いつくしの嶺(一)
起床を促す銅鑼の音で、四詩は目を覚ました。
闇のなかで、手探りで寝台の扉を開ける。ちいさく開けられた紙張りの窓から、薄い朝の光が差し込んでいる。白い息を吐きながら、毛皮の寝具のなかで手早く着替え、寝台を出る。机に置かれた水差しから洗面器に水を入れ、顔を洗う。刺すようなつめたさの水で、一気に頭が冴えてきて、胸にどっと絶望が押し寄せてきた。
部屋を見渡す。絨毯、簡素な机と椅子、刺繍台、櫃と行李。寝入るときと、寸分の違いもなく片付けられて沈黙している。
いまのはなんだ。わたしの妄念が、あんな夢を見させたのか。
手に蘇るのは、藤世という名の少女のつめたい腕の感触。彼女の腕をつかみ、この部屋に連れてきて、寝台に入った――……
強烈な感情に駆られて、四詩は部屋の隅の櫃に走り寄ると蓋を開け、なかを漁った。白い磁器の壺の、栓を抜く。
窓のそばで目を凝らす。油は、壺の首いっぱいまで満ちている。使った形跡はない。
自分の頬に触れる。がさがさした、いつもの自分の肌だ。つよくこすると痛む。引き結ぶと唇は引き攣れた。
――あなたはすごくすてきになったわ。
脳裏に朗らかな声が響く。
背筋に震えが走る。
下着のように薄い、ゆったりした服を纏った、不思議な甘い語調で話す少女。
経典や巫祝の昔語りの断片を思い出して、四詩は顔を歪めた。
莫迦な。あんなに……――
適切なことばを探そうとして、四詩のこころは混乱した。ふだん使うことのないことばばかりが思い浮かぶ。
可憐な。
天衣無縫の。
衒いのない。
自分や、ほかの巫祝の――質実な、格式張った、ある意味で臆病な性質とは、まったく違う。
夢とは、自分のなかの隠された願望を示すもの。自分にないものが現れた場合は、その願望が、自分以外の者の想念を引き寄せたということだ――……
二の巫祝――一番老いた男性である
そうであるなら、自分の想いが、「彼女」の想いを引き寄せたということになる。
悪霊なのか。
それとも、ただ四詩に呼応しただけの人間なのか。
彼女の素肌の柔らかさ。温かいことば。
どくどくと、四詩の全身で血が脈打った。
この巨大な神殿の、
日々雪獅子の衰えに押しつぶされそうになる、徐々に沈んでいく日輪に縋るような暮らし。
そのなかで、藤世という少女は、ただひとつ確かな体温を持っていた。
四詩は自分の両手をぎゅっと握り込んだ。
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