いつくしの嶺(二)

 からからから――――…………

 踏み板を足で踏むと、木のはずみ車が勢いよく回る。

 神殿の建つ断崖の際。晴れ渡った青空と白い山嶺を臨む、せり出した露台で。風をはらみ、五色ごしきに織り上げられた天幕の下、経文を順繰りに詠唱しながら、巫祝たちが糸を紡いでいる。

 一矢いっしは、四詩より四歳下の、幼さの残る少女であるが、その声は場を貫き、支配していた。


 雪獅子よ――……

 あなたにすべてを捧げよう

 この地の黄金の麦、肥えた兎、乳酒

 舶来の珊瑚、真珠

 不死なる松葉


 額もうなじも剥き出しになるほど、短く刈られた黒い髪。鮮やかな黄色の衣。頭頂部から額に下がる、罌粟けしをかたどった繊細な白銀の飾り。それらが一矢の位階を明白に示している。角笛のように響く彼女の声に打たれて、巫祝たちは訥々と糸を紡ぐ。

 四詩は原毛の塊を左手に持ち、右手から紡ぎ車に差し出すように繊維を繰り出す。染色されていない焦げ茶のヤクの下毛だが、時折雪獅子の白銀の毛が混ぜ込まれている。ふわふわとした繊維だったものが、紡ぎ車のなかで撚りをかけられ、細い糸になっていく。雪獅子の毛は、まとう者に幸運をもたらすを信じられていて、巫祝たちの衣服にのみ許されていた。

 一矢の傍らに石が組まれて台となり、その上に通草あけびで編まれた籠が置かれていた。籠では、白く光沢のある繻子織の布にくるまれて、雪獅子が眠っている。

 病み衰え、いまは十日にいちどほどしか目を覚まさない雪獅子。

 そばに侍り、祈りの紡ぎを行うことしかできない巫祝たち。

 短い夏の季節にあっても、この場には厳しい風が吹き付けている。

 しかし一矢の声は明朗で、力づよい。

 四詩は黙然と糸を紡いだ。



「やり直せ!」

 一矢が居丈高に叫ぶ。

「一矢さま、それは……」

「黙れニ映」

 一の巫祝の瞳は、瑠璃の色と煌々とした輝きを持ち、四詩を見下ろしていた。

 夕暮れどき、巫祝たちが集まるちいさな広間。輪になって足焙あしあぶりに革の靴を乗せ、おのおののがつくった布を持ち寄り、検分していた。

 巫祝たちの輪のまんなか、使い込まれた絨毯に投げ出されたのは、黒いヤクの毛で織り、銀糸で刺繍した天体運行図である。

 天に満ちる星々の動きを表わしたそれは、四方に立てられた灯明台からの弱い灯りを受けて、鈍くきらめいていた。

「わたしが命じたものと異なるものができあがっている」

 四詩は無表情のまま、身を曲げて刺繍布を拾い、畳み直す。

「手本として預かりました、一矢さまのご一族がお持ちであった運行図は、西部の冬の運行図で、今の季節の神殿の実情には沿いませぬ」

 淡々と四詩は指摘した。

「わしは! そなたに渡したものの通りにつくれと言った!」

「民に星の動き、天候の移ろいを説明するための布です。そのことのみが、この布の目的でしょう」

「ふざけるな!」

 ごん、と音を立てて一矢は磁器の足焙りを蹴った。炭と灰がこぼれ、控えていた下僕が慌ててそれを片付ける。

「ふざけてはおりませぬ」

「――四詩よ」

 三叉さんさ――箒のように無作為に伸びた灰色の髪を持つ壮年の巫祝が、しわがれた声を上げた。

「西部の豪族が献上した原毛を用いた布だ。その扱いに関して、重要な変更があれば一矢さまにお伝えするのが筋だ」

 四詩は口元に力を込めた。

「お伝えしようとしましたが、ちかごろ一矢さまはお忙しいとのことで個別にお話しする機会をくださいませんでした」

「わしの責と申すか!」

 顔を赤くして怒鳴る一矢に、巫祝たちは困惑した。

「落ち着かれませ」

 最年長の二映は、立ち上がった一矢の分厚い衣の、錦の袖をそっと引いた。

「うるさい!」

 短髪の少女はそれを振り払う。

「……落ち着かれませ!!」

 太い声が二映の喉から放たれ、場は静まり返った。

 白髪の老人は一矢の前に進み出ると、平伏した。

「ご不安はもっともです。されど、一矢さまが平常心を失えば、この場のだれがいつくしの嶺々をとりなせますか? 雪獅子の声を聴き、そのことばを民に伝えますか? われらの結束なくして、嶺の平穏は取り戻せませぬ」

 一矢の顔は青白くなり、青い瞳はせわしく揺れた。

「そのように申そうと、わしは欺かれぬ。そなたたちは、わしを除いてまつりごとを進める気であろう」

「ありえませぬ」

 三人の巫祝は同時に言った。声が重なったことに驚いて三人は一瞬顔を見合わせたが、やがて三叉が言い添えた。

「一矢さまの、雪獅子の声を聴く力なくして、民を導くことはできませぬ」

 四詩はその後ろに身をかがめて言った。

「声こそが嶺の、否、世の安寧につながるものです。一矢さまは、それをお疑いですか」

「ばかな!」

 一矢はつかつかと四詩に歩み寄ると、四詩の襟首をつかんで揺さぶった。

「そなたは無礼にも程がある!」

「一矢さまは、ほかの巫祝を信じておられないように思えたのです」

「信じよと? この事態を長く打開できぬ愚かな巫祝を?」

「ですが、いままでの神殿を支えてきた人間です」

「いままでがなんだ! いまこのとき、この危機を、どう突き破るかということに、そなたたちは――!」

「ご自分はなにもされぬのですか」

「なにを!」

「そうやって、わたしたちにばかり期待をかけて。おつらいでしょう。なにをすべきかわからぬということは」

「……わしを哀れむのか」

「残念なのです。富貴ふうきのお生まれ、高い教養をお持ちであるのに、この神殿ではわがまま娘のようにおふるまいになる」

「……この……っ」

 一矢は拳を握ると、四詩の肩を殴りつけた。


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