、荷物を運んでくれたのだから。それならば、せめて金髪と鉢合わせしないよう協力してもらおうか。否、でも金髪は大家さんの身内だ。それもまた言いにくい。

 そうこう思案している内に、寮が目前に迫る。この寮は構造上、共用廊下と各部屋の表札が通りからでもよく見える。おかげで嫌なものを目にした。三階の廊下の手すりに黒い傘が掛けてある。どこからどう見ても、あれは僕の荷物を鞭打った黒い傘に違いない。

 寮に到着するや、偵察を試みる。金髪が食堂に居ないことを願いつつ、食堂の引き戸の前に立つと、煮物の甘い匂いがする。聞き耳を立てると、中から複数の声がした。性別や人数、具体的な会話を聞き出そうと、さらに耳を押し当てると、僕の耳の横を戸が走り抜けていく。

 僕が張り付いているとも知らず、勢いよく戸を開け、外に出ようとしたために。大家さんの鼻が僕の右肩に当たった。その反動で後ろに下がった大家さんは、「わっ、びっくりした」と言って目を丸くする。

「今、呼びに行こうとしたんだよ、ちょうど良かった」

 大家さんは、僕を招き入れようと引き戸を全開にし、室内に導こうとする。靴脱ぎと室内の間には衝立がないので、戸を全開にすると余すところなく見える。

 飲食店にあるような大きなテーブルが中央に座を占め、そこに金髪がいた。金髪は右手に箸、左手に木目の茶碗を持ったまま、テレビに釘付けになっている。

 大家さんが「さぁ、入って」と誘うと、金髪はこちらに気付き、縄張りを守る動物のように鋭い目つきをする。だが、そうかと思えば急に無表情になり、空目の如く、何食わぬ顔で再びテレビを見だした。 

 金髪の向かいには僕と年の近い女の子が二人並び、同じく食事をしている。彼女達はテレビそっちのけで、僕を興味深そうに見る。しかし、そこに親しみのある会釈などはない。無遠慮に人の容姿を査定する目つきだ。ロングヘアーの方は近眼なのか、目を細め、ニワトリのように首を突き出し険しい表情をする。おかっぱ頭の方は僕を見ながら、ぷっと吹き出し、にやけた口元を手で覆った。

 今ここへ入って行っても、金髪が謝ることはないだろうし、僕は若い女の子に受け入れられるタチではない。無言で食事をしている自分の姿が目に浮かぶ。よって、「先に部屋を片付けます」と告げ、その場を去った。


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