いつくしの嶺(三)
シャー――……
不思議な声が、降る雨のように耳に注がれる。
なんの声――?
暑い。日差しが四詩を打ちのめして、汗がふき出る。丈の高い草が視界を覆っていた。
――詩、四詩……――!!
不思議な声のあいまに、少女の声が、おおきな葉の向こうから聞こえた。
藤世……?
がさがさと草をかき分け、藤世がすがたを見せたと思うまもなく、彼女に抱きつかれた。
四詩! また会えたのね!
彼女のやわらかな感触に、胸が高く鳴った。
彼女は簡便な薄くゆったりした服を着て、自分は重く着膨れしていた。
それに気づいて、
脱いで、暑いでしょう!
藤世に言われるまま、四詩は上着を脱ぎ、それでも足りず、麻の下着一枚になった。藤世がそれを見て、ころころと笑う。
……おかしい?
不安になって四詩が訊ねる。
ううん、脱ぐ前は立派だったのに、いまは子どもみたいだなあ、って思って!
……貧弱なからだつきなのは自覚している。
四詩の頭の先は、藤世の鼻あたりまでしかない。
そんなことないわ! 四詩はすごくうつくしい。
えっ。
ぱっと顔を上げて藤世を見上げると、藤世はじっとこちらを見つめてきた。
髪がきらきらして、とてもきれい。触ってもいい?
四詩はどぎまぎして、思わず顔を伏せるが、なんとか答える。
いいよ。
やった!
藤世は勇んで四詩の髪に手を伸ばす。彼女の汗ばんだ指が、四詩の地肌に触れる。その瞬間、四詩はひどく震えた。藤世は驚いて身を引く。
ご、ごめん、驚かせて――大丈夫、触っていいよ。
顔が赤く染まるのを感じながら、いたたまれず四詩はぎゅっと目を瞑った。
……そう?
藤世は心配そうに言い、ややあってそっとまた四詩に触れた。
……四詩の髪は短いのね。
巫祝は、髪を短くするきまりなんだ。そのほうが、
おかしなきまり!
ふふ、と藤世は息を漏らす。それが四詩のまぶたのあたりにかかり、四詩は胸を衝かれる。どうして、こんなに動揺するのか。
草いきれにまじって、藤世の甘いにおいがする。花のようなにおいに、四詩は陶然とする。
藤世も黙っている。彼女は四詩の髪束を持ち上げ、さらさらと指でくしけずり、そっと表面を撫でる。
藤世、この声は、なんの声?
え?
この、しゃーっていう声。
ああ、蝉よ。蝉という虫。透明な
おそるおそる、四詩は目を開ける。
間近に、藤世の薄茶色の瞳がある。心臓が胸を突き破りそうになるくらい、四詩はどきどきしていた。
見てみたい?
藤世はわずかに首をかしげて、四詩に訊いた。
……うん!
子どものころは、よく矢車と捕って遊んだけれど……
藤世に手を引かれて森のなかを歩くうち、彼女はそうつぶやくので、四詩は思わず足を止めた。
……矢車?
わたしの染彦。
染彦?
藤世の顔が、陰になってよく見えない。
わたしは織姫で……矢車はわたしの染彦なの。
どういう意味?
ええと……将来は……ええと、でも……
四詩は胸がずきずきした。
藤世に一歩近づき、顔を覗き込んだ。
……藤世?
藤世はうなだれて、眉根を寄せている。
幼馴染みみたいなものなの。だけど、これからどうなるかはわからない。
……これから……どうなるか……?
四詩のなかで疑問がぐるぐると渦を巻く。幼い頃から親しい人間が、長じてどういう間柄になるのか――……
七つのとき、里から都の神殿に連れてこられた四詩にはうまく実感が湧かなかったが、下働きの人間から聞く話では、よくあるのは……――
喉から石を吐き出すような心地がしたが、四詩はなんとかことばを紡いだ。
結婚するの。
――えっ。
藤世が震えた。
……結婚するの? ええと、それか、もしかしてもうしているの?
とても暑いのに、寒気がするような思いで四詩は訊いた。
ううん! 違うわ!
勢いよく、藤世は首を横に振る。
藤世はぎゅっと顔を歪め、首を振り続けた。
違うの。……結婚は、……わたしは……
藤世は急にしゃがみこんだ。それにつられて、四詩も身を下ろす。
藤世は両手で顔を覆い、小刻みに震えだした。
……わたしは……結婚したくないの……
語尾は涙混じりになり、四詩はおろおろした。
藤世……どうしたの……? 泣かないで……
矢車が嫌いなわけじゃないの。でも、……矢車の、想いに、応え、られなくて……――
四詩は藤世の背中をさすった。藤世は震え続けていた。
……断わることはできないの?
四詩の問いに、藤世は顔を覆っていた手を外した。
断わる……?
ええと、縁談を申込まれているとか、結婚してほしいと言われているとか、そういうことなんでしょう……?
藤世はきょとんとした。
ううん。はっきり、ことばで言われていることじゃないの……。でも、一族はもう、そうなるものって思っているわ。
なら……
でも、どう言って断わればいいの? 年齢も、身分も、理由にならないし、彼が嫌いだって駄々をこねるわけにもいかないわ……
……
この前の夢のように、――そう、これは夢だ――藤世が四詩に示したようには、四詩は藤世に解決策を示せなかった。
四詩は藤世に、袂から取り出した手巾を手渡した。藤世はそれで乱暴に顔をぬぐい、そのうちにまた悲しくなったのか、ほろほろと涙をこぼし始めた。
藤世……
そう呼びかけることしかできない四詩に、藤世は抱きついて泣き続けた。
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