褪せる珊瑚(三)

 黒い湯の湧く泉は、王宮の北西に広がっている。そのほとり、湯の上に建てられた杭上の小亭に、朧は臥していた。沈渓妃の指示で、彼女はこの都一あたたかい場所にいた。

印月いんげつ

「は」

「いつくしの嶺よりもたらされた糸は……」

「これに」

 寝台の傍らに身をかがめているのは染織司の次官――印月である。

 差し出された布を、上半身を起こした朧が受け取る。

 ふわふわとした肌触りの、よりすぐりの糸だけを使った――それは肩掛けだった。染めはせず、毛本来の薄茶色である。老女は手の甲で表面をなぞり、それから自分の肩にかけてみた。羽根のように軽いのに、それはじんわりと彼女のからだをあた

ためた。

「……あたたかい」

 うつむき、ぽつりとつぶやく。胸に置かれた皺寄った手の甲に、一滴の涙が落ちかかる。

「……朧様……?」

 見たこともない相手の感情の変化に、次官は驚いて声を上げた。

 ひと呼吸ののち、朧は堰を切ったようにはげしく肩を震わせ、泣きはじめた。

「……さや……清……」

 泣き声のあいまに、その名が呼ばれる。

 唖然としてそれを見ている次官の腕を、朧がつかんだ。

「織った者をここへ」



 明け方、藤世は次官とともに舟に乗った。

 臨泉都の核である泉は、想像していたよりもはるかに広く、ほとんど湖と言っても良いおおきさだった。対岸には、藤世を呼び出した老女が暮らす建物があるという。

「……二十五代も前の王の御代から」

 染織司の次官は白み始めた空を見通すように言った。

「朧様は王宮に仕えていたという記録がある」

「……えっ?」

 目を見開く藤世の顔に視線を移し、印月はわずかに笑った。

「王宮の布帛庫には、朧様が織った布が大量に残されている。多くは薬の処方についての書物だが、王族個人のために織ったであろう布も残されている。そなたや、染織匠たちが見れば瞭然としている。それらが、同じ人間の手になるものだと」

「そんな……ことが……」

「わたしも出仕し始めたころは疑っていた。しかし、三十年近く、朧様が変わらぬすがたでいることがわかっているいまでは、その気持ちは消えている」

「何年……朧様は生きておられるのですか」

「……少なくとも、四百年程度は」

「そんなに……」

「見よ」

 不意に、印月がぐるりと視線を動かした。曙光があたりを薄く照らし、泉を湯気のなかに浮かび上がらせ――……

 一面、薄桃色の蓮の花が咲き揃っているのが見える。

 円形の黒色の葉のはざまで、その花びらはそれ自体が発光しているかのように、気高く清潔だった。

「これが……黒蚕こくさんが食む蓮の葉なんですね……」

「花には興味がないか」

 ふふ、と次官が笑う。

「えっ、綺麗だとは思いますが……」

「……よい。左様、これが臨泉都の特産、黒絹を生み出す黒蚕が餌にする葉だ」

「湯も黒い上、葉も黒い。蚕が吐き出す繭も黒い……ふしぎです……」

「黒はもっともうつくしい色だ。そう考えるのは、わたしがこの都に生まれ育ったからかもしれぬが」

「黒蚕の絹以外で、黒い布を作るのはとても難しいです」

「そうだ。藍をいくら濃く染めても、相思樹をいくら重ねて染めても、鮮やかな黒にはならぬ。染料を掛け合わせれば、濁った黒になる」

「黒絹は……尊い色です」

「……しかり。さあ、着いた。無礼のないように」

 次官に続いて室内に入ると、朧は椅子に端然と座っていた。丸く、つよい力を発する目、三角形の、白いものの多く混じった眉。

「朧様……? お加減は」

 印月のことばを無視して、朧は藤世をまっすぐに見つめた。

「しろたえの島の者だな」

 藤世は許されてもいないまま朧の間近に歩み寄り、跪いて拱手した。

「……はい。藤世と申します」

「島の者の織りは、ひと目でわかる。わたしも、あの島で育ったから」

「まあ」

 目をみひらく藤世に、老女は目元をやわらげた。

「染色の材料に惹かれるうちに、それが薬にもなると知って、医術を学びたいと思った。だから、都に出た。遠い昔……――」

 長い年月を経た人間のものとは思えないほど、朧の瞳は透明だった。

「そこで、いつくしの嶺より学びに来た若者に出逢った。彼は羊毛の織り方を教えてくれた。なに、基本は絹や麻や木綿と同じだ。しかし、仕上げの方法が異なった」

 部屋の隅に控えていた、小間使いの少女に目配せをすると、少女は桶を窓から吊るし、泉の湯を汲んで戻ってきた。

 朧は肩にかけていた布を外し、屏風だたみにして湯に浸す。

「湯は人肌よりもすこし熱い程度。この泉の温度はちょうどよい。こうして押し洗いする」

 藤世はそばに寄り、じっと見つめた。朧は押し洗いと振り洗いをくり返し、湯の量を減らす。そのうちに、織り込まれた糸がふわふわと広がっていく。最後に綿布でくるんで脱水し、違う当て布をして熱したこてで整える。

「こうすると、よりやわらかな肌触りの布になる。荒く織ったものが縮み、繊維が広がってゆったりと絡み合う」

「では……肌着にも使えますか」

「そうだな。羊毛は肌に馴染む上に汗を弾く。綿や麻のように、汗を吸ってつめたくなることはない」

 藤世はぱっと顔を明るくした。

「では、これで沈渓妃様の肌着を織ります! 余った糸で、王族の方々の衣も織ります!」

 朧は微笑む。

「……そうだな。運ばれてきた糸には剛いものも含まれていた。それらは外衣とすればよい」

「選定に気を付けて、やってみます! 染めることもできますか?」

「ああ。絹と同じく、植物の染料が良く染まる。煮る際は急激に温度を上げぬよう。さもなければ、繊維がつよく絡まり合い、ごわごわとした布となってしまう」

「なるほど……」

「量は十分にあったはずだ。物慣れるまで、試してみるといい」

「……はい!」

 藤世はからだが浮き上がるような昂揚を覚えた。島では扱ったことのない貴重な素材を、試行錯誤しながら自分で織り上げる機会を得られたのだ。口元に抑えがたく笑みがのぼる。わくわくした。

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