第三話

 夏休みというのは儚いもので、別に自分の高校でもない高校野球を眺めたり、適当にごろごろしてそのまま寝たりしていれば一週間なんて一瞬のように感じる。

 宿題は机の上に出して置いておけば勝手に終わるはずだと思って早二週間。未だに二ページしか終わっていない夏の問題集をちらっと見て、すぐに目をそらした。夏休みは一ヶ月残ってるもんね。

「お兄ちゃん起きたー?」

 外から真希の眠そうな声が聞こえてくる。

家族で住んでいた時代には狭く感じられた三LDKの家が、二人だと大きすぎる。兄弟それぞれに部屋を割り振っても一部屋余るし、その部屋を使うほど物もあるわけではない。

 閉じた扉の奥から焦げたパンの臭いが飛んでくる。やっぱりパンはちょっと焦げたくらいがちょうどいい。

「お兄ちゃーん? 入るよー?」

「あー、起きてる起きてる。今行くから」

「はーい」

 親が世界を飛び回る前に買ったベッドからむっくり起き上がる。一日中眠いのどうにかならないかな。

「お兄ちゃんおはよー」

 良くできた妹はハムエッグをテーブルに並べて待っていた。

「いただきます」

 同時にテレビをつける。

「今日晴れかー」

「ねー。もう暑すぎて訳がわからないよ」

 食パンを頬張る真希。確かにここ最近の太陽は全力を出しすぎているような気もする。気温は28度までとかいう法律できねーかな。たぶんできねーよな。

 夏休みなのに朝七時から起きているのには理由がある。それは――

 ピンポーン。

「あいつ、もう来たよー。まだ七時半じゃねえか」

 ここ数日、俺の夏休みをコンスタントに奪っていく存在。

「はーい」

 オープンザドア。

「あれ、今日はあんたなの?」

「真希は今朝食で手一杯だよ。何時だと思ってんだ」

「早起きは三文の徳よ」

「程度があんだろ」

 朝っぱらから外は蒸し暑く、一分たつかたたないかくらいしか外に出ていないのに既に汗ばんできた。

「……まあしょうがないから入れよ」

「はーい」

 先に一二三を通してからドアを閉める。鍵を一個かけ、靴を揃えて部屋に戻る。

「おはようございます」

「おはよー」

 まるで自分の家に帰ってきたような態度でリビングに腰を下ろす。半袖Tシャツには「HIHUMI」と筆記体のような文字で描かれていて、その下にサインのようなものが入っている。

「それ、何の服なんだ?」

 なんかすごい気になったのでたまらず問う。

「これ? これは今やってる社会人野球の応援の服よ。創部十年目にして初めて東京ドームへの切符を掴みとったから社員全員に配られたの」

 果たしてお前は社員なのか?

「なんかデザインもいいし、選手のサインももらっちゃったし、気にする人もいないからいいやと思って着てきちゃったんだけど気になる?」

「だってそれ普通の洋服のデザインじゃないし。なんかのイベントTシャツとかかなと思ったんだけどまさか自社製品だとは思わなかった」

 ここまで親の会社のファンだという子供はいないだろう。自分の会社の社会人野球なんて社員でも気にしない人がいるはずなのに、そんな中街をこれ着て歩くなんてされたらお父さん歓喜だろうね。

「お兄ちゃんパン食べない?」

「ん? ああまだ途中だったか。悪い、少し食わしてくれ」

「ん」

 来客がいながら今から朝食という状況はそうそうないぞ。七時台にお嬢様を家に迎え入れることなんてもうしたくないし、今度の大会が終わったらまたいつもの通りにお互いに干渉しあわない平凡な日常が戻ってくるだろう。夏休みはそこからだ。

「ごちそうさま」

 しかし、そうは思ってもお客さんを待たせているのは確かなので、真希には申し訳ないがさっさと食べきってしまう。

「あ、終わった?」

「おう、ごめんな」

「早く来すぎたかな」

「それはある」

 本当はこんな朝早くからエアコンをつけたくはなかったが、もう仕方ない。電気代があ……

「でも、今日早く来たのには理由があるの」

 一二三はそう言うと俺の向かいの席に座った。仕事の早い真希はすぐに机を拭いて麦茶を準備している。

「大会の日時教えてたっけ」

「いや」

「そうだよね」

「そう。来週とかそういう感じで漠然としか聞いてないけど」

 確かに、そろそろだなー、という感じでしか考えてなかった。

「大会はね、明日です」

「明日ぁ⁉」

「うるさいんだけど」

 お前のせいだよ。突然明日とか言われたらそりゃこうなるでしょ。

「明日、一日で最大四試合を戦います。つまり出場チームは16。一回戦の組み合わせはもう決まってるわ」

「一回戦の相手は?」

「江川製薬」

「江川製薬?」

「分かりやすく言うとポカリエットを販売している会社よ」

「なるほど」

 江川製薬と言われればわからないが、ポカリエと聞けば誰でもわかる。CMにも大物俳優を起用しているが、飲料界隈ではポカリエくらいしか聞いたことがない。

「二回戦からは残ったチーム全体でいちいち抽選するわ。だから二回戦の相手は全くわからない。とりあえず今は一回戦に集中することにしましょ」

 本当に真面目に一連の流れを語った一二三。やっぱりこの大会にかけるものは大きいようだ。

「会場は関内スタジアム。一回戦は午前十時開始。私たちはバックネット裏に九時に集合よ」

「関内スタジアムでやるのかよ」

 関内スタジアムと言えばプロ野球チームも使う野球場だ。確かに人工芝の部屋で練習してきたけど、まさかこんなところでやるとは思わなかった。

「今日はとりあえず軽い調整と、明日の準備で終わるわ。あくふれは?」

「まだ寝てんじゃね?」

「そう。なら待つわ」

 一二三はそう言うと机に突っ伏した。なんだよお前も眠かったんじゃねえか。もっと遅い時間に来てくれてもよかったんですよ?

「…………」

 真希は奥に引っ込んでしまったのかいない。片づけるものもないし、あくふれが起き上がってくるまですることがない。

 目の前で突っ伏すお嬢様は、もう静かな寝息をたてている。そんなに眠かったのか。家で寝ててもよかったのに。

 でも、そんな中来てくれたっていうのも、またこいつのらしさでもあるんだけど。

 やはり聞く気もない朝のニュースを右から左へ受け流す。また誰かが不倫騒動を巻き起こしたようだ。そんなに人の揚げ足とって何が面白いんだって思う反面、そんなニュースばっかりやるあたり今のところ平和だってことなんだろうとも思う。

 かつて、野球のことを、「これほど平和で滑稽な戦争はない」と言った人がいるらしいが、この水鉄砲もその一つだろう。このお嬢様も、例え会社を背負っているとはいえ、少なからず楽しんでいるはずだ。じゃなかったらこんなに早くうちには来ない。

「吉永さん、おはようございます」

 と、そこに後ろからあくふれ。眠そうな表情をしている。一体どういう状態なんだろう。機械で眠いって。

「…………一二三さんは?」

「あ、なんか一通り喋ったら寝た」

「何しに来たんです?」

「さあ?」

「さあって…………まあいいです」

 あくふれには真希のパジャマを貸しているのだが、こんなワンピースあっただろうか。純白で涼しそうなワンピースがぴったり似合ったあくふれは、俺の隣に座ると、

「どうしてさっきまで一二三さんの方ばっかり見てたんです?」

「えっ」

 下心がなさそうに言うあくふれ。その表情の純粋さは機械だからなのかそれとも本心なのか。

「別に意識はしてなかったんだけど……」

 そんなあくふれの前に、俺は嘘を言う気はなかった。

「単純に、こいつすげーな、って思っただけだよ。会社のことには真摯に向き合うし、そのためには早起きをしてでも外に出るし、会社のシャツまで着てきちゃうし、その心は本当にすごいと思うよ」

「そうですか……」

 あくふれは机に突っ伏している一二三を見る。

「確かに、すごいですよね」

 それは、明らかに本心だった。機械だからの表情ではない、まっすぐな眼差し。

「だから、俺もできる限り力を貸してやりたい。ここまで来ちゃったら、もうやるしかないだろ」

「そうですか」

「ああ、お前と、優勝してやるからな」

 突然の勝利宣言に、あくふれは少々戸惑ったようだが、やがていつもの笑顔に戻って、

「はい」

とだけ返してきた。

 多分、最初はそんなことは思わなかったと思う。突然現れた奇妙な存在と会社の未来をかけて戦うことになることそれ自体も予想外だったが、何より一二三のために動いてやろうと思うことが予想外。

 でも、なんだかそれでもいいような気がしてきた。

「ふふふ、聞いちゃいましたー」

 が、ここで別の角度から声が。

「お、起きてたのかよ」

 その声の主は、さっきまで夢の中だった一二三。

「いつから聞いてた……?」

「『ここまで来ちゃったら、もうやるしかないだろ』から」

「結構最初じゃねえか!」

 ずっと寝ていたと思っていたお嬢様の右手には携帯が握られていた。まさか――

「言質とっちゃったてへぺろ」

「だからお前は企業スパイか!」

 てへっ。舌を出す一二三は照れたように携帯を前に突き出してくる。そこからはやはり俺の声でその言葉が聞こえてきたし、その後ろにある顔はほんのり赤くなっていた。

「やってくれるんだね」

「お、おう……言っちゃったし」

「そうよ。それに……………………ほめられちゃったし」

「何?」

「なんでもないっ!」

 一二三は大きな声でそう言うと、携帯を鞄に入れて椅子を立った。

「行くよ!」

 一二三の声はもう少しで裏返りそうだった。それだけ一二三も緊張しているということだろう。さすが。

「おーい、真希、行くぞー」

 どこにいるかもわからない真希を呼ぶ。洗面所の扉を開くと、その中にいた。髪型を整えているようだ。

「行くってさ」

「んー」

 セミロングの髪をまとめ終わって、最後パチンとピンをはめてこちらを振り向く。

「どう?」

「いいんじゃね」

「どこが? どんな風に?」

「えーと……か、かわいいよ」

「どこがー?」

 どこがと言われても。

「もー…………お兄ちゃんの鈍感」

「な、なんだよ」

 先に口を尖らせたのは真希だった。

「一二三さんと、頑張んなよ」

 真希はぽんぽんと俺の肩を叩いてくる。どういうテンションなのこの人。

「さ、明日が本番よ! 今日しっかりまとめていきましょう!」

「おー!」

「頑張ります」

「おう」

 四人バラバラのテンションだが、目指す方向はひとつ。

 そんな四人が、玄関を通る。

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