連理の樟(二)

 風のはざまに、彼の髪が光った。白銀の三つ編み。急いで駆け付け、どこを打ったのか確認する。

「痛いところは!?」

 男は――王のいくつか年上に見える、まだ青年と言っていい年頃だった――からだを歪めて痛みに耐えている。

「……腰が……っ」

 朧は全身の血の気が引いた。腰は身体の要だ。打ち所が悪ければ最悪、死に至る。

「……ひとを呼んできます! 待っていて!!」

 大の男ひとりを運ぶには、自分は非力過ぎた。朧は叫び、身を翻した。


 樟の木から落ちた青年は、臨泉都に学びにきた留学生で、さやという名前だと告げた。

 医薬寮の開設している施療院で、彼は朧やその同僚に手当てを受けた。

 幸い、腰の打ち身は軽症で、あとは擦り傷と打撲がいくつかあるだけだったが、大事をとって一日安静にするよう、診断が出た。

「……猫が」

 落ちたとき、青年は腕に猫を抱えていた。黒と白銀の被毛が全身を覆い、目の覚めるような氷河色の瞳の、まだ若そうな猫だった。

「無事でよかった」

 寝台に横たわる自分の、そばで座っている猫を見て、青年はしみじみと言った。

 朧は彼の包帯を巻き終える。

「降りられなくなっていたんですね」

「にゃーにゃー鳴き声が聞こえたから、見上げてみたら、いたんだ。心配で、いてもたってもいられなくなって……木登りは久しぶりで、きみの声にびっくりして落ちてしまったけれど」

 青年は朧を見上げ、微笑んだ。

「助けてくれてありがとう」

 切れ長の目は涙袋が目立ち、頬にはえくぼができる。真摯なことばは、素直に朧の胸に響いた。

「……どういたしまして」

「きみはとてもうつくしい。怪我もしてみるものだな」

「……えっ」

 朧は驚いて持っていた鋏を取り落とした。

「……ごめん、驚かせて」

 朧の代わりに鋏を拾うために身を起こそうとして、彼は痛みに顔を歪めた。

「だめです、寝ていてください!」

 彼の裸の肩を両手で押さえ、朧は慌てて鋏を拾う。

 床に身を屈めた朧の近くで、

「こういうことを言うのは、迷惑かな」

 清はぼそぼそと訊いた。

「なにを、言って……」

 彼の声の熱が伝わってきたように、朧の頬に朱がのぼった。鋏を握る手が震える。心臓が早鐘を打つ。

 おそるおそる青年を見返すと、彼の顔もうっすらと上気していた。

「……きみの名前は?」

 朧を見つめる瞳は、澄んだ榛色だった。



 大学寮から来た役人は、驚いて清を華美な輿に乗せて宮殿に連れ帰った。彼は留学生は留学生でも、国賓級の身分――いつくしの嶺という、北辺の国の貴族の子弟だったのだ。あっけにとられている医薬寮のひとびとのなかで、朧はほっと息をついた。そんな身分の人間が、自分を本気で口説くことなど、ありえない――……そう思おうとして、真っ先にその例外に思い当たり、苦い気持ちになった。

 王そのひとに言い寄られているということは、医薬寮の人間ならば公然の秘密だ。妃には伝わっていないと信じたいが、それも怪しいかもしれない。なにしろ、あの率直な王だ。上司も無駄に気を遣い、朧を叱責することも、なにか侮辱するようなことも起こったことがなかった。

 不器量のくせに、王に色目を使って――……

 そういった陰口は、聞こえないでもなかった。しかし、同僚たちは朧に近い立場の人間であればあるほど、彼女が生粋の仕事莫迦であることを知っているので、彼女の状況を気遣った。

 薬石を探究するため、この地方一、都一の場である医薬寮にいたい。しかし、それは王と離れられないことでもあった。

 清は、智迅君よりも自由な立場を利用して、頻繁に医薬寮を訪れた。礼が言いたいだの、湿布が切れただの、些細な用を見つけては、朧を呼び出した。

 そのたびに、朧はほかの人間と接するときとは違う感覚に襲われて、戸惑った。

「仕事が終わるのはいつ? 迎えに行くよ。助けた猫が集まる場所に案内する」

「夜になると思いますが……。閉門の太鼓が鳴ってしまいます」

「そう……」

 残念そうに眉尻を下げる、彼の背の高さ。袖から伸びる、ごつごつとした手。すくない日差しにもきらきらとかすかに光る、白銀の髪。そんなものに目を惹かれ、じっと見つめている。そんな瞬間が増えてくる。

 彼女が染織につよい興味を持っているとどこかで聞いたのか、ある日清は、

「わたしの故郷の衣服を見たい? 羊毛でできているんだ」

 と言った。

 訊かれるまま、朧は次の非番の日を告げた。

「じゃあ、その日に見せるよ。持って行く」

「でも、ここでは……」

 ひとの目が多すぎる、と言おうとして、愕然とした。

 ――わたしはなにを考えているんだ?

 ひとの目を避けて、なにをしようと言うのか。

 清はいたずらっぽく笑い、小声で言った。

「じゃあ、王宮の外で会おう。おいしい茶館を知っているんだ」

「……」

「そんなに心配そうな顔をしないで。わたしのおごりだよ」

 にこにこと笑う清に、朧はそっと笑みを返した。

 諾という返事を聞いて、清は飛び上がって喜んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る