姫星美人

的場結于

第1話 引越し


 床に転がったリモコンと横倒しになった扇風機に気付くと、母はそれらを定位置に戻した。その際、バスタオルがはだけそうになったのか、脇の間へ強引にタオルを挟み込む。僕は見苦しいのに耐え兼ねて、今すぐ衣服を羽織るよう言った。

「じゃあ、ちょっと待ってて。パジャマ着てくるから。お父さん、物に当たるのは止めてね」

 母は父の背中をポンポンと軽く叩くと、脱衣所へ戻って行った。母が体を拭かずに出てきたせいで、脱衣所と居間の間に小さな水溜りが点々と続いている。父はそれをティッシュで拭き出した。

 僕は目を瞠った。

 普段、父は家に帰って来るなり何もしない。自分がこぼした飲食物でさえ気に止めない。家の事は全て母に任せきりで、通帳や印鑑の場所はおろか、爪切りの場所さえ分からない。今だって、辺りをキョロキョロ見回していた。恐らく雑巾を探していたのだろう。それを僕に聞かず、手元にあったティッシュですましたところを見ると、父は僕と口を利きたくないのだ。 

 これは被害妄想ではない。父は頑固に見られがちだが、メディアに感化されやすい。そういうわけで、近年の父はエコロジストだ。安易にティッシュを使わない。それを、ティッシュで床を拭き出したのも、つまりは母が戻るまでの間、僕と差し向かいでいるのが気まずいのだ。なにせ僕らにとって、これが初の親子喧嘩だから。

 父が床を拭き終えたところで、母が脱衣所から戻ってきた。来年、五十路になる母はリボン柄のパジャマを着て再登場する。そして「おまたせ~」と喫茶店で待ち合わせた級友にでも言うように和んだ口調で席に着く。

 母は、僕と父の間に漂うピリピリしたものを歯牙にもかけず、初の親子喧嘩を前に、野次馬根性剥き出しでニヤニヤしている。そして「で、何がどうなってるの?」と事の次第を僕に尋ねる。

「バイトをクビになりそうだから、こずかい増やしてくれって頼んだら…怒られた」

 母に事情を説明している間も。父は仏頂面で新聞を読んでいるが、恐らく僕と母の会話が気になって仕方ないはずだ。

 母は一通り話を聞くと、「アンタも馬鹿だねぇ」と呆れる。母までも僕に追い討ちをかけるのか。そう思いきや、母の考えは少し違っていた。

「もう子供じゃないんだから、何もかも親に話さなくていいよ。話したところで喧嘩になるし。勉強に集中するためにバイトを辞めたいとか、適当に嘘ついたら良かったのに」

 僕は手を叩き、母に喝采を送った。父に真実を隠し、事実を少しばかり脚色したことに後ろめたさを感じていたので、母の言葉に救われた。また、何より。僕の言動が正当化されたようで嬉しかった。

 それにしても母の考えは大胆だ。物心ついた時分から、「親に嘘はつくな」と言われてきた僕にしてみれば、思いも寄らない発想だ。

 すっかり気をよくした僕は甘い物に食指が動いた。冷蔵庫を漁ろうと腰を上げたところで、それを制するが如く、父が言葉を発した。

「もう子供じゃないだと?生意気言うな!」

 声量こそ小さいが、その声には凄みがある。父は母ではなく、拍手をしただけの僕を睨みつけ、「親の金で飯食って、親の金で大学通う奴は充分子供だ!」と、吐き捨てるように言う。

 父の怒声に一瞬怯むが、父の言い分には黙っていられない。

「親の金、親の金って言うけど、僕は小学校からずっと公立で、塾も予備校も通わずに国立をストレートで入ったよ」

「それが、なんだ?」

「だから!こんな安上がりの息子に、そこまでヤイヤイ言うことないだろ!」

「金の問題じゃない。俺は、そんなことで怒ってない」

「金の話を持ち出したのは、オトウだろ!」

 母は両手でテーブルをバンバン叩いて、「そこまで。水掛け論になってるよ」と仲裁に入る。

 父はアイコスに手を伸ばした。ヒートスティックを装着しようとするが、激高のせいで手が小刻みに震えている。

 アイコスは副流煙ではなく水蒸気が出るだけなのだが。母はそれさえも嫌なようで、父の手元めがけて扇風機をまわす。それから僕の方に向き直って「お中元で貰った水羊羹が残ってるけど、食べる?」と聞いてくる。

 羊羹は好物だが、このときばかりは食べる気がしなかった。僕が断ると、母は「そう」と一言返すだけで、畏まって父の方へ向き直り、「でもね、お父さん」と縋るように呼びかける。

「順治の言うことも一理あるよ。よその御宅は子供にもっとお金を使ってるよ。私は、この子に感謝してるよ。育てやすい、手のかからない子だったもん」

「そんなことは分かってる」

 父はアイコスからヒートスティックを取り外し、充電する。

「順治は成績と素行が良いから、親や教師ともぶつかったことがない。小学生のときは江波町の神童って言われたくらいだ」

 母は何かを思い出したようで、「そう、そう…」と言いながら僕の方へ向き直る。顎を引き、僕に頭頂部を見せ、ある一点を指し示しながら苦情を申し立てる。

「大変だったんだよ。ママ友から妬まれて。今だから言うけど、ここに十円ハゲがあったんだから」

 と、つい最近のことを語るように熱がこもっている。

 父は母の苦労話を気にも止めず、「だから、だ」と言い、話を元に戻した。

「順風満帆で来た順治だからこそ、すぐに分かった。バイト先で何かあったって」

「それは私も気づいてたよ。口数が少ないし、寂しそうだったね…きっと生徒さんと上手くいってないんだろうなぁと思ってたけど」

「なんでそんなこと分かるの?」

 驚きと恐怖から僕の声は上ずる。頭の中で色んなことが駆け回る。

 僕はここ二年ばかり、無料配信している日記ソフトを使って、日々の出来事を連ねている。パスワード機能も搭載しているが、パスワードを自分の名前にしているので盗み見るのは容易だ。そんなことを推察すると、脇が汗ばんでくる。生徒から毛嫌いされた悲しいエピソードなど、もはや二の次だ。日記には、もっともっと親に知られたくない出来事が満載だ。通学電車で出会った桃ちゃんに関する妄想等々、恥ずかしいことだらけだ。

 狼狽する僕を見て、父は失笑する。

「そりゃ分かるよ、順治の嘘は下手くそだ。お前の言ったことが本当なら、そんな陰気な顔にならないよ」

 そこまで言われると何も反論できない。日記が読まれていなかったことには安堵したが、手に取るように自分の言動が読まれていたことが悔しい。

 ここまで攻め込まれたら、これ以上続けても、負け戦が長引くだけだ。父に謝罪し、降伏するのは御免だが、父の説教と引き換えに停戦ならしてもいい。そんな打算から、僕は父の言い分を黙って聞くことにした。

 ところが。僕が冷静になったのをいいことに、父はこれまで以上に攻撃的なことを言う。

「いっそのこと、この家を出たらどうだ?」

 あまりのことに、頭が真っ白になる。説教を飛び越え、絶縁を持ち出されるとは思いもしない。僕の口答えが余程、気に障ったのか。

 けれど。父の表情はさっきよりもずっと穏やかで、僕はもう、父が何を言いたいのかさっぱり分からない。ところが。母は合点がいったようで、「えっ、もしかして…」と驚く。

 父は頷いて、「昨日、電話があった」と答える。

 両親は僕を埒外にして、話し込む。母に至っては、僕の返答を待たずに、住むという前提で、ああだこうだ言っている。父が一人暮らしを勧めるのも然ることながら、僕が住む場所が確定していることに驚いた。

 両親は僕を東大阪に住まわせようとしている。僕と東大阪には接点が無いわけでもなかった。だからこそ、不可解なのだ。

 東大阪には母方の祖父母が住んでいる。いくら祖父宅が小ぢんまりとした集合住宅でも、僕が住まう余地はある。それどころか、年老いた両親のことを考えれば、僕がそこに居た方が母も安心なはずだ。それなのに、母は定期代のことを気にかけ、余計な出費をしてまで、僕をその寮に預けようとしている。その謂れは何なのか。僕は訳が分からず苛々した。左の口角もグイっと上がる。これは幼少からの癖で、検討もつかない問題を前にすると自然と左頬に力が入る。これは貧乏揺すりと同じことで、体の一部に力を注ぐことで苛々を発散させているのだ。

「ちょっと、僕にも分かるように説明してよ」

 母は本当に僕の存在を忘れていたようで、こちらに気付くと、驚きから手を叩いて笑う。置いてけぼりにされた息子の、むすっとした顔がよほど面白いのか。それとも。ついさっきまで言葉を交わした息子を、僅かな時間で見失うという、自身の健忘を嘲笑したのだろうか。

 母は笑うことを止め、僕に説明するが。頭は切り替わっても、頬の筋肉はヘラヘラと緩みっぱなしだ。

「東大阪に賄い付きの寮があるの。お父さんの知り合いが経営しててね。今は、お孫さんが跡を継いでるの。本当は高校卒業後に入居させたかったけど、満室だったの。空いたら連絡頂戴って頼んでたのよねぇ」

「どういう理由で、僕はそこに行くの?」

「理由なんて全くない。お前が嫌なら行かなくていい」

 父の返答は釈然としない。僕に決定権があるのなら、僕の承諾を得てから手続きをしてもよさそうなものだ。それをコソコソと、随分前から準備していたのだ。そうまでして、僕を住まわせたい寮とは一体何なのだろう。ちらっと興味は沸くが、寮生活なんてウンザリだ。僕は強い語気で断言した。

「だったら行かない。僕みたいな感受性の強い人間に寮生活なんて無理だよ。バイトだって、上手くやれてないのに…」

「順治が人間関係に苦労するタイプだってことは分かってる。だけど。お父さんは、順治の感受性が苦労の原因だとは思わない」

「僕の性格に問題があるってこと?」

「順治に問題があるとしたら、感受性が乏しいことだ。だから苦労するんだ」

「…僕って感受性が無いの?」

「無いとは言わないけど、生かされてないなぁ」

 自分が思い描いていた自分と他者から見える自分が、こうまで違うと驚きを超えて動揺してしまう。理屈っぽいのは認めるが、感受性が乏しいというのは父の誤りだ。けれど、子供の頃から寝食ともにしている親に言われたとあっては自信も揺らぐ。

 僕が押し黙っているからか、父はさっき言ったことを繰り返す。

「行ってもいいし、行かなくてもいい。これは順治が決めることだ」

 僕に決定権があるのなら答えは簡単だ。ずっと上げっ放しだった左の口角も定位置に戻る。

「やっぱり僕は…」

「これは悪い話じゃないぞ。その寮に行けば感受性も生かされる。なにより、そこに行けば、父親から説教されることもないしな」

 父は「決めるのは順治だ」と言いながらも、僕の返答を遮ってまで執拗にその寮をすすめてくる。こうまで言われると、その寮がどんなものか見てみたくなる。また、父の『感受性が生かされていない』という指摘も、それが事実であるか確かめたい。というより、事実でないとキッパリ断言してやりたい。

 僕は父に対する負けん気から、その寮に行ってみたくなった。また何より、父が言うように、『そこに行けば、親から小言を言われることもない』のだ。

 それにしても、この父の言い方は嫌味でない。悔しいくらいに、嫌味に聞こえない。僕は親の情けを感じ、己の小ささを思い知った。それなのに、否、だからこそ、素直になれず。憎たらしいことを言ってしまった。

「お金かかるけど、いいの?」

「だから、金のことでは怒ってないって言ってるだろう」

 父は目尻に皺を刻み、笑う。

「お金のことよりも、アンタのことが心配よ。周りの人と上手くやっていけたらいいけど…外国に留学させるより不安だわ」

 母はついさっきまで陽気に笑っていたのに、今はもう不安のせいで顔の筋肉が強張り、少し老けて見える。

 結果的に。母の心配は見事に的中していたのだ。

 でも、このときの僕は、父にしても母にしても大袈裟に考え過ぎだと思っていた。両親は僕をあまりにも子ども扱いしている。これでは幼稚園に入学するかのようだ。僕は大学生である意地を見せようと、「心配することなんか、なんにもないって」と豪語した。

「おお、勇ましいな、自信あるのか」

「あるよ。礼儀正しく普通にやっときゃ、何とかなるでしょ」

「まぁ、自分に疲れない程度に頑張れよ。どうしても無理なら帰って来い」

「行くからには帰らないよ。もし挫折したら、残りの学費は自分で払ってやるよ」

 父は、出来るものならやってみろとでも言うような意地悪いニュアンスで、「おおそうか。そりゃ楽しみだ」と僕を小馬鹿にしつつ、アイコスを点火する。けれど、どことなく嬉しそうで美味そうに吸っていた。


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