連理の樟(三)
その日はめざめたときからそわそわとして落ち着かず、朧は宿舎の自室で行李を漁った。前日に用意した普段着ではそぐわない気がして、故郷――染織の島であるしろたえで、織刀自である母が織った衣服を取り出していた。こちらの風俗にはない仕立て方をしているので、周囲に紛れるために、外套を羽織った。
靴は、数日前、市場で新しいものを買っていた。刺繍入りの深紅の靴は、いかにも晴れの場向きで、履いた瞬間、こころが浮き立った。
目立たないようにそっと王宮の門を出る。
晩春の暖かな日差しに照らされて、臨泉都の石畳の街路は賑わっていた。水路に沿って庇を伸ばした店舗が連なり、色とりどりの舟やひと、荷物が行き交っている。満杯に山吹や霞草の花を載せた舟、弁当や果物を売る舟、薪やまぐさを載せた荷車、風車を持って駆ける子どもたち――……
半円アーチの橋の頂上で立ち止まり、都を見渡す。なんてうつくしいのかと、朧は思う。灰色の甍が連なり、洗濯物がはためいている。
平和な世だった。ここ百年、おおきな戦は起きていない。智迅君の父祖がつくりあげ、智迅君が護る、水上の都。
朧はひとつ息をつくと、足早に待ち合わせの場に向かった。
その茶館は、望楼を持っていて、開け放した窓から王宮まで見えた。
給仕に外套を渡して、朧は目を見ひらいて霞がかった空と街を眺める。
王宮の太鼓楼には劣るが、それでも市中一の高さの建物は、知ってはいたが入ったことなどなかった。
「こんなに平地が続いているなんて、わたしの故郷では考えられないし、家もたくさんある」
微笑む清は、茶館でだいぶ前から待っていたようだった。彼の卓には空の茶器が並んでいる。
一緒に立つ清を見上げて、朧も微笑み返した。
「わたしの故郷は島なので、わたしも同じです」
「それは、しろたえの島の服? すごくきれいだ」
清は首をかしげて、朧の全身を見る。
朧は火が出そうなほど赤面した。うつむいて、ちいさな声で言う。
「……そうです。わたしが染めて、母が織りました」
わずかに黄みがかった淡い桜色の地に、花織と縞、絣模様が入っている。
「もっと近くで見てもいい?」
清はやわらかな声音で訊いた。
こくりと頷いた朧に、彼は一歩あゆみ寄る。しげしげと模様を眺める。
「袖を見せて」
言われるまま、手を差し伸べて清に示す。
す、と清の指が朧の肘のあたりに触れた。震えそうになる腕を、必死で抑えながら、朧は目をぎゅっとつむった。
「この紋様は?」
清は、低い声でささやいた。
朧は目を開け、彼の示すものを見て微笑んだ。
「絣で織り出すもので……
「これは?」
清の手が、朧の二の腕のあたりに動く。
「燕です。……たいせつなひとと、再び逢うことができるように、という願いが込められています」
「……そう」
清は切なげな顔をして、目を伏せた。
「……朧は、島に帰りたい?」
「えっ……?」
清の手はふたたび動き、それは、朧の頬をとらえた。
清は朧を見下ろす。朧は、ゆっくりと彼の顔を振り仰いだ。
彼の榛色の瞳が、潤んだように光った。
「……わたしは、いつくしの嶺に……いずれ、帰らなければならない」
――医術を修めて。都でひとかどの人間になって。
そうして、わたしはどうするつもりだった?
あの島の、なつかしいひとびとのもとに、帰るつもりだった。自分の身につけたものを活かすために。
都に来たばかりのころは、故郷や母が恋しくて泣いたこともあった。しかし、もうその気持ちは消えている。
母には会いたい。
しかし……――
「……わたしは……あなたの故郷では、邪魔者でしょうか」
「えっ? そんなことはないよ!」
清の両手が、朧の肩をつかんだ。
「いや、むしろ、きみが――……ええと、順番が逆だ、――……きみは……もし、わたしが嶺に帰ることになったら……――」
「あなたに会えなくなるのは厭です」
瞬間、清の顔が真っ赤に染まり、彼の身がふわりと膨らんだように見えた。
「ほんとうに!?」
「……わたしは…………――」
朧は数瞬、ことばに詰まり、自分の目の奥が熱くなったと感じる間もなく、大粒の涙をこぼしていた。
「ずっと、あなたに会いたい。あなたのそばにいたいです」
途端、目の前が暗くなり、彼の胸に自分の顔が押しつけられているのがわかる。背中に、彼の手が回されて、ぎゅっと抱き締められている。
「……ごめん、あやふやなことばかり言って……わたしは――わたしは」
そっと身が離され、彼の目が、朧を覗き込む。
「きみが好きなんだ。きみに会えなくなると考えただけで、どうにかなりそうなんだ。こうやって自分の気持ちを伝えることは、迷惑じゃない……?」
朧は、滲んだ視界のなかで微笑んだ。
「迷惑じゃありません。嬉しいです」
清はおおきく破顔した。
「やった!!」
そして、もう一度朧を抱き締め、耳元にささやく。
「これから何年、この都にいられるかわからないけれど、いずれわたしは嶺に帰るんだ。そのときは、きみに、ついて来て欲しい。きみの医術を、嶺の皆は必要とするだろうし……第一、わたしは、きみがいなければ、生きていけない」
声が低まり、ささやきは一層の熱を帯びる。
「きみが大好きなんだ。きみのためなら、なんでもする。一生、きみを護る」
「清……」
「故郷に帰ったら、一緒に暮らそう。この都ほどおおきくはないけど、いい街だよ。なにより、山々がうつくしい」
青年は朧の耳元に口づけを落とした。
「王がなにをしようと、わたしはきみを嶺に連れて行く」
はっとして顔を上げた朧の額に、清はもう一度口づけした。
「なにがあっても、わたしは……朧、きみのものだ」
「清……清」
朧はつま先立つと、清の唇に自分のそれを触れ合わせた。
おおきく震える清に、朧はにっこりと笑いかけた。
「わたしも、あなたのものよ。清……あなたが好き」
清の瞳に輝きが走り、次の瞬間、朧ははげしく抱擁されていた。
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