03 秘密の代償
ポジションがどうだとか、そんなことは勉強には関係ない。
私はひねくれることもなく、至って真面目に授業はこなす。グループワークや体育だって、やる時はちゃんと積極的に参加している。だからやるべき時にやらないような人は嫌いだ。
そうして今日も授業をこなしていくと、四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時、教室は一気に慌ただしくなった。今からお昼休みだからだ。みんなグループで集合して一緒にお弁当を囲むために、各々が一斉に動き出す。ぼーっとしていたら跳ねられてしまうんじゃないかってぐらい、みんな動きが素速い。
私はというと、その中を同じくらい素速くかいくぐり、教室の外へと出て行った。荷物は鞄を丸ごと持って行く。机に置きっぱなしにすると不安になるのだ。
幸い、今日は中身がそれほど入っていないので鞄は軽い。持ち手を肩にかけて脇で挟んでいくことにした。
向かう先は、いつも決まって屋上だった。
手抜きの掃除しかされていない階段をテンポ良く駆け上がっていくと、少し古びた鉄の扉がある。鍵はすでに開いていた。ノブを引くと、ぎぎぎ……と錆びた扉特有の音を立てて扉は開いた。
これまた錆びたフェンスに囲まれたコンクリ製の屋上。
扉から出て左、市街地が臨めるその場所に、先客はいた。
「紫織!」
そう私の名前を呼んだのは、私の友達の
「お待たせ」
私も笑顔になって、友香の元まで小走りで行った。
屋上には私たち以外、誰もいない。きっと、私たちが使っていることも、誰も知らないだろう。それくらい、屋上という場所は普通、馴染みのないところで、逆に、私たちにとっては秘密基地みたいなものだった。
私たちは毎日ここでお昼を囲んでいた。雨の日だって集まった。でも、そういう日はさすがに濡れるわけにはいかないので、扉の前の踊り場でひんやりとした床に座って食べていた。
友香とは中学三年生の時に通っていた塾で知り合った。
高校受験のために塾に通うことにした私だったが、私の学校での違和感は今に始まった事ではなく、当時からすでにあった問題だった。
そこで、私は個人個人が映像で学習するタイプのところにすることにした。いくつか挙がった候補の中でも、出来るだけ中学から離れた駅前の塾をわざわざ選んだ。
そして、塾に通った初日。
受付の人に案内されたブース、その隣にいたのが友香だった。
私が一通り画面の操作をレクチャーしてもらい終え、さてどの科目から取り組もうかとしたその時。
「ねえ!」
不意の出来事に私は体をびくっと震わせた。おそるおそる声のした方を向くと、仕切りの向こうからひょこっと飛び出た顔があった。
「あはは。ごめんね? 驚かしちゃって」
ニコニコと明るい笑顔。いかにも周りに元気を振りまいていそうな子だった。
私とは対照的なタイプだと、すぐにわかった。
警戒モードに入りかけた私だったが、彼女はおもむろに立ち上がり、今度はこっちにやってきた。
私に右手を差し出して言う。
「あたし、高橋友香。これからよろしくね」
再びのその笑顔に、私は完全にガードを崩された。いや、ガードも何もするより先に、彼女は私の懐まで、あっさりと来てしまった。
いままでそんな人はいなかった。
きっと、こんなふうにすぐに仲良くなろうとするコミュニケーションの上手い人はたくさんいると思う。でも、私の人生の中で出会ったそういう人たちは、私には関わってこなかった。それは私の空気感が成していたことなのか、それとも別の理由があったのかはわからないけれど、とにかく、私に近づいて来ること、それ自体がまず一番の衝撃だったのは間違いない。
私は差し出された右手と彼女の顔とを見比べて、ゆっくりと自分の右手をそこへ差し出した。彼女の華奢な右手を握ると、彼女も優しく握り返してくれた。
「私は、橋本……紫織」
私はしっかりと、その瞳を見つめて言葉を紡いだ。
「よろしくね」
そう言うと、友香は心底嬉しそうな顔をした。
私の中で、史上最高に喜ばれた瞬間だった。
だから、この時のことは絶対に忘れはしない。
絶対に、忘れたくはない。
握り合った手の温もりは、今でも鮮明に思い出せる。
彼女の人柄のおかげと、二人とも名字に「橋」が付くこともあいまって、私たちはすぐさま意気投合した。
それから授業そっちのけで私たちはおしゃべりをしていた。スタッフさんに二人して怒られたのはいい思い出だ。もちろんその後はちゃんと授業を終えて、一緒に途中まで帰ったりもした。
友香は私にとって、初めて親友と呼べる存在になった。
私の思った通り、友香には学校でたくさんの友達がいたけれど、何ら落ち込むこともなかった。私には、私たちの時間があったからだ。
やがて、私たちは同じ高校を志望することになり、めでたく二人とも合格することもでき、しかも同じクラスにまでなった。
新たな高校生活はこれまでとは打って変わって、それはそれは楽しかった。なくはないと思っていたけれど、二年生になってクラスが変わってしまったのは残念だった。だからといって会う機会は減らないでいる。それでも「三年生になったらまた一緒になるといいね」が口癖のようになっていた。
今日はそのお決まりのセリフはまだ出ていない。
話題は例の都市伝説だった。
「何でその『もう一人の自分』は、『自分』を殺しちゃうんだろうね? 願い事だけ叶えてくれればいいのに」
友香は野菜ジュースを一口飲んで、続けざまに言う。
「だって変じゃない? 同じ自分なのに、殺しちゃうなんて。お互いが協力とか出来たらもっと良くなりそうじゃん」
そこは私も不思議に思わなくもなかった。
「でも、元ネタのドッペルゲンガーは、出会っちゃったらそこでもう消されちゃうんだって。だからそれに比べたら、何というか、まだ優しい方にも思えるよ」
「えー、そうかなあ?」
私の意見に友香は首をかしげた。
「だいたい、『願い事を叶えてあげられなかったら』って、わかるわけなくない? 向こうは都市伝説だから準備万端かもしれないけど、あたしたちはその場のアドリブってことじゃん」
「まあね。とは言え、相手は自分だし、意外とわかるかも」
「だから怖いんだよ!」
ずいっと私の顔ギリギリまで寄ってくる友香。今日はなぜだか一段と熱が入っている。
「自分自身ってことは、今欲しいものをお願いされるかもしれないってことでしょ?」
「うん、たしかに」
「だとしたら、あたしすっごく高い服お願いされちゃうの。お小遣いじゃ足りないくらいのやつ。絶対にムリ!」
あー消されちゃうよぉー、なんて嘆く友香。私は「お小遣い」という単語が出てきたことがおかしくて笑ってしまった。
「紫織は何かあるの? お願い事とか、欲しいものとか」
「うーん、そうだなあ……」
そう言われると、なかなかすぐには思いつかない。友香みたいに欲しい服があるわけでもないし。かと言って、何もない、ってことはない……と、思うし。
うーんうーんと唸る私を、今度は友香が笑う番だった。
「ダメだー、思いつかないや」
「まあ、そんなもんじゃない? あたしもその時に服お願いするかって聞かれたらしないと思うし」
「だよね」
理由は簡単。
自分の存在がかかっているから。
命をかけてまでそれを選択するようなバカなわけがない。
不意に思いついたように友香が言った。
「二人とも同じお願い事をしたらどうなるんだろ?」
「どうだろ? 聞いたことないけど」
そういえば、今まで考えたこともなかった。
と言うよりも、聞いたことも何も、生還した人がいるかどうかすらわからないし。
「あ、でもやっぱ消されちゃうよ。あっちは叶えてくれても、こっちは出来ないもん」
「それもそっか」
二人して納得しかけた時、私は気づいた。
「でもそれならさ、『もう一人の自分』は自分自身で叶えればいいのにね。叶えられる力があるのに、叶えてあげるなんて、やっぱ変だよ」
「あーたしかに。そりゃそうだ」
じゃあ、どうして『私』のお願い事を先に叶えてくれるんだろう?
考え始めたタイミングでチャイムが鳴り響いた。
お昼の時間、もとい私たちの時間は終了。これにて解散だ。
急いでお弁当を鞄にしまい、屋内へとダッシュする。バアンと乱雑に扉を閉めて、私たちは一気に階段を駆け下りていく。あいにく二人とも次の時間は移動教室だ。急がないと、間に合わない。
二階まで下りると、ここで左右に分岐。
友香は右へ、私は左へ、それぞれ向かわなくてはならない。
「それじゃ!」と友香が手を振り、
「またね!」と私も手を振る。
一抹の名残惜しさを胸に抱えつつ、脇目も振らず駆けていく。
私は無事に授業に間に合った。教室に着いたのは、授業開始のわずか一分前だった。
今日はなんだか走ってばかりだ。朝と同じように、私は肩で息をしながら自分の席に向かった。
クラスのとは違う堅い木製のイスに腰を下ろすと、ちょうどスマホが短く振動した。
誰かからメッセージが届いたようだ。
時間がない。慌てて取り出すと、送り主は友香だった。
メッセージを飛ばしてくる余裕があるということは、どうやら友香も間に合ったようだ。
開くと、メッセージは『今日、放課後空いてる?』と簡潔なものだった。
頭の中でスケジュール確認するまでもなく、私はすぐに『大丈夫だよ!』と返した。オマケに、いつも送ると友香が喜んでくれるウサギのスタンプも送信。
友香と放課後に遊ぶのは久しぶりだ。もうすでにわくわくしてきて、頬が少し緩んでしまう。
そんな余韻に浸っていると、授業開始のチャイムが鳴った。それに合わせたように先生がガラッとドアを開けて登場した。
「おーい、チャイムなってるぞー。席に着いて、ケータイもしまえー」
ゆったりと教卓へと向かう先生を視界の端に置きながらも、私はスマホの画面を見ていた。
けれど、期待していた返事はなかった。それもそうか、一分前だし。
浮かれた気分をなだめるようにスマホをしまい、代わりに教科書を取り出した。
片手でノートをごそごそと探しつつ教科書をぱらぱらとめくっていると、終わりの方にわけのわからない記号まみれのページにたどり着いた。
何となくじっと見つめていると、なんだかひとつひとつが動き出しそうな気がしてきた。
けれど、いざ動き出しそうだと思ったところで私は少し怖くなって、勢いよく教科書を閉じた。
パァンと軽い破裂音のような音がして、自分でびっくりしてしまう。周りもびっくりしたようで、こっちを何だと見ている。
……やばい。
すみません、と頭をぺこり。
それから私はどうも落ち着かなくなって、この五時間目も、次の六時間目も、最後もホームルームもずっとそわそわしてしまっていた。
私はただずっと、「早く終われ、早く終われ」、そう心の中で唱え続けていた。
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