みかさね

連理の樟(一)

「ときおり、動悸がして、胸が苦しい」

「……はあ」

「思い煩って、食欲がないときもある」

「……はあ」

「わたしはまじめに話しているんだが、朧!」

「……はあ。陛下はお健やかです」

 歩き方、話し方、姿勢、顔色。舌を出させて色や形を確認する。手を取って脈を取り、衣服をめくって腹部に触れる。気の巡りも体液の巡りも極めて順調、若者らしい陽の盛りが、行き過ぎるまでにはならず、少年の――いや、もう彼は青年といってもよい歳になった――体内に充ち満ちている。

 今年十九歳の、臨泉都の王、智迅君ちじんくんは、極めて健康だった。

 月に一度、彼の状態をるようになって、四年になる。きっかけは、医薬寮の新米官吏であった朧が、上司である御典医の意に背いて、彼の処方にない薬を智迅君に飲ませたことだった。そのために、王は原因不明の熱病から、辛くも生還した。王は朧を御典医に取り立てようとしたが、朧は自分の経験の少なさを理由にそれを固辞した。その代わりにと、王は月に一度、朧に自分の検診をさせるようになった。

 花盛りの庭を望むおおきな窓の開け放たれた居室で、王は長椅子に寝そべりながら傍らの背もたれのない腰掛けに座る朧を見上げた。

「わたしは具合が悪いんだ。治してくれ」

「……畏れながら。どんな名医でも、陛下の具合とやらは治せませぬ」

 襟の乱れを自分で直し、智迅君は座り直して朧に相対した。

「そなたにしか治せぬ。治して欲しいんだ」

 青年のまっすぐな視線を、朧は受け止めた。

「無理です。わたしに、あなたの臥所ふしどに侍れと?」

 王は顔を歪めた。

「……そうしてもらえれば、とても嬉しいが。まずはそういうことが問題なのではない」

「どういうことが?」

 彼の頬に朱が差し、彼はうつむいてぼそぼそと言った。

「……わたしの、こころは……そなたのものだ。だから……いや、こう言うのは身勝手かもしれないが……ええと……」

 ぎゅ、と王は自分の手を握り込んだ。

 ぱっと顔を上げ、縋るような視線で朧を見つめる。

「そなたのこころが欲しい。すべてくれとは言わぬ。ほんの、かけらだけでも。そなたが欲しい」

 朧は無表情のまま、首を横に振った。

「……わたしが嫌いか」

「いいえ、そうではありません」

「わたしが好きか?」

「……陛下とお話しするとき、わたしはこころ楽しいです」

「では……」

「しかし、それは恋情ではありません」

 王が、身を乗り出して朧の両手を取った。

「いまでなくてもよいのだ。いずれ……わたしに……こころを向けてくれれば、わたしは……」

「先のことは、お約束できません」

 青年はうつむいた。ぽたりと、朧の手の甲に彼の涙が落ちる。

「どうか、ほかのことにおこころを向けてくださいませ。わたしはなんの価値もない人間です」

「そんなことはない! そなたは優秀な薬師で、わたしの命を助けてくれた!」

「たまたま、ほかの方には見えなかったしょうが見えたというだけです。それに、わたしは、医薬と染色以外のことはからきしで……」

「知っている。そなたは炊事はほかの同僚に押しつけているし、靴はぼろぼろだ」

 朧はむっとして眉間に皺を寄せた。

「ぼろぼろですが、故郷から持ってきたたいせつな靴なのです。それに、どうして炊事のことなんて――」

「医薬寮を望遠鏡で覗いた」

「……ええっ?」

「そなたに会いたかった。しかし、そう頻々と呼びつけるわけにもゆかぬ。だから、せめてすがたが見たかった」

「……」

 朧は唖然とし、そののちふたたび首を振った。

「どうか、わたしのことはご放念ください。おそらくわたしは、だれかを愛することのない人間なのです。薬石や布に囲まれていれば充足する、ただの変人です」

「……そなたにはわからぬかもしれぬが」

 王は朧を覗き込んだ。

「恋というのは、自分ではどうにもならぬのだ。こんなことにかかずらっている場合ではないのだと、わかってはいる。もっとまつりごとに身を入れるべきだと。しかし、朝堂でも、臥室でも、そなたのことばかり考える。自分でもおかしいと思う。わたしは病んでいる。わたしは王だが、そなたのやっこだ」

「陛下……」

「……困らせてすまない。わたしも、もっとよい方法がないか、よく考えてみたのだ。だが、こう言い募って、そなたを困らせることしか、思いつかなかった」

 そう言うと、王はゆっくりと身を離し、顔をそむけた。

「もう行け。……みじめな自分の様を、そなたに見せたくない」



 明朗闊達だった少年王は、恋に惑う青年に育った。

 彼より四つだけ年上の自分には、彼にかけることばを見つけられなかった。

 朧はため息をひとつつき、王の宮を辞した。

 黒い温水の湧き出る泉にかかる橋を渡り、庭園を横切る。

 目路の隅に、鬱蒼と繁るくすの木を認めて、朧は足を留めた。近づいてみると、日本の同種の木が寄り添って、途中で幹が交じり合い、癒着している。連理の木だった。

 樟は、葉を用いて鎮痛剤にし、あるいは幹や枝を砕いて樟脳を抽出する。そう考えてしまう自分の仕事中心の思考に苦笑しながら、朧は幹に触れた。交わり、離れえなくなった二本の木。夫婦和合の吉兆として尊ばれるが、自分には関わりのないことのように、朧には思えた。

 王には、当然ながら、彼が十歳のときに娶った妃がいる。兄弟のいない彼にとっては、自分だけの妃だ。とくに仲が悪いという噂は立っていないし、女の子がひとりすでに儲けられている。

 自分の持っている、栄えある立場に、彼がそのまま充足してくれればよいが――……そう思いながらふと朧が樟の樹冠を見上げると、枝に取り付いている一人の男のすがたが見えて、朧はぎょっとした。彼は枝の先に向けて、じりじりと身を進めている最中だった。このままでは、彼の身を支える枝が折れてしまう。

「なにをしているんです――……?」

 そう叫ぶと、樹上の男はおおきく身を震わせた。

「えっ、あっ、うわああ!」

 その拍子に身体の平衡を崩し、彼は枝から落ちた。

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