第3話〈風呂場&テーブル〉
お母さんが、お湯沸いたよ、と言ったので、佳乃はお風呂に入ることにした。
佳乃は昔からお風呂に入る時間が好きだった。いつまでも入ってるのがさすがにお父さんが許してもらえないけど、佳乃がお風呂入ってる時風呂場に入ってこないし、髪の洗い方、腕の洗い方、お腹の洗い方、陰部の洗い方などについても、お父さんは一切口を出さないから、佳乃にとって数少ない自由時間の一つだった。
お風呂に入る順番はいつも、お父さん、お兄さん、佳乃だった。そして、最後に上がる佳乃には風呂場の掃除もしなければならなかった。
ちょっとでも水に浸る時間が長かったり、掃除が遅かったりした場合は、お父さんに、この役立たず、と叱られる。
その記憶をお湯で流そうとするように、佳乃は頭をまぶたまで湯気の立つお湯に浸る。
脱衣所に人が入って来る音がする。きっとお父さんです。私がお風呂に長く入りすぎてしまったから、お父さんが怒っていらっしゃたのです。
「佳乃ちゃん、着替えここに置いとくね」
聞くからに優しそうな女性の声がガラス扉越しに伝わり、湯気にまぎれて現実気味足りなく風呂場にこだます。
お父さんではありませんでした。
「はい、ありがとうございます」
「着替えたらキッチンに来てね、リンゴ買ってきたから」
「はい」
簡単なやりとりを済まして、やがて脱衣所のドアが閉まる音がし、遠ざかる足音が聞こえる。
「そうでした。もう、お父さんに」
「私のことをどう言っても構わない、だけど佳乃は私が預かる」
二ヶ月前、生まれて以来ほとんどあったことのないお母さんがお父さんにそんなことを言い放ったあと、佳乃を十年も一緒に暮らしていたお父さんのふところからほぼ強引に連れ出し、鳥取から自分の住んでいる東京のマンションに二人暮し生活を始めたのだ。
大学を無事卒業し、すでに社会人になったお兄さんは、お父さんに大して変なことをされなかったし、せっかく会社にも入ったからまた生活リズムを壊したらいけない、という二つの理由で鳥取から連れ出さなかった。
佳乃はそれまで、鳥取にしても田舎の方のまちに住んでいたため、近所のおばさんのうわさ話のネタになる以外、お父さんのポリシーになんの支障もなく従えてきた。
「お父さんのポリシー」とは、「息女を世間的な義務教育を受けさせず、優秀な大和撫子になるべく、自宅で由緒正しい日本教養を身に着ける」こと。乱暴にまとめると、「学校に行くな」、ということだった。
そのポリシーが佳乃が三歳の時に制定された以来、佳乃は学校に一切行かず、家で家庭教師に国語、英語、伝統芸道のお稽古など教えてもらっていた。
おばさんたちのうわさ話に出てくる「橋本さん家の子」になる以外、佳乃にはほとんど困ったことがなかった、かつおばさんたちともこれといった接点がなかったため、佳乃は終始自分のことをちょっと周りの同年代の子と変わっただけだと思った。
それが、都内の生活が始まって以来、自分の心境は昔とはこれほどうって変わるとはチリも予想しなかった。
コンビニに行く時、電車に乗る時、外食をする時、普通に街に出歩く時、佳乃はいつも不安でしようがなかった。レジで会計する時、あたためますか、の質問に度肝を抜かれて、どうして、てつい聞き返してしまい、そのまま店員さんと何秒間にらめっこする羽目になることすらあった。
この前も、お母さんと二人で初めて渋谷に行った。あくまで普通のコスチュームを着ていた佳乃だが、形容しがたいカラフルな衣服を羽織る女の子たちとすれ違うたび、佳乃はまるで全裸で街を歩いている気分だった。
そんな中、自分の生活はもうこれ以上大きな変動があるわけがないと思いきや、お母さんがいきなり、
「佳乃ちゃん、私の従妹の玲子さん知ってる?まぁ、知ってるわけないよね。玲子さんがね、いま都内の高校の先生をやっているの。彼女を通じて学校にも一応お願いしたので、佳乃ちゃん、四月になったら玲子さんのいる学校に入ってみない?」
と知らないおばさんのコネで高校に入ることにした。
佳乃はその時、「学校」という単語に初めて現実気味を感じたような気がした。
「はい」、としか答えなかった。ほかにどんな言葉で対応すればいいのか、佳乃には分からなかった。わかりようがなかった。
そして、今に至る。
風呂上りの佳乃がお母さんが作ってくれた少し小さめの新しいパシャマに着替えて、食欲が倍に湧き上がるほどきれいなウサギの形に切ったリンゴを食べている。
お母さんがとても器用だ、どうしてこんな器用な人がお父さんと離婚してしまったのでしょう、と佳乃に思わせるぐらいだ。
どうしてこんな器用な人が、お父さんの曰く、淫らで下品な女になってしまったのでしょう、と。
だけど、聞く勇気がない。佳乃の中にはまだ、優しい母親と下品な女とのイメージの差が生み出す一種の違和感に引っかかれて、うまく自分の母親像を描けないままである。
「学校どう?もう慣れた?」
ほっこりとした顔でリンゴを食べている佳乃を見つめているお母さんがいきなりそう聞いた。
「だいぶ慣れました」
「そう?よかった。玲子さん担任のクラスに入れてもらえたかったけど、あの子、今年二年生のクラスだしね。ちょっと心配はしたけど、大丈夫そうでよかったね。玲子さんにもあなたのクラスの担任に様子を尋ねてきてってお願いしてけど、えっと、松山先生だっけ?あなたのことを、おとなしくていい子だってほめてくれたよ」
というのは半分嘘である。松山先生が、大人しいけど全然しゃべらないから、孤立されそうで心配だね、と玲子さんに伝えた。だけど、これ以上佳乃のプレッシャーを増やしたら、きっとこの子の心はその華奢な身体と共に総崩れしてしまうから、あえて美化した言葉を伝えた。
佳乃のお母さんがなんとなくこうなると見当がついた。自分の前でも、佳乃はよく、この子ってなにを考えているだろう、と本気で悩みこんでしまうほど、浮かないような、ミステリアスな表情を見せたりする。何かに悩んでいるとか、怒っているとか、そういう表情ではない。
学校に行くことも、佳乃はきっと、クラスのみんなと仲よくなれるのか、授業の内容にちゃんとついていけるのか、そういう問題ではなく、そもそも自分がそういう問題を悩んでいいほどの人間なのか、とさらなる根源的な段階にたどり着いたことにある種の苦痛を抱いているに違いない。
だけど、佳乃のお母さんが、自分ではこの子の力になれっこない、とはっきりと自覚している。佳乃の目を見つめるたびに、その瞳の虚ろさに自分が飲みこまれてしまいそうな、そんな怖さを覚えてしまう。
もとからいうと、佳乃があんな最悪な生活を過ごしたのも自分のせいでもある。だけど、この子は決してそのことでお母さんを責めたりしない、ただひたすらに自分自身の存在について周りのすべてに問いただすような目でお母さんを見る。
それがお母さんの苦しみを増やしてしまった。本当はいっそのこと責められたほうが気楽かもしれない。
このことを思ってる時も、佳乃がずっとテーブルを見つめている。まるでリンゴを食べるのが口じゃなく眼であるように。
「お母さん」
それが娘が今夜自らから発した第一声だった。
「なに?」
「私、今週末知人とお出掛けしたいんですけれど、行かせていただいてもよろしいでしょうか?」
ちょっとウジウジとした声でしゃべる娘だが、それがお母さんにしては十年も前、娘と別居して以来初めて聞いた娘の精気のある声だった。
「うん、いいよ。行っていいよ」
娘は一瞬耳を疑うように目を見開いていたが、すぐさま普段の表情に戻り、
「ありがとうございます」
と頭を軽く下げながら言った。
気のせいなのか、その時娘のくちびるの両端がすこしつり上げたような微動を見せた。
佳乃のお母さんが思わず笑ってしまい、佳乃の頭を撫で始めた。
「どうかされました、お母さん?」
少し怪訝な口調で佳乃は聞いた。
「ううん、何でもないよ。これ食べて早く寝なさいね」
「はい」
十年ぶりに撫でる娘の髪はとてもサラサラで、触り心地がよかった。
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