帰還、厳しき地へ(四)

 二映の進言で、藤世はしばらく黒絹の漂白を休んだ。冬の前の一瞬の秋、黄金や紅に染まる木々を眺めて過ごした。

 放牧地からヤクや羊が集落に戻り、長い夜のあいだ、ひとびとは籠や靴下を編み、服の袖口に刺繍をし、家畜の骨を使って象眼細工にいそしんだ。

 そろそろ矢車から文が来てもよいころだと思うが、衛士に問い合わせても返事は来ていないという。

「へんね。矢車なら、すぐに返事をくれそうなものなのに……」

 暖炉にあたりながら、傍らに寝そべる四詩に話しかける。

 ふと四詩の目をのぞき込むと、彼女は視線を逸らした。

「……四詩?」

 ことばを使えなくなってから、ふたりは目で会話することが多くなった。いつもまっすぐに藤世を見つめる四詩が、視線を合わせないのは珍しい。

 四詩は視線を落とし、からだを丸めて目を閉じる。

「四詩、眠くなんてないでしょう、さっきお昼寝したじゃない」

 藤世は絨毯にひざまずくと、四詩の前脚に触れる。四詩はひゅっとからだを起こすと、毛を逆立てた。

「……四詩……?」

 そうしてから、四詩は藤世をようやく見返した。はしばみ色の瞳がじわりと潤み、四詩は涙を流した。

 戸惑う藤世の袖をくわえると、私室から連れ出す。着いたのは、四詩がひとのすがただったころに使っていた寝室だ。いまはほとんどひとの出入りのないそこに入ると、四詩は壁のそばの行李を鼻先でつついた。

 藤世は行李を開ける。そこには、しろたえの島のものとひとめでわかる芭蕉布の包みがあり、それをほどくと、木軸に巻かれた生成りの麻布が現れた。

 藤世は四詩を凝視した。雪獅子はからだを縮めるように座り、小刻みに震えている。

「これ、……矢車からの文じゃ……」

 言いながら布をたぐる。型染の紋様は簡潔で、色はごく薄い青の竃のぞき――……丁寧ながら急いで作ったことは明らかだ。

 ――雪獅子さま。

 藤世の母が重い病を得て床に就いております。島の薬師の見立てでは、持って数ヶ月とのこと。藤世はこのことを知れば帰りたがるかもしれませんが、知らせるかどうかは雪獅子さまにおまかせいたします。

 記された日付を見て計算すると、こちらに届いたのはふた月ほど前――黒絹の漂白を始めてしばらくして、藤世が倒れたころだ。

「四詩――四詩、どういうこと?」

 雪獅子は声もなく涙をぽろぽろとこぼしている。

 四詩だけがこのことを知っていたとは考えにくい。島から文が四詩宛てに来たとして、神殿では衛士から巫祝にまず報告が行くはずだ。

 藤世は矢車からの文を抱えると、一矢の私室に走った。



 一矢は侍従を下がらせて卓の前に立つ藤世から話を聞くと、座ったまま冷然と彼女を見上げた。

「四詩さまが、文をそなたには見せぬとお決めになった。われらはそれに従ったまでだ」

「――っ、なにを言って……!! わたしの母親のことなのよ!?」

「そなたはそれを知ったら、島に飛んで帰ると、四詩さまは思われたのであろ」

 藤世は顔に血が上り、布の端を握る手に力を込めた。

「四詩!!」

 部屋の戸口にたたずむ四詩のほうも見ないまま、藤世は叫んだ。

 藤世はずんずんと四詩のもとに歩み寄ると、悄然と頭を垂れる四詩を見上げた。

「わたしが、母親のためだったら、あなたのそばを離れるって、そう思ってたの!?」

 四詩は答えない。

 視線を逸らして、口をひらき、それから閉じる。

 ことばが使えないということが、改めて藤世を苛立たせた。

「四詩! わたしは――あなたに信用されていないってこと……!?」

 藤世は唇を震わせた。

 母が重い病になったと知って、藤世は心配で胸が張り裂けそうだったが、いまはそれを怒りが陵駕していた。

 たいせつなことを、四詩が隠していたこと。

 その理由が、おそらくは藤世が島に帰ってしまうことを危惧していたからだ、ということ。

「四詩……わたしは、四詩に……四詩に、ぜんぶ渡しているのに……」

 暮らしも、こころを向けていることも、自分の命さえも。すべては、四詩のためだった。

 それを後悔はしていない。自分がそうしたいと、ただ思ったからそうしているのだ。けれど、常にたしかにあると思っていた、四詩からの抱擁が、実は返されるものではないのだと思えて、藤世は自分が崖から突き落とされたようなここちがした。

 その悲しみに顔を歪めると、彼女は一矢の部屋を走り出て、私室に向かった。憑かれたように、島から持ってきた荷袋を長櫃から引っ張り出し、手早く身の回りのものを詰めていく。

「藤世さま……? なにを」

 侍女たちが藤世の表情に気圧されながらも、おろおろと訊く。

「……わたしは!」

 自分を見つめる四詩の視線を感じながら、藤世はそちらを見ずに叫んだ。

「嶺を下りるわ!!」

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