褪せる珊瑚(七)
彼女には、必ずすることがたくさんあった。
ひと月のうち、中旬は黒い服を着て過ごす。そのほかは、藍や青などの寒色の服を着る。
墓所から帰ってくると、ある椅子のそばの床に敷物を敷いて、じかに座る。
彼がよく座っていた椅子だ。肘置きに触れ、彼の腕の感触を思い出す。
寝台は、片側を空けて横たわる。彼が眠っていた場所を、時折指がなぞる。
息子や娘は、すでに結婚して、たまにしか顔を見せない。自分の陰鬱なようすが煩わしいのだろうと、あきらめている。
大抵は、窓辺に座って、朧が織った布を広げて眺めている。
あたたかい時期、王宮で咲き乱れる花々や、風に揺れる柳、泉に集う水鳥。それらが、箱庭のように生地のなかに表わされている。
朧は、ほかにもたくさんの布を織って彼女に献上したが、彼女はあまりそれらには興味がなかった。
彼との夏を描いたものにだけ、こころを寄せた。
そこに、薄茶色の肩掛けがやってきた。
朧が品物を
彼女の黒い絹の衣服には不釣り合いな、素朴な風合いのふわふわとした肩掛けだ。
指先で触れただけで、彼女は驚いた。あたたかい。
肩に纏ってみる。ほっと息をつく。
そうして初めて、彼女は自分がつめたい場所にいたことに気づく。
窓辺を離れて、いままで断わっていた火鉢を足許に置く。
炭の奥で燃える火の、赤さが胸にともる。からだの強ばりがほどける。
その首飾りは、いつも身につけていらっしゃるのですね。
彼にそう言った夜を思い出す。
彼の裸の胸には、細い鎖につながれた銀の首飾りがある。
灯明台のほのかな光のもと、彼が微笑む。
王には、だれにも渡してはならない宝が受け継がれている。これも、そのひとつだ。
言って、彼は彼女を引き寄せた。彼女の顔の前に首飾りを掲げてみせ、ちいさな円形の箱状になった飾りの蓋を、そっと外した。
真綿にくるまれた、真っ赤な珊瑚の玉が現われた。
王の宮から妃の宮に向かう舟の舫われた桟橋のそばで、印月と藤世が王を待っていると、雪よけの傘を差し掛けている侍従をひとりだけ連れた王が、無造作に歩いてきた。
そのまま彼が先に乗る、腰をかがめて礼を取った藤世の目の前を通り過ぎる一瞬――……
傘の下の王の顔を見て、藤世は目を見ひらいた。もしかしたら、とは思っていたが、それは作業場で生地に触れた男だった。
無言のまま、四人は妃の宮の前に立つ松の木の下を通り、宮に入る。
藤世はきょろきょろしないように努めながらも、建物の装飾に首をかしげた。
柱も、欄間も、梁も、繊細な彫刻が施されているが、すべて黒く塗られているのだ。ほかの宮や官庁は五色に塗り分けられているのに――……
通された小広間の家具も、同様に黒漆で塗られていた。王はすたすたと上座に座り、残りの三人は立ったまま妃を待った。
戸口にかけられた薄物の向こうから、鈍い水色――
「久しいな」
ぽつりと王が妃に声をかける。
――久しい? すぐ近くに住んでいる妻なのに?
藤世に疑問が浮かぶ。
「陛下におかれましては、ご機嫌麗しく」
妃が無表情に返す。
王は闊達に笑った。
「ああ。今日は機嫌が麗しいぞ。うつくしいものを、そなたに与えられる。かけよ」
虚を突かれたように、妃が一瞬動きを止める。それから、王のそばの椅子に座った。
「……朧。今日は加減がよいのか」
「……はい。されど、畏れながら……」
「そなたもかけよ」
「ありがとう存じます」
杖をついて、朧が下座の椅子に辿り着き、座る。
侍従が飴色の箱を持ち、小卓に置き、蓋を開ける。
「……」
妃の視線が、つよく箱のなかに引き寄せられる。
「いつくしの嶺、雪獅子の巫祝たちから贈られた羊毛の糸を、ここなる染織司の者が織り上げたものだ。印月、藤世、広げて見せよ」
「……は」
呼ばれたふたりが、箱から衣服を取って、それぞれ袖の部分を持つと、王と妃、朧の前で広げた。
それは妃が上着として着るための長衣で、丸首に仕立てられている。遠目で見れば夕空の淡い――茜から紫、藍に変わっていく移ろい――を袖口から前身頃の中心までで示し、近くで見ると、そのなかに星が瞬くようなちいさな点が光っているのがわかる。
自分の出身であるしろたえの島で「
妃は立ち上がって近づき、星のようにも花のようにも見える点をじっくりと眺めた。
「……朧。そなたは、このような織物を与えてくれたことはありませんでしたね」
妃は不思議そうに朧を見る。
「……はい。じつはしろたえの島でも花織を織れる者はごく一部。織刀自・織姫のなかでも特に優れた者にしか、伝えられないのです。島からその布が出て行くこともほとんどありません。わたしは島では染め物ばかりしていましたから、花織を習うことはできませんでした」
「ばかなことを。そなたはあれだけたくさんの織物ができるのに、故郷の島の織り方を習えなかったなんて――……」
朧は目を細めた。
「織物を本腰を入れて身につけたのは、都に来てからです。それまでは医術の習得に躍起になっていました。まあ、四百年もあれば都の技術の大体は覚えられるものですよ」
――四百年もあれば。
藤世はうらやましい、と思った。四百年もあれば、都どころか、大陸中の染織のわざを身につけられるだろう。
「……そう」
妃はなぜか眉を曇らせた。そのまま、衣に視線を戻す。そして、白い指先で生地を撫でる。
「この点の紋様は……どのような意味があるのですか」
藤世は内心でほっと息をつく。自分でも答えられる質問だ。
「四方に放射するような、×印の点は風車――長寿の願いが込められたもの。円とその中心の点は銭貨のかたちですので、富貴を。扇状に広がったものは蓮――……泥のなかから咲くことから、栄達を意味します。どれも島ではよく使われる紋様です」
「わたしには……そなたの島の、浜に寄せる波のしぶきのように思えます」
藤世は、王にしたように、妃にもにこにこと笑いかけた。
「そう思って頂けるのは、とても嬉しいです!」
印月に袖を引かれて、慌てて笑みを引っ込める。
藤世の笑顔に目を惹かれたのか、妃はわずかに口元に笑みを載せた。
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