第2話〈屋上〉

鷲尾七海は、とても奇妙な子だ。

  と言っても、自己紹介の時に衝撃的発言をしてメンヘラと認識されたわけでもなく、気持ち悪いキャラ弁をもってきたわけでもない。宇宙人捕獲部も成立してないし、魔法少女の格好で登校したわけでもない。

  どちらかというと、彼女は明るい、元気な女子高生にしか過ぎない。それ以上でも、以下の存在でもない。朝駅で友だちと待ち合わせして一緒に校前の坂道をのぼるし、お昼は友だちと一緒にお弁当食べるし、学校終わったら友だちと一緒に先生を愚痴りながら駅まで歩く。

  まるでフォーミュラに従って編まれた生活パターンのはずだが、佳乃にはどうもそこに違和感を感じざるを得なかった。それは、彼女の生活に、「橋本佳乃」という不協和音が混ぜ込んだからだ。

  クラス分け表を見たら、どういった奇跡か超自然現象か知らないが、佳乃は仰天的にも鷲尾七海とクラスメートになったという事実を知り、一瞬だけ失神しそうだった。

  鷲尾七海はといえば、彼女はただひたすらに、わぁ、同じクラスだね、すごいすごい、と佳乃の手を掴んでぴょんぴょんと跳ねた。ウサギか、リスの類いに似てる。

  それからだった。鷲尾七海は母カンガルーの育児袋に潜む子供カンガルーみたいに、佳乃にしがみついてしまった。

  「橋本さんってさ、電車通学でしょ」

  「そうなんですが?」

  「じゃあ、明日から誰が駅に先に着くの、競争しないか」

  なんとも不思議なことをおっしゃるのです。

  、と佳乃は思ったものの、素直に頷いてしまった。

  そして、翌日の朝、佳乃は昨日と同じ電車で登校した。車内にいる時間は、やはりまだぎこちなかった。その日、佳乃は板に靠れるではなく、つり革を掴んで立っていた。

  もしかするとまた会えると思って、佳乃は昨日見かけた年上の女性の姿を探した。彼女の姿はなかった。確率的には会えないのほうが普通だが、佳乃にはなぜか、それが自分の、その女性は年上、という推測が成り立つであるのを示す証拠のようなことだと思った。

  都心の大きい駅で一回乗り換えで乗った電車の中に、人はまばらだった。それでも、佳乃はなんだか席に座る勇気もなく、かといって立つとあえて目立つかもしれないし、電車の最後尾の隅に靠れていた。 

  「橋本さん!」    

  改札から出ると、鷲尾七海は大きく手を振りまわしながら、佳乃と佳乃の父の苗字を呼んだ。

声が大きかったせいか、出口に立つ同じ学校の制服を着る女の子のことより、真っ先に母と行ったスーパーマーケットにいた割引きや新商品情報をわめく店員さんのことが目に浮かんだ。ただいまより、橋本佳乃のタイムセールを始めます!

  佳乃は小走りで鷲尾七海のところに行った。

  「おはよう、橋本さん。私の方が早かったね。やったっ!!」

  「おはようございます。あの、これって一体どういう」

  これはいわゆる普通の女子高校生が毎日するようなことかしら。

  鷲尾七海は一瞬顔をポカンとするが、すぐ無邪気な笑顔をみせた。

  「だって昨日言ったじゃないか。駅に早く着いた方が勝つって」

  佳乃がそれを必死に思い出そうとするが、その前に左手が掴まれて、

  「早く行こう、遅刻するよ」

  と鷲尾七海が言いながら、二人は坂道を走りのぼった。

  手が掴まれたのは、これで二回目だった。

  それ以来、彼女が起こした行動は何度も佳乃をびっくりさせた。

  まず、宿題をやってこなかったりすると、佳乃に見せてもらうとねだってくる。

  佳乃は今まで家庭教師に勉強を教えてもらったので、宿題が他人に助けてもらっていいものだという概念はまずなかった。宿題をちゃんと自分一人で完成しないと、先生にも怒られるし、お父さんにもめちゃくちゃ罵られる。

  お前はなんて出来の悪い女だ。そんなんじゃただの寄生虫だ。

  と人間性まで全否定されてしまう。

けれども、鷲尾七海は学校が始まって三日目の朝、鷲尾七海は国語の授業直前に佳乃の席に小走りに来て、

「ごめん、橋本さん。私宿題するのを忘れてた。5ページ目、コピーさせてくれない」

と両手を合わせて強請ってきた。

でも、いちばん佳乃に仰天させてのは、鷲尾七海は一人で用を足せないらしい。

「橋本さん、一緒にトイレ行こう」

「えっ!?」

佳乃は一瞬耳を疑わざるを得なかった。自分がいままで父に、女人はそういう無様な一面を見せるな、生理現象に負けて女性のプライドを失うことを何よりの恥だと思え、と言われてきて、夜こっそり用を足したあと洗面台に手を洗う時鏡に自分の顔を見ることすらできないのに、この子はいとも簡単にそれを堂々と言い出せるなんて。

ひょっとして身体に不自由なところがあって、佳乃に手伝ってもらってほしいのかしら。そう考えたら一応筋を通すから、佳乃は渋々も付き合うことにした。

けれどもトイレに着いたら、鷲尾七海は佳乃をほっといてしれっと一人で個室に入って、水色のドアを隔てて佳乃と話していただけだった。

授業の内容とか、クラスメートの話とか、学校の近くにある美味しいお店とか。とにかくトイレと釣り合わない話題ばっかりだった。

佳乃はそれに癪に障れて、思いっきり個室のドアを蹴り、気持ち悪いよ、と怒鳴りながらプンプンとトイレをあとにし、以後鷲尾七海を戒めだと思って一切話さないことにしよう。

などなど、佳乃は一切しなかった。

鷲尾七海と彼女の付き添いのような自分との間に起こったこの行動の意味がどこにあるのかを、佳乃には分からなかったが、ドアの向こうにいる姿の見えない人間と話してるのがどこかミステリアスな部分があった。さらに、中にいる鷲尾七海は、今まさに自分の大事なところを空気にさらけ出しているところだ、と想像したら、それがミステリアスを通り越してスリルさへと変わり、佳乃は急に陰部からかすかに伝わってくる痛感にお腹を押さえたくなった。

こんどまたお父さんに叱られたら、なんだったらこんどあんたが小便してる時に生殖器をガン見してやるかくそジジィー、と言い返す勇気と覚悟すら湧き上がりそうだった。

そして二人は普通に教室を戻ったが、佳乃には冒険帰りのような気分だった。


「橋本さん、それ美味しそう」

鷲尾七海に連れられて屋上に昼ご飯を食べている時、彼女がいきなり弁当箱を指さして、感嘆する。鷲尾七海が指さしたのは、佳乃がお母さんに作り方を丁寧に教わってもらったパスタだ。

「お母さんと作りました」

「えっ、嘘!?手作り?絶対レトルトかと思ったよ」

と鷲尾七海はビックリしたように目を見開いた咄嗟に、箸を佳乃の弁当箱につつき、一本のパスタをつり上げて口に運ぶ。

「もーらう」

いたずらがちの口調でしゃべる鷲尾七海が、佳乃には昔絵本に読んだ妖精さんのように見えた。お父さんが読ませてくれなかったから、佳乃はいつもお兄さんの部屋に隠れて二人でこっそり読んでいた。お父さんにバレたら大目玉に食らうに違いないのに、佳乃は絵本がとても好きだった。

お姫様が動物たちと楽しく遊んでいたら、佳乃は同じくらい楽しかった。お姫様がオオカミに捕まえられた時、佳乃は怖かった。そして、お姫様が王子様よキスする時、佳乃はときめいた。でも、その中で佳乃はやはり女の子に魔法をかけたり、暗い森を照らしてくれたり、お宝の在処を教えてくれたりする

妖精さんが一番好きだった。でも、妖精さんのその華奢な身体に、お姫様が永遠に触れることができないと佳乃が感じた。だから、佳乃が妖精さんに対する感情は「好き」ていうより、一種の神秘な美を感じざるを得なかった「憧れ」に近かった。

  そして今、佳乃は目の前の子から同じ種の感覚をほのかに感じた。

  「うーんん、美味しいぃぃぃぃ」

  鷲尾七海は大袈裟に上半身を動く。

  「ね、あれしない」

  さっきまで無邪気な眼差しにいきなり殺意が光ったような気がする。

  「あれってなんですか」

  佳乃が聞く。

  「あれだよ。ほら、映画によくあるやつ。こう、パスタとか、なんならうどんとかもできるけど、フランスとかイタリアの映画だからもちろんパスタのほうがしっくりくるけど、両端をね、二人で齧って少しずつ食べるの。そしたらね、パスタがなくなった瞬間、二人はキスするの」

  「そう、ですか」

  佳乃が話の内容をちゃんと理解する前に、鷲尾七海はすでに佳乃の弁当箱からもう一本のパスタを拾い上げた。

  「ほら、そっちを口に入れて」

佳乃は言われた通りにする。そして、鷲尾七海もパスタを口に含む。

(じゃあ、行くよ)

鷲尾七海は目で指示を出すにつれ、そっと目を閉じ、パスタを一端から食い始める。佳乃も彼女をまねて、パスタを齧る。

パスタが短くなるにつれ、二人を隔てる間もみるみるに縮める。

顔がモゾモゾし始める。佳乃はほっぺを掻きたくなるが、そうしたら両腕に支えられてる身体がバランスを崩して倒れそうだからしなかった。

「キス」という単語の響きが、佳乃の中に強くこだます。

そのことを口にするだけでも、佳乃にはスリルすぎるのに、この子の口からそれが出てくると、春風がほっぺをすこし掠れた感覚だった。けれども擦れたところに、薄々と微熱が伝わり、それだけで佳乃が溶けそうだ。

やがて、二人の鼻先がタッチする。残ったパスタのみじめな短さに、佳乃はもうこれぽっちも気にかからなくなる。

あと少し、あと少しで、自分が、行っちゃいそう。

パシャッ、という音を立てずに、パスタがなんの前触れもなく切れる。支えを失ったパスタがひらりと片方の端が落ち、佳乃の下くちびるに当たる。

佳乃は突如の襲いに目を見開く。

鷲尾七海が、パスタを断ち切った。

呆然としてる佳乃を気にせず、鷲尾七海が自分のくちびるを人差し指で軽く拭う。

「ごちそうさま」

それは、佳乃が今まで見たことのない、妖気が込めた笑顔だった。今ここで、彼女のために身が砕け散っても構わないと思った。

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