山嶺へ(五)

 一矢は自分を抑えようとは思わなかった。自分の地位が、一矢という存在への敬意が、四詩の口から拒絶のことばを奪うと、冷然と知っていた。自分は受け入れられる、という確信が、彼女から思考を剥ぎ取っていた。

 甘い嬌声、しとどにあふれる蜜、ぐったりとしたからだ。年上ではあるが自分よりも背の低い四詩が、抱き締めればこんなに華奢だったのだと、一矢は胸が熱くなるような思いがした。

 胸のささやかな膨らみに顔をうずめ、幼子のように無心にむしゃぶりつく。四詩が顔を歪めるので、

「痛いか……?」

 おろおろと訊く。

 四詩は目を伏せて首を横に振った。それに押されるように、一矢は舌を使った。

「――あッ、ああん!」

 声を上げる四詩がいとおしくてたまらない。自分の行為に反応することが嬉しくて、一矢は更に口づけを重ねた。二歳で神殿に上がった自分には遠かった、母が子を愛撫するような優しさで、一矢は初めて他人に触れた。産毛を撫でるようにかすかに四詩の肌を撫で回し、びくびくと腰を震わせる彼女の唇に唇で触れる。喘いでおおきくひらいた口をふさぎ、自分の舌で彼女を蹂躙する。無意識のうちにだろう、四詩は一矢に縋り付く。ようやく行動で応えてくれたことに昂揚して、一矢は彼女をつよく抱き締めた。

「四詩……――いとしい四詩……」

 からだを入れ換え、後ろから彼女を抱き締める。やわらかく彼女の乳房を揉みしだきながら、背骨に沿って舌を這わせる。臀部に自分の脚をからみつかせ、腰を動かして快楽を得る。手を握って、突き抜ける快感のあまり、一矢は四詩の肩口に歯を立てた。

 涙があふれてきた。

 額を彼女の背に押し当て、一矢は声を殺して泣いた。

「一矢さま……?」

 四詩が振り返り、一矢の顔を覗き込む。彼女の首に腕を巻き付かせ、一矢は泣きわめいた。

「そなたが好きだ」

「……」

「そなたが欲しい。わたしのものになってくれ」

 四詩は一矢の涙を指でぬぐい、見つめ返した。

「それは無理です。わたしには、つよく想っているひとがいます」

 一矢の目から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれてゆく。

「……申し訳ありません」

「謝るな」

「……一矢さま……」

「……そなたのせいではない」

 一矢は目を伏せると、もう一度四詩に抱きついた。

「こうされるのはいやか?」

「……いいえ」

「口づけされるのは?」

「……」

「もう一度、口づけさせてくれ」

「……一矢さま」

「頼む」

 四詩は眉根を寄せると、首を横に振った。

「……そうか」

 つぶやくと、一矢は四詩を抱き締めたまま、目を閉じた。

「吹雪がやんだら教えてくれ」

「……はい」



 ときおり吹雪に阻まれながらも、回嶺行は着実になされていった。未明のうちから起き出し、露営の始末をしながら手早く棗を食べ、出発する。経文を唱えながら歩き、堂に着けば祈りを捧げ、歩けるところまで歩いてまた露営する。一矢は自分に力が満ちてくるのを感じる。疲れも、空腹も、意識のなかから削ぎ落ちて、清明な想いだけが自分を動かすのを感じている。

 先に四詩だけを神殿に返すことを伝えたが、四詩はきっぱりとそれを断わった。

「わたしがご不快ですか」

「そうではない」

 焚き火を囲んでバター茶を飲みながら、四詩は一矢を見つめた。

 欲動も、恋情も。一矢の胸の底で燃えたぎっていたが、四詩のその顔が、自分を想ってのことではないということは理解していた。

 雪獅子を救うために祈る。

 それのみが、ふたりをつなぎ、動かしていた。

 寝床では裸になり、抱き合って眠ったが、それ以上のことはなにもしなかった。

 彼女の意思を踏みにじることは、一矢にはどうしてもできなかった。

 寒さのせいで、熟睡はできない。真っ暗な天幕を見上げて、四詩の熱を感じながら覚醒することがある。

 ――藤世。

 眠っている四詩の口から、毎夜こぼれることば。

 耳慣れない名。神殿の人間ではないのかもしれない。

 いますぐ四詩の首に手をかけて、彼女を殺したい。

 彼女が想っている人間を見つけ出して、その人間も殺したい。

 一矢のからだの中心から憎悪がせり上がって、こころのなかにはりつめた糸のような理性を、引きちぎろうとする。

 風の音を、降り積もる雪の音を聴いて、一矢は固く目を瞑る。

 四詩の肌の感触を全身に受けて、そのあたたかさのなかでからだを弛緩させる。

 四詩のそば、一番近くにいるのがいま、自分であるということが、とても嬉しい。

 わたしは。

 わたしは、雪獅子のために生きるのだ。



 数えていた数珠も、残り一粒になった。

 もう一周、聖山を回れば、行は終わりだ。

 眩しいほどの青空が広がり、ふたりは気温の上昇を心配した。雪崩が起きるほどではないが、歩くには一層の注意が必要だった。

 断崖の中腹の、凍り付いた道を通らざるをえない。びょうを打ち付けた靴底を装着し、命綱でふたりをつないで、慎重に進む。谷底ははるか遠くにある。

 突然、強風が吹いて、一矢がよろけた。ぐっと四詩が一矢の腕をつかみ、引き上げる。その反動で、四詩は足を踏み外した。

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