第一話:はやく行ってやっつけてこい、二号


 ……さて、これは一体どういう状況なんだ?

 まずここはどこだ。ベッドの上だ。それも病院や保健室にあるようなやつ。気がついたらここだった。いままで僕はここで寝ていたらしい。

 周りは白いカーテンで遮られている。枕元にはナースコールと思われるボタンがある。子供の頃、ジャングルジムから飛び降りて骨折して入院した時に見た事があるから間違い無い。つまりここは、多分病院ってわけだな。

 そして【九里 歩】と書かれたネームプレートがある。これは【くり あゆむ】と読む。あまり格好よくはないが、僕の名前だ。つまりここは僕に割り当てられたベッドだな。ありがたい。

 問題は、なぜ僕が病院のベッドで寝ていたのかだ。病院なんかに来た記憶は無いぞ。いつ運ばれて来たんだ?

 酷く頭が痛む……額に手をやると布の感触があった。頭に包帯が巻かれている。僕は頭を怪我したのだろうか。頭……頭だ。そうだ、思い出してきたぞ!

 あの時、だいたい二十時頃だっただろうか。多分それくらいだ。僕はコンビニからの帰り道でご機嫌だった。

 良い事があった日と嫌な事があった日はコンビニで無駄遣いする事にしている。この時は、応援しているアイドルの写真集の発売が決まったものだから無駄遣いしてもいい日にしたのだ。とにかく、その帰り道だった……はずだ。

 コンビニから僕の住むボロアパートまでの道には、寂れた小さな神社がある。

 最近この町の住民が増えたおかげで整ってきた住宅街の、小綺麗な家だらけの中にポツンとあるから妙な感じの神社だ。

 雑草だらけの狭い敷地に、適当な丸太を組み合わせて作ったような古くて頼りない鳥居と、廃墟と言ってもいいほどボロボロの社。あと枯れかけで、たまに藁人形が五寸釘で打ち付けられている可哀想なご神木もある。管理している人間がいるのか疑わしい、酷く寂れた小さな神社だ。

 そう、それでそこの前を通りかかった時だ。何かが神社で動いた気配を感じた。暗かったし特に物音もなかったけど、強烈な【何かいる気配】だった。直感的に、それは何かすごく嫌なモノな予感がした。よせばいいのにどうしても気になって神社の方を見ると、暗い中で、ご神木の近くに何かがゆらゆら揺れながら立っているのが見えた。

 そしてその何かは、明らかに人間のシルエットではなかった。

 小柄な大人ほどの背丈の高さの【何か】は、異常な程細く長い足が2本。玉子状の小さな胴体には頭部のような部分は無く、そしてやはり木の枝のように細長い腕が、左に一本だけ生えていた。

「ひ……ひぃ……」

 喉から情けない声が出て、生まれて初めて腰が抜けた。

 そしてその僕の情けない声を聞いたらしい【何か】は、不気味にゆらゆらと揺れながら、音も無くこちらへ歩いてきた。

 ゆらゆら、ゆらゆらと近づいてくる。街灯に照らされてようやくわかったが、夜の闇で真っ黒に見えていたのではなく、その【何か】そのものが真っ黒い色をしていた。

 ゴキブリやデカい虫を見た時のような、生理的な嫌悪感と未知の何かへの恐怖がこみ上げてきた。

 こいつが一体何なのかわからないが、もうあと数歩で僕の所に辿り着く。そうしたらどうなるのか、検討もつかないが、きっと恐ろしい事になる気がした。

 そしてその時だ。


「ハーッハッハッハッハ! もう大丈夫だ、俺が助けに来たぞ! さあ怪物め、その人から離れろ!」


 ……おかしい。自分の記憶ながら疑わしい、そんなわけがあるかよ! オバケだか怪物だかが現れて、助けに来たヒーロー気取りの男に殴られた……僕がだ。そして気を失って目が覚めたら病院にいた、と。

 そんなわけがあるかよ!

 どこかで転んで頭を強打して、夢と記憶が混濁してしまっているのだろうか。そう考えた方がまだ説明がつくぞ。

 だとすると、僕の脳は無事なんだろうか。見てもらった方が……そうだよ、なんで僕がここにいるのか、ここの人の話を聞けば良いじゃないか! 人を呼びに行こう。

 そう思った瞬間、ベッドを囲んでいるカーテンが外から勢い良く開かれた。

「きっ、気がつきましたね。ヒヒュッ」



 カーテンを開いて入って来たその女は、少し気味が悪い引き笑いが特徴的だった。

 漫画で科学者が着ているような、染みだらけの白衣を羽織っている。病院の人なのだろうか。顔には大きめのセルフレームの眼鏡をかけており、寝不足なのか目には隈ができている。酷い猫背で、髪は伸び放題のほったらかしボサボサ頭だ。そしてなぜかニヤニヤとした笑みを浮かべている。

 化粧っ気がないわりに顔は整っていて、どちらかと言えば美人だが、全体的に形容しがたい気持ち悪さがある。第一、病院に相応しい清潔感が感じられない。

 何を言うべきか考えていると先に白衣女が口を開いた。

「どうも。ええと、ひ、日々子と言います。九里さん。勝手に財布の中の免許証見てすみません。ヒヒュッ、原付のみなんですね」見た目通りの、笑を含んだ少し気持ち悪い喋り方だった。

 なるほど、それでベッドのネームプレートに名前があったわけか。いきなり免許を馬鹿にされた気がしたが、手当してくれたのはこの人なんだろうか。

 ……気になる事は色々あるが、今知りたいのはこの状況についてだ。

「どうも、九里です。あの、僕はなぜここにいるんですかね。いつ運ばれて来たんです?実はちょっと記憶が怪しくて。頭も怪我してるし」

「あー……だっ、大丈夫でしたか? 殴られたんでしょう? ヒッヒュッ」

 白衣女は言葉こそ心配しているものの、とてもそうは見えないニヤニヤ顔で答えた。

 ……殴られた。と言う事は、残念ながら僕の記憶は正しかったということなんだろうか。化け物、ヒーローきどり、殴られた……あれが事実?

 とりあえず、記憶に異常がなかった事を喜ぼう。ポジティブは大事だよな。自分に言い聞かせていると、さらに白衣女は話を続けた。

「ヒッヒヒュッ、でも運が良いですよ九里さん。あの、あの黒いのは黒いののなかでも多分、とっ、特に危ないやつだった。一号と一緒にどこかに行っちゃったけど。ヒッ。あなたは倒れてたから、その後通りかかった人が、救急車呼んだ。あなたが運ばれてからだいたい、五時間」

「通りかかった人が……それで僕は病院に」

「そうでヒュ」

 ……なんだか会話に違和感を感じる。そう、まるでこの白衣女は見ていたような口ぶりじゃないか。黒いのとか一号ってのはなんだ?

 そもそも、この人は本当にこの病院の人なんだろうか、白衣になんとなく騙されていたけれど、見れば見る程おかしい気がしてくる。この病院の人じゃないとして、救急車を呼んだのも別にこの人じゃない、通りかかった他の人だ。じゃあ、この人はなんなんだ?

 その時病室の扉がノックされた。さっきまでニヤニヤしていた女の顔が急に青くなった。冷や汗まで流している。意外とわかりやすいやつだ。

「九里さーん、具合はどうですかー? あら、その人は?」と、病室へと入って来た清潔感にあふれた白衣の看護師。「その人は?」だと? 間違い無い、こいつは病院の人間でもなんでもない。あの黒い化け物みたいなやつか、僕を殴ったヒーロー気取りの変なやつに関係した、変なやつだ!

「あっ! あっ、あの怪しい者じゃなくってですねヒヒッ、あの、九里さんの……」

 白衣の変なやつが慌てて弁解を始めた。僕の知り合いだとでも言うつもりだろうか。

「いえ、知らない人です」白衣女が言い終わる前に言ってやった

 日々子と名乗った変なやつの顔が固まった。これでいい、変なやつは怖いから追い出してもらうのが一番だ。

「え? と、とりあえず出て行ってもらえますか? 面会時間でもないですし……」

「え、あっ、あいえ、ちょっと九里さんに用事があるので、ヒュッ、用事が……」

「用事って……今何時だと思ってるんですか! 人を呼びますよ!」

 そう言うと看護師はどこかへ走って行った。いいぞいいぞ、警備員でも誰でもいいからこの変なやつを追い出してくれ。

 変なやつは、どうしたらいいのかすっかりわからなくなっているようで慌てふためいていた。人の病室に侵入する度胸はあるくせに。

 だが残念ながらその後やってきたのは変なやつをつまみ出す警備員ではなく、もっと嫌なモノだった。



「キャアアアアアアアアアア!」

 廊下から尋常じゃない悲鳴が聞こえてきた、さっきの看護師の声だ! 変なやつはさっきまでの引きつった顔とは違った、険しい顔をしている。

 何事だろうか。ただゴキブリが横切ったとかであってくれ! 大人しくベッドでこのまま警備員がくるのを待っていればいいものを、ついベッドから降りてしまった。ダメだ、気になる。何があったんだ。僕はそっと病室のドアを開けて、廊下を覗き込んだ。

 そこには腰を抜かして震えているさっきの看護師と、その前に立っている、黒い【何か】がいた。

「ひ……ひぃ……」

 喉から情けない声が漏れた。だが今度はどうにか腰を抜かさずにすんだ。そしてすかさず病室のドアを閉めた。

「ヒッ、い、いたのか? 黒いの」

 いつの間にか背後にさっきの変なやつがいた。名前は、確か日々子だったか。その顔は少し落ち着きを取り戻している。

「……いた。なっ、なんなんだよあれ! あの人が!」

「黒いの、どんなだった? あなたが神社で、見たやつと同じ?」

「どんなって……わからない、一瞬だったから……」

「ヒュッ、チキンめ……」

 日々子は耳を疑うような台詞を吐いて、自ら病室のドアを開けて廊下を覗いた。

「あー、小さいな。可愛い方だ。あっ、あれくらいなら、初めてのチキンでも、なんとかなるな。ヒヒュッ……」

 廊下の様子を覗きながら、日々子がなにやらブツブツ言っている。そして戻って来たかと思うと、小汚い白衣のポケットからどこかで見た覚えのある、やけに派手でダサい腕時計を取り出して、言った。

「ヒッ、左腕につけて」

 その派手でダサい腕時計は、安っぽい材質の黒いベルトで、直径五センチメートルはあろうかという大きな黒い文字盤にはオレンジ色で派手なデザインの数字が書かれている。二本の大げさなサイズの白い針はデタラメな時間を示し、そして何よりもダサいのは、その文字盤に埋め込まれて点滅している赤、青、緑の三色のLEDランプだった。

「これっ! あいつがつけてたやつ! 派手でダサい……」

 僕が思わず叫びかけると、日々子はもの凄い形相で怒りだした。

「ダサくねぇー! カカカカカッコいいわ! いいからつけろよ! ろっ、廊下のナースが食べられちまうぞ! あの黒いのに!」

「は、はい……」

 そのへっぽこながらも勢いのある怒声に気圧されて、僕は言われるがままにその派手でダサい腕時計をつけてしまった。大きさのわりに軽く、不気味な程ひんやりしている。

 そして日々子の表情が最初に見た時のような、不気味なニヤニヤ顔に戻った事に気がついた。多分僕は、取り返しがつかない事をしたのだろう。

 日々子は深く深呼吸をしたあと、廊下まで聞こえるような大声でわざとらしく叫び始めた。

「あー! あー! 薄情だなぁー! 九里は薄情チキンだなぁー! 看護してくれたナースが得体の知れない怪物に襲われてるってのに! ちょっと覗いて腰を抜かしてすぐ引っ込んで最低だなぁー! 薄情チキンのせいでー! しかもこの薄情チキン逃げる気だ! あんまりだなー! あんなブスどうでもいいだって!」

 あまりにも突然の出来事で呆気にとられてしまった。日々子は身振り手振りまでつけて有る事無い事混ぜながら僕を罵倒している。一体なんだというんだ。

「何を言いだすんだよ! それどころじゃないだろ!」

 我にかえり言い返す。確かにビビって扉を閉めたけど、逃げようなんてしていないぞ! あとブスなんて一言も言ってない、冤罪だ!

「うるさい! ヒュッ、きたきたきた!」

 突然、左腕につけた派手でダサい腕時計の赤いランプが激しく発光を始めた。なんだこれは、これでどうなると言うんだ。僕が戸惑っていると日々子は唐突な僕へのなじりを再開した。今度は直接僕に向かってだ。

「ヒヒュッ、お前。いっ、今の言い返せる? 無理だよね、実際、ちらっと見ただけでドアすぐ閉めちゃって、黒いのすらよく見てなかったし。普通女の人が襲われてたら助けるだろ! 今どうなってるかな、あの人、あなたがすぐ助けなかったせいで」

 今度は何を言いだすんだこいつは。今責任の話をしている場合か? どう考えてもそんな場合じゃないが、僕は何も言い返せなかった。こいつの言う通り、廊下ではさっきの看護師が今どんな目に合っているのか見当もつかない。

 あの黒い化け物に襲われた人がどうなるのかわからないが、自分が神社の前で襲われたときの嫌悪感、恐怖がフラッシュバックする。あの黒いのに襲われたら……きっと良くないことになる。

「ヒヒヒュッ、きたきた……素直だなぁ!」

 赤に続き、腕時計の青のランプが激しく発光を始めた。何が起こっているんだ、これで僕にどうしろと言うんだ!

「どうすればいいんだ……」

 思わず考えていた事が口に出た。

「こうするのさ、ヒッヒヒュ……」

 引き笑いで過呼吸のようになっている日々子が僕の左腕を掴み、派手でダサい腕時計のリューズを押し込みながら叫んだ。

「装甲展開!」

 腕時計の残された緑のランプが発光するのとほぼ同時に、左腕が消えてしまったかのような錯覚を覚えた。しかし左腕は確かにそこにある、左腕の感覚が消えたのだ。

 左腕が、時計から広がって行く白い装甲のような物でみるみる覆われて行く。僕が恐怖の声をあげる暇も無く、装甲はベキベキと音を立てながら左腕から体へ、足へ、右腕へ、そして頭へと侵蝕するかのように広がる。全身を覆いながら、全身の感覚を奪って行く。

 全身が包まれた直後、頭上で炎が燃え上がる音がした。それと同時に、一気に全身に感覚が戻った。そればかりか、全身に力がみなぎっている。しかしそれは快いとは言いがたく、全身に鳥肌がたつような、ゾクゾクするような、酷く不快な感覚だった。

 手足を見るとやはり白い装甲で包まれている。まるで特撮ヒーローのスーツのようだ。

「なんだこれ……」

「ヒッヒヒュッ! 二号の人体実験! 成功! ヒーッ!」

「人体実験? なんだよこれ!」

 全身に得体が知れない力が巡っているのを感じる。指や手足を少し動かすだけでも、まるで見えない何かに動きを手伝ってもらっているかのような、不思議な感覚に陥る。僕はどうなってしまったんだ?

「ヒヒッ、えーと、アレだ。お前はヒーローになったんだ。悪の黒いのをやっつける」

「すごく気持ち悪いぞ大丈夫なのかこれ!」

「ああもう、自分の心配ばっかだな九里は。たっ、多分人体に害はないから。それより早くあの人を助けてこいよ。ヒーローなんだから」

 あの人? そうだ廊下だ!

「ヒーロー……? なんだかわからないけど、これであいつを追っ払えるって事で良いんだよな!?」

「え? そっ、そう! その姿なら薄情チキンでも黒いのに勝てると思う。実戦テストだ! 行け!」

 結局よくわからないまま雰囲気に飲まれてしまった。この白衣女の言っている事はあまり信用できないが、今僕にはもの凄い力があることだけは感覚でわかる。この不快な力は僕の味方であると信じるしかない! 女の人が得体の知れない化け物に襲われていたら、助けろ!

 勢いよく廊下に飛び出した僕は、その凄惨な光景を目の当たりにし、再びすぐに病室に戻って来た。なんなんだアレは。

「ど、どうした二号」

 二号とは僕の事だろうか。

「黒いやつが、その、倒れてる看護師さんを、その……」

「その?」

「舐め回してた」

「あ?」

 廊下で見た黒いやつは、思ったよりずっと小さかった。子供程のサイズだ。よく見れば形も神社で見たやつとは異なっていた。

 真っ黒なそいつは異常に細長い足四本で看護師さんの上に覆い被さるように乗っており、球に近い形状の胴体は中程でパックリと割れ、中からぬらぬらと光る真っ赤な舌のような器官を出して看護師さんの全身を舐め回していた。

 看護師さんはすでに気絶していた。多分気絶だ。

 飽きれたような顔で日々子が睨んでいる。しかたないだろ、あんなのいきなり見せられたらショックに決まってるだろ。予想できるかよ。

「ヒッ、た、食べられたりしてたわけじゃないんなら、多分大丈夫だから」

「大丈夫だから……?」

「はやく行ってやっつけてこい、二号」



 日々子から装甲越しに尻を蹴られた僕は再び廊下へ飛び出した。

 黒いやつはこっちを気にも留めない様子で、気絶した看護師さんを舐め回している。日々子は後ろで僕の尻を蹴った足を痛そうに抱えてうずくまっている。この装甲のようなものは少なくとも女の子のキック程度には耐えられるらしい。

「よしっ!」

 今助けてやる! 黒いやつの方へ駆け出す。全身に満ちた不快な力のおかげで、一瞬で辿り着く。足が軽い、凄いスピードだ。僕は本当にスーパーヒーローに変身したのか!

「ひぃぃぃぃやぁぁぁぁぁ!」

 そのまま勢いに任せて、黒いやつを殴った。

 我ながら情けないかけ声だ。こんな何かを殴るような経験自体初めてなんだ。それも得体が知れない怪物相手。「ひゃー」しか出ない。

 そして僕のひゃーパンチを食らった怪物は見事に吹き飛ばされてゴロゴロと廊下を転がって行った。拳にも確かな手応えを感じる。

 転がって行った怪物は急に四本足で立ち上がり、こちらを睨んだ。正確にはそいつには目のようなものがなかったので、僕が勝手に睨まれた気がしただけだが。

 しかし僕は怯まなかった。全身の謎の装甲と、この不快で強力な力。それと破れかぶれのパンチが思いのほか綺麗に決まったお陰で、僕には妙な自信のようなものが芽生えていた。なんだかわからないが、多分いけるぞ! 僕はヒーローに変身したんだ!

「あいつをなんとかしてくるから、お前はこの人を!」

 日々子に向かって叫ぶ。まるでヒーローのような台詞じゃないか。不謹慎だが、僕は今、この状況にワクワクしていた。謎の女が現れて、謎の怪物の出現、謎の力と謎のスーツ。まるで子供の頃見ていたヒーロー番組じゃないか! 全身のゾクゾクする不快な感覚にも、体がだんだん慣れてきた!

「い、いいけどあんまりそれテストしてないから。ちょっ、調子にのるなよ。ヒヒュッ」

「わかった!」

 本当は何もわかっていなかったが、謎の力による全能感に背中を押されるようにして、僕は再び黒いやつの方へ走り出した。

 黒いやつの胴体が開き、ジュルジュルと湿った音をたてながら真っ赤な舌が出てくる。どうすればいい? 戦い方なんてわからない。とりあえず、何か攻撃だ!

「うりゃっ!」

 再び助走をつけたパンチを繰り出した。しかしそこに黒いやつの姿は無い。綺麗に避けられてしまった。

 そりゃそうだよな、さっき当たったのは不意打ち。くるとわかっている真っ正面からの攻撃は、そりゃ避けられるよな。そして避けた後はどうする。そりゃ、反撃してくるよな。

「うっ、うげっ!」

 僕の思考がそこまで至った時にはすでに、僕の首に黒いやつの長い舌がきつく巻き付いていた。

 幸い、僕の全身を覆っている装甲はそこそこ硬いらしく、喉が潰されるような事は無かった。だがしかし、この舌攻撃の恐ろしいところは巻き付いたその後だった。

「ああああああっっつい!」

 巻き付いた舌が急に高熱を帯び始めたのだ。息が苦しい。看護師さんに火傷の痕が無かったところを見ると、攻撃手段として自由に熱を出せるのだろうか。

 咄嗟に振り払おうと舌を掴む。

「ああああああっっつい!」

 熱い。さわれたもんじゃない。ヒーロースーツなら熱くらい耐えてくれよ! この装甲はそこそこの強度はあるようだが、熱に対しては鍋摑み以下のようだ。首元が熱い、このままではマズいぞ、良くない。死ぬ。

「……なるほど。熱伝導率は高いのか。ヒヒュッ、受け取れっ!」

 看護師さんを病室へと引きずっていった日々子が小走りで廊下へと戻って来て、僕の方に何かを投げた。

「危なっ!」

 首に巻き付いた舌に引っ張られてよろめきながらも咄嗟に身をかわし、床に突き刺さったそれを見る。……十徳ナイフだ。こんなもの持ち歩いてるのかこいつ。

「危ないだろ! 刃を閉まってから投げればいいだろっ……あつっ!」

 抗議しながらそれを拾おうとするも、黒いやつの舌に引っ張られて思うように取りに行けない。マズいぞ。良くない。死ぬ。

「ヒヒュッ、情けないやつめ。セイッ」

 日々子のあんまりな台詞が聞こえた直後、僕は背後から引っ張っていた舌の緊張から急に開放され、前へつんのめるように倒れた。

 日々子が黒いやつを背後から蹴っ飛ばしたらしい。

 すかさず十徳ナイフを拾い上げて立ち上がる。黒いやつはまだ倒れたままだ! 首に巻き付いている舌をナイフで切断し、払い落とす。首が熱から開放された。

「助かった。死ぬかと思った……ウゲェッ、なんだこいつ……」

 払い落とした舌の先は床に落ちると、しばらくのたうち回った後で黒い煙をあげながら蒸発するように消えてしまった。酷く気味が悪い。

 黒いやつの胴体から伸びている舌の切断面からも黒い煙が噴き出している。何なんだこいつは。生理的な嫌悪感がこみ上げてくる。しかし、これでこいつの倒し方がわかった気がする。細切れにして、全身蒸発させてやれば消えてなくなるんじゃないか!

「よしっ、バラバラにしてやるぜ!」

 無意識に口に出して物騒な事を言っていた。それを聞いてか、黒いやつは急に立ち上がると舌を胴体にひっこめ、四本の足をフルに使ってジャンプして廊下の窓に体当たりした。

 ガラスが外側へ飛び散る。黒いやつも外へ飛び出る。逃げるつもりか!

「待てっ!」

 勇ましく叫びながら、黒いやつを追って飛び降りる。背後で日々子の悲鳴が聞こえる。意外と可愛い悲鳴だ。

 落下しながら気がついた。かなり高い。病室はどうやら、四階にあったらしい。この下は、コンクリートの駐車場だ。大丈夫だろうか、この装甲はどの程度まで耐えられるのだろうか。完全にヒロイックな空気に飲まれていた。そもそもあいつを追っ払うのが目的で、やっつける必要は無かったんじゃないか。そんな事を考えていたら地面はあっという間にやってきた。

「っつぁああああああ!」

 言葉にならない悲鳴をあげる。僕は非常に無様な着地をした。全身痛い。痛いが、僕は無事なようだ。どこも折れているような感じは無い。意外とすごいぞこの装甲。

 装甲の強度に感謝しながらなんとか立ち上がる。足もとにはギャグ漫画のような、人の形のへこみができあがっていた。

 黒いやつは……いた。四本足で駐車場を這い回っている。

 酷く痛いが体は動く。いまの僕は部屋でゴキブリを見た時と似たような感情だった。こいつめ、やっつけねば気が済まない。チキン故の攻撃本能が燃え上がる。

「逃がすかっ!」

 足に力を込めて走り出すと一瞬で黒いやつに追いついた。痛みはすれど体は自由に動く。これも装甲の力か……。ためらう事無く黒いやつをサッカーボールのように蹴りとばす!

 黒いやつは植え込みの木に叩き付けられて地面に落ちた。蹴った足が痛い。

「動くなよ……」

 ぐったりとした黒いやつに近づく。足の一本を掴み、ナイフで切り落としにかかった。

「うひゃぁあああ!」

 この期に及んで情けない声を上げてしまった。急に胴体が開き、舌がナイフを持った右腕に巻き付いてきたのだ!

「ウゲェッ! 再生してる!」

 切り落とした舌先が再生していた。巻き付かれた腕が熱い。熱攻撃だ。さらにマズいことにナイフを落としてしまった。咄嗟に左手で拾おうとするも、舌に引っ張られ明後日の方向に倒されてしまった。

 そしてすかさず黒いやつは僕の上に乗って来た。それぞれの足で四肢を押さえつけている。細さからは想像できない程の力だ。舌は腕から離れて再び僕の首に巻き付けられた。

「あああああっつい!」

 再び首に熱攻撃を受ける。これはマズいぞ。良くない。死ぬ!

「調子に乗って追ってくるんじゃなかった、窓から逃げた時にほっとけばよかった、看護師さんから引きはがした時点で逃げれば良かった、そもそもあいつの言う通りにしてこんなのに変身なんてしなけりゃ……」

 考えている事が無意識に口に出ていた。

「ヒッ、うっ、うるさい! 過ぎた事をグチグチと、みっともないな」

 日々子だ。いつの間にか降りて来たらしい。病院内のどこかから持って来たらしい松葉杖を逆さに持って地面に引きずっている。端から見ればかなり危険な人物に映ったであろうが、今の僕にはヒーローに見えた。

「助けて!」

「まったく、わ、私は生身だぞ、女だし。そんなのと生身でやりあったら怪我じゃすまないに決まってるだろ……」

 日々子がブツブツ言いながら松葉杖を頭上に構える。黒いやつはジュルジュルと音を立てながら全身使って僕を拘束している。日々子の存在には気がついているのだろうか。首が酷く熱い。

「あ、ちょっとそのままで聞け。ヒヒュッ、さ、作戦」

「こっ、こいつをそれで吹っ飛ばしてからにしてくれませんか」

 我ながら情けない。しかし僕の提案を無視して日々子は続けた。

「お前の上から吹っ飛ばしてからすぐやっつけるための作戦だ、聞け! 私がそいつを殴って気を引く。たっ、多分お前から離れて私を狙ってくる! 離れたら、お前はそいつを掴んでその木に押し付けろ! で、すぐナイフで貫いて磔にしろ! そしたら、そいつ消えるから!」

「あつい! 死ぬ! 死ぬ!」

「いいな!」

 僕が了解する前に日々子は松葉杖を思いっきり振り下ろした!

「メェエエエエエエン!」

「縦に振るなああああ!」

 振り下ろした松葉杖は黒いやつの背面に直撃した、ダメージはあったようだ。当然、そいつの下にいる僕にも。

「ゲッホゲッホウゲェ」

 黒いやつと装甲越しではあるが、腹部に衝撃をうけ、むせる。酷い。しかしその酷い女の作戦は成功したようだ。黒いやつは僕から飛び降り、ヨロヨロした足取りで日々子を狙っている。

「は、早くしろっ! 私は生身なんだよ!」

 さっきまでの威勢はどこへやら、日々子は逃げ回っている。言われるまでもない、素早くナイフを拾い上げた。

「うおおおおおお!」

 僕は今日一番気合いの入った叫びをあげながら黒いやつにつかみかかり、その勢いのまま植え込みの木へと一気に押し付けた。

「は、はは早く刺せ! ヒッ、木まで貫通させろ!」

 日々子が叫ぶ。押し付けた黒いやつは再び胴体を開き舌を伸ばしてくる。

「早く!」

「ひぃいいいいい!」

 最後の最後でまた情けない声をあげながら、ナイフを黒いやつの胴体に突き刺した! ナイフを掴んだ腕は貫通し、先端が木へと到達したのを感じた。

 その瞬間全身が鳥肌立ち、手が僅かに痙攣するのを感じた。痙攣がナイフを伝わり、黒いやつへと伝達する。

 そして黒いやつは獣のようなうなり声をあげたかと思うと、黒い煙をあげながら蒸発するように消えた。木には突き刺さった十徳ナイフだけが残った。

 僕の全身を覆っていた装甲は急にバラバラとはがれて足もとへ落ち、これも黒い煙を上げ、すぐに消えてしまった。

「ヒッ、ヒヒュッ、なんとかなったな。二号もまあ、つっ、使い物にならなくはない。ヒヒュッ、よし……」

 日々子がなにやらブツブツ言っているのが聞こえる。僕は疲れと痛みでその場に倒れた。

 酷い日だった。なんだったんだ一体。ああ、明日も無駄遣いして良い日にしよう。そんな事を考えているうちに、僕はその場で眠りに落ちていた。

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