褪せる珊瑚(六)
格子窓の細い光が藤世を射る。
めざめて、冷え切った部屋のなかにひとりだとわかり、数瞬茫然とする。
機に向かう腰掛けから立ち上がり、凝り固まったからだをのばした。
唐突に、四詩の感触が全身に蘇る。
彼女の熱い息、こらえきれず漏れる甲高い声、乾いた肌、それを汚し尽くした粘つく体液。藤世はしゃがみ込んで自分を抱き締めた。からだじゅうを血液が駆け巡り、発火したように熱くなった。下腹を快楽の残り火が焼き、脚のあいだがとろりと濡れた。
思わず両手で顔を覆う。
夢――夢だったなんて。
服を脱いで全身を確かめたくなる衝動をこらえた。自分の秘められた場所すべてを点検しても、おそらく四詩の愛撫のあとは残っていないのだ。昨晩のまま着込まれた衣服がすべてを証明していた。
あたりを見渡しても、だれのすがたもない。
いますぐ四詩に縋り付いて、この欲情を鎮めてもらいたかったが、それは不可能だった。
ひとりきりになれるちいさな寝具部屋にばたばたと駆け込み、鍵をかけてうずくまる。手巾を口に押し込み、綿布団に顔を押しつけて、藤世は涙をこぼしながら自分を慰めた。自分がそれほどまでにつよい衝動を持っていることに驚いた。
四詩に会いたくてたまらない。彼女を抱き締められなくて、胸が強烈に痛む。
自分を強制的に快楽に溺れさせて、藤世は脱力した。
彼女と別の場所にいるという悲しみのなか、しばらくしてから、胸にわずかにあたたかい気持ちが生まれた。それは徐々におおきくなっていく。
そうだ。
夢のなかで、たしかに藤世は四詩と交歓したのだ。自分は会いに行くと言い、四詩は待っていると言った。それから、互いの気持ちをからだで伝え合った。
会いに行ける。
準備をして、旅立てば。
彼女に会えるのだ。
藤世は涙をぬぐうと、工房に戻った。
織り上がった布を機から外す作業をして、仕上げ専門の職人たちと羊毛ならではの方法について話し、後を託す。藤世は
そのうちに眠ってしまったらしい。目ざめると職人たちのすがたはなく、ずらりとならんだ柱に、立った人間の顔の高さほどでくくりつけられた布が、ぴんとしなった竹の伸子で等間隔にのばされ、反対側の柱までをつないで乾燥を待っている。
作業場の隅の腰掛けでそれをぼんやりと眺めていると、布の列の向こうに、黒衣の人物が歩み出てきた。姿勢の良いその男は、ゆったりと布のあいだを歩き、なにかに気を惹かれたのか足を止め、布に触れた。
「触らないで!」
藤世は跳ね起きて駆け出しながら叫んだ。布の下をくぐり、男のもとに駆け付ける。
藤世の大声に驚いたのか、男はわずかに眉を上げて藤世を見返した。
「お妃さまのお召し物になるの、ちょっとでも汚れたら大変なことに――」
男の着ているものを見て、藤世は思わずことばを止めた。
彼が着ているのは、この都の特産の黒絹の袍。
着古された袍は、襟元の釦を外した、崩した着付けで男に纏われている。
黒絹自体は、下級官人の常服で、珍しいものではないし、男の絹自体、格別高価なものには見えない。
けれど。
――朧の織ったものだ。
直感が、藤世を貫く。
「……すまない。ただ、珍しくて……」
男はあっさりと謝った。
「……珍しい?」
「奇妙だ。緯糸がぞろぞろと出ている。こんなものが衣服になるのか?」
「ああ、こちらは裏だからよ。表は……」
藤世は自分の手を袂でぬぐい、干されている布をそっとひっくり返した。
「こうやって、模様を出しているの」
藍色の地に、微妙な濃淡で格子縞が入り、そのなかに黄や朱、白の点が散らばり、花のような紋様を作っている。表に出ない緯糸が、裏で浮いて遊びとなっているのだ。
生地の表を見て、男はおおきく目を見ひらいた。
「これは……星か?」
「え?」
男は手を伸ばし、布に触れないぎりぎりの近さで色糸の点を示した。
「藍の夜空に……星が光っているようだ……」
藤世はにっこりと笑った。
「そう言うひともいるわ。わたしの島では、花のかたちだと言い伝えているけれど」
織っているあいだ、藤世は夢でみた、四詩の織っていた絨毯のことを考えていた。あの、空に瞬く星を表わしたような絨毯。その気持ちをいま言い当てられたような気がして、藤世は面映ゆい思いがした。
男は頷くと、ふたたび布に目を移した。
「……うつくしい」
そうつぶやくと、彼は藤世を残して去って行った。
妃の衣の仕立てに入る前に、藤世は印月に呼び出された。
「そもそも、羊毛の糸は叡雨君さまにいつくしの嶺より贈られたものだ。それを、王さまが沈渓妃さまのために使うようご指示された」
「……そうだったんですか」
夢中になっていて考える機会がなかったが、よく考えればそのことは納得できた。貴重な糸は、王妃へではなく、王への贈り物であったのが自然だ。
「王さまが――妃さまへ手ずからお渡しになる場に、そなたに同席せよとの命令が来た」
「……は?」
藤世は目を丸くした。
「しろたえの島のわざを、妃さまに説明せよ、とのことだ」
そうして、藤世には沈渓妃の宮に入る許可が与えられた。
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