第4話〈駅前〉

その出来事が訪れられたのが突如すぎて、佳乃は朝食べた魚が胃から反芻されそうなえぐさすら喉の奥から湧き上がる気がした。

佳乃が今いるのは、家からそう遠くない駅の改札だ。

国語の宿題のために、鷲尾七海と二人で近所の図書館に書目を探すことになって、土曜日の朝十時駅で待ち合わせする約束をした。だけど、その鷲尾七海が現れる前に、予想外すぎる人物が先に改札をくぐり抜けて、不安そうな表情で本日のコスチュームをチラッと確認している佳乃の目線の先をさらっと通り過ぎる。

白いノースリープブラウスの上に飾り気なく羽織った黒いジャケット、太ももをすこしきわどく食い込むショートパンツ、茶色がかった派手なパーマ、傲慢に似たある種の自信に満ち溢れた顔。

  登校初日に佳乃が真似た対象、向こう側の板に背をもたれた年上の女性だ。学校が始まって以来、佳乃が毎日電車の中でこの女性のことを探そうとしていた。案の定、一度も見つけなかった。なのに、この土曜日の朝にバッタリと再会するとは、佳乃は到底予想を着かなかった。

  理不尽だ。

  と叫びだがりそうになる。

  それにしても、不思議である。この女性とはあの日以来会ってないから、自然に顔を覚えるわけがないのに、佳乃は一瞬で目の前の人は彼女であることを確信できた。

  この女性の放ったオーラに佳乃がじわじわ吸い込まれていく感覚がする。

  間違いなくあの時の女性だ、間違えるわけがない。佳乃は無意識に自分のコスチュームを再確認する。真っ白なワンピースがレフ版のように光を好きなまま反射し、目がとげとげしく感じる。足を包んでるのは、毎日校門前の坂をのぼる学校指定の靴。これはいわゆる女子高校生が週末に出かける時着そうな格好なのでしょう、と佳乃は自分自身のに疑問を持ちつつ、目の前の女性が早足で佳乃を通り越す。

「トシ」

女性はいきなり腕を振りながら叫んだ。佳乃は思わず彼女の視線の先に追い越す。その視線を沿って辿ったのは、女性よりも年上に見える青年だった。その青年に女性は、いつしか水族館のイルカショーで見た天井にぶら下がる風船を思いきり届くイルカのような勢いで飛び跳ねて、お待たせ―、と言いながら抱きついた。

それから二人がなにを話したのか、佳乃は聞いてなかった。だけど、女性の頭は首の上に生えているではなく、襟の中からくぐり出るタケノコのように見えた。

女性のハイヒールが床に叩くたび発する音が、佳乃ちゃん、と改札から聞こえる元気な声にかき消されるにつれ、二人の背中姿が遠ざかる。

鷲尾七海が改札を飛び出し、佳乃のところまで走って来た。

「お待たせ。ごめんね、家出たら財布忘れたに気付いて。。。。。。て、佳乃ちゃんなにをそんなじっと見つめてるの?」

「えっ、何でもありません。おはようございます」

佳乃は慌てて視線をどんどん小さくなっていく二人の姿から隣に来た少女に移る。

  「そう?」

  鷲尾七海が眉を顰めて佳乃の全身に目線を行き交わせる。

  「うんん、うんん」

  「あの、何か」

  「おかしい」

  「はい?」

  いきなりピンポイントを突かれた気分だ。

  「今日の佳乃ちゃん、とびっきり可愛いかも!300ポイント!ビンボン!」

  目をギラギラ輝かせながら、鷲尾七海が独特な効果音を作る。

  この「可愛い」という単語は、高校入学以来吐きそうになるぐらい聞かされまくった。鷲尾七海だけではない、周りのみんなはこの単語を挟まないと言葉が会話として成り立たないように、頻繁に口にする。

  友だちが新しく切った髪型、ウサギのストラップ、家に飼っているワンちゃんの写真、友だちの好きなアイドル、女の子から見ればとりあえずすべてが可愛い。  

  世間に流行っている新種の宗教的な儀式、あるいはビジネス場面に発生する取り引き、佳乃には、この「可愛い可愛い」の現象はそのどちらかに見えた。

  「鷲尾さんも、とても可愛いですよ。」

  「そう!?ちょっと地味じゃない?」

  鷲尾七海がスカートの裾を軽く掴みあげる。

  ちなみに鷲尾七海の今日のコーディネートといえば、麦わら帽子、白いフリルトップスにグリーンのアウター、藍と赤のチェックスカート、両あしをびっしり包む黒いタイツなどといった、佳乃から見ればすごく似合うコスチューム一色なので、今の褒め言葉は大まか本心であった。

  「そんなことありませんよ。鷲尾さんにとても似合ってます」

  「本当!?ありがとう。佳乃ちゃんに褒められて嬉しい。」

  それから二人はたわいもない会話を続きながら、図書館に到着した。駅から徒歩で十分もかからない距離だ。

  「佳乃ちゃんはどんな本が好きなの」

  私っていつから橋本さんから佳乃ちゃんになってのでしょう、という疑問を抱えながら、佳乃は何人か作者の名前を言う。

  「好き、というほどなものではないですが、夏目漱石さんは一応全部読みましたし、他にも、樋口一葉さんや、三宅花圃さん、川端康成さんなど」

  「渋っ!佳乃ちゃん、結構キツイ角度から攻めてくるね。少女マンガとかばっかり読んでると思ったけどさ、これじゃあラノベとか漫画しか読めないあたしが言いづらいじゃない。ひどいよ、佳乃ちゃん」  

  その時佳乃はものすごく恥複雑な気持ちになった。これらは全部、お父さんに強要されて読んでた本だった。内容をどれぐらい覚えているかどうかはともかく、本を読みたくなる年齢になってから、お父さんが机に見るからに古くさい本を積み上げて、毎日読む部分を決めて、夕食前の内容についての質問に正解を出せないとごはんすら食べさせてくれなかったりの日々を繰り返してきたので、読書をすること自体が最初からどちらかというと事務作業の一種に変貌したかもしれない。なので、そこから何を得たのかて問われても、佳乃が曖昧に頭を傾けることしかできない気がする。

  「でも、本当にそんな大したことじゃないです。読んだのもずいぶん前でしたし、内容も正直あまり覚えてなくて」

  「でもさぁ、内容は覚えてなくても、読んだ時なんとも感じないことは絶対にないでしょ?」

  「といいますと?」

  「ううん、難しいな。例えば、主人公に嬉しいことがあったら一緒に喜んだり、悲しいことがあったら一緒に悲しんだりとか。いや、違うな。もっとこう、内面的ていうか。ううん、難しいな。なんか、そのお偉い作家さんの精神面とか。だって、そういうすげぇ有名な作家さんなら、なんかこう、すごいところ持ってるじゃん。読者さんに、こうなんか、メッセージとか、言葉を通じて伝いたがってるていうか。要するに、本の内容を記憶するより、まずは作者さまと共感するのよ。みたいな?」

  鷲尾七海がうなじをひっかきながら、眉をひそめて必死に適切な表現を当てはめるが、そのあまりの必死っぷりに気を取られて、かつそのしゃべり方はカオスだったから、佳乃はほとんどの内容を理解できなかった。でも、言われてみれば、佳乃は思い出した。樋口一葉さんの『たけくらべ』を読み終わった時、ヒロインの美登利が主人公の信如と結ばれず、結局遊女になったことに、すこし切ない気分になった記憶はあるけど、自分はどうしてそんな気分になったのかは、佳乃は終始分からなかった。

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