帰還、厳しき地へ(三)
夢のなかで、藤世は波の音を聴いていた。母と暮らした家で、織り仕事をする工房で、絶え間なく聴いていた音だ。
なんどもくり返したように、織姫たちと染彦たちが、機や竃から引き上げた反物を、渚に伸べている。
海晒しのわざだ。
紺碧の空の下、生成りの色の砂浜に、透明な潮が打ち寄せる。たゆたう鮮やかな布。福木の黄、相思樹の茶、藍の青、紅露の赤――……
波間に立つ藤世のからだからも、さまざまな色が海に、空に溶けだしていく。脚のあいだを泳ぐちいさな魚のように、四方にひろがってゆく。
ここちよい暑さも、頬を包む湿り気も、すべてが藤世のこころを満たした。
ひたひたと胸に広がる海の温かさ。
――帰りたい。
ぷかりとその海に浮かんだちいさな思いは、夕焼けの西の沖のようなはげしい茜の奔流になって、藤世の海をたちまち真っ赤に燃やした。
あの海をもういちど見たい。母に手を引かれてたどり着いた浜辺で幼いころ初めて見た、あの海を。
あの陽射しをもういちど浴びたい。生える草木すべてを鮮やかな色に輝かせ、濃い影をつくり、ひろげたてのひらの縁に血潮の赤い花を咲かせる、あの陽射しを。
波の音がする。きらめく飛沫をつかまえようと、藤世は手を伸ばす。
しかし指先に触れたのは、凍り付いた白銀の短剣だった。
目を開ける。闇が広がっている。手探りで天蓋から下がった綴織をかきわける。弱い光が入ってくる。
「四詩……?」
いまは夜らしい。神殿は静まりかえり、冷え切っている。長櫃の上に置かれた水差しから杯に注ぎ、貪るように水を飲む。
頬に違和感を感じて、手をやると、濡れている。自分はどうやら泣いていたらしい、と気づいて、脳裏にひろがる強烈な光景に打たれる。
しろたえの島の、なつかしく、いとおしい色。胸を灼き焦がすあこがれ。
思わず目を閉じる。心臓の音だけを聴き、こころを落ち着かせようとする。
「四詩、どこ……?」
目をひらき、無彩色の室内をさまよう。窓に張った紙を通して、星の光が薄く輪郭を浮かび上がらせる。
竪機にかけられた織りかけの絨毯。円卓と、その上の鉢に載せられた干し棗。茶碗は伏せられている。
棚に畳まれていた肩掛けを羽織ると、藤世は外に出る。石畳の庭、星の光を浴びて、白銀の雪獅子がからだを丸めて眠っていた。
藤世が息を吐くと、それは白い靄になる。そんな寒さなのに、四詩は戸外で眠っている。雪獅子はかすかに発光しているように見えた。つややかな毛並み。聖山の頂のような白銀――……
四詩がぱちりと目を開けた。迷いなく藤世のすがたを見つけ、素早く起きあがって駆け寄ってきた。からだを藤世にすりつけ、ごろごろと喉を鳴らす。尾は上に伸ばされて、ゆっくりと左右に揺れる。
四詩の耳のなかの、やわらかな毛に触れる。その熱が伝わり、藤世はほっと息をついた。
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