帰還、厳しき地へ(五)
布を引き裂くような甲高い叫びが上がった。
「……」
雪獅子が上げた啼き声に、侍女たちは凍り付いたように動かない。そのなかでひとり、藤世だけが手を動かし続け、荷造りを終えた。
くるりと振り返り、戸口をふさぐ四詩の前まで歩いて行く。
「どいて、四詩」
四詩の目からは、ぽろぽろと涙が落ち続けている。前足に力を込め、ふわりと毛並みが膨れ上がる。
――行かないで。
そう四詩が訴えていることは、藤世にもわかっていた。
四詩が、藤世の上衣の裾をくわえ、喉の奥でうなり声を上げる。
「――放して、四詩。わたしはしろたえの島に――……故郷に、帰るわ」
自分の頬に流れる涙には構わず、藤世は四詩の毛並みをかき分けると、前足の間をすり抜けた。
一直線に、故郷を目指す。馬を買い求め、街道を走る。けれど、からだは無意識に元来た道を振り返った。
だれかが、追いかけてはこないか。あの、発光するような白銀の毛並みが見えないか――……
四詩は、追いかけてこない。雪獅子は嶺を出られない。
大陸を駆け、臨泉都の近くは通るが入らず、そのまま川から船に乗り、港町へ。
草枕には、くり返し故郷の色彩が現れる。帰りたい、という思いと――……
さみしい。
という感情の噴出に、藤世のこころはもみくちゃになった。
島につながる翡翠色の海に漕ぎだしても、藤世の片腕は後ろから引っ張られているようなここちがした。
真冬でも温かい島。濃い緑の木々が生え、赤紫の花が咲く、しろたえの島に、藤世は二年ぶりに帰ってきた。
「母さま!」
夕方、ふたりで暮らしていた家に駆け込む。開け放たれた板張りの家に、ひとけはない。
「藤世?」
隣家の夫婦が声を掛ける。天華の魔がこの島を襲ったとき、凍り付いていたふたり。
久しぶりに見た藤世のすがたに驚くふたりに、母に会いに戻ってきたことを伝える。夫婦は、ひとりで暮らしていた藤世の母は、親戚でもある矢車の家で看病を受けていると教えてくれた。
目になじんだ村の家々の軒下を駆け、藤世は矢車の家を訪ねた。
茜色の暮色に染まった部屋、蚊帳の向こうに座る母のすがたを見た瞬間、藤世の目から涙があふれた。
「母さま、……母さま」
土埃にまみれた上着を脱ぎ捨て、蚊帳を開けて駆け寄る。
「……藤世」
髪を下ろして微笑む彼女は、蝉の翅のように薄いからだになっていた。
藤世は彼女にぎゅっと抱きつき、声を上げて泣いた。
長女が家を継ぎ、夫と同居しないことも多いしろたえの島で、ひとり娘の藤世がいなくなって、母はひとりで暮らしていたはずだ。以前の手紙で様子を知らせてくれていたが、新しい生活を始めた藤世を励ますことばばかりで、自分のさみしさにはひとことも触れなかった。
「……泣かないで、藤世」
母になだめられながら、藤世は泣き続けた。
藤世が島に着いた数日後、母の横で目ざめた藤世は、彼女がつめたくなっているのに気づいた。
島の薬師は、藤世が戻ってくるのを待っていたのだろう、とことばを掛けた。
花織の表地、型染の裏地の上衣。蝉翅織の肩掛け。それが彼女の経帷子だった。すべて自分で織ったものだ。藤世がいなくなってから、用意していたものだという。藤世は、嶺から持ってきた羊毛の帯を、彼女の腰に結んだ。
常春の島でも、早朝の真冬の海はつめたい。海を渡ってやってきた絹を紡ぎ、織り、染めた衣を纏った母を載せた舟が、海に漕ぎ出してゆく。海流のはげしい場所に、彼女のからだは下ろされる。
曙光が雲を割って、黒い海に浮かぶ舟に突き刺さる。藤世は浜辺でそれをじっと見送った。
静かな雨が降り続いた。
乾燥した嶺ではなかったことで、藤世は矢車の家の縁側で湿った空気にあたっていた。
昼間、ひとびとは仕事に出ていて、藤世のほかにはだれもいない。
雨にけぶる庭は、灰色に沈んでいる。
遠く聞こえる波音。隣家から響く機の音。
藤世は矢車から借りた藍色の掻い巻きにくるまり、目を閉じる。
凪いだ海に潜る瞬間のように、それはなめらかにやってくる。
夢だ、とわかっていても、皮膚を貫くつめたさも、目を刺す眩しさも、鮮やかに感じ取れる。
藤世は、この光景を見たことがある。
この風音を聞いたことがある。
草一本生えぬ焦げ茶色の谷の底に、一本の柱がたち、そこから縄が放射状に伸びて、地面に杭で留められている。その縄には経文を縫いつけられた色とりどりの端布がはためき、柱のたもとに、――……
真っ青な空を背にして、赤い少女が立っている。
藤世!! ――藤世!!
少女が叫んでいる。島のひとびととの――母や矢車の甘く伸びた語調ではなく、するどくみじかい音で、藤世の名を呼んでいる。
藤世は、この次に彼女がなにを言うかを知っている。
帰ってきて!! お願い!!
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