しろたえの島(四)

 ……四詩しし。四番目の巫祝ふしゅくだから、四詩というの。

 巫祝?

 少女はすこし藤世から身を離し、藤世の目を覗き込んだ。

 四詩は白銀の睫毛を持っている。

 そんなことも知らないの? 雪獅子ゆきししに仕える人間のこと。

 雪獅子って?

 四詩は微笑んだ。えくぼができる。

 ほんとうになにもしらないの? 嘘でしょう?

 嘘じゃないわ。ほんとうに知らないの。

 ほんとうに?

 ほんとうよ。

 藤世が真剣に言う。

 四詩はそれを受け止め、眉をひそめた。

 なら、教える。この山々のあるじ。いま、病んでいる方。

 病んでいる……。

 眠っているか、苦しんであえいでおられるか。ほかの巫祝は、長く生きておられるせいだと言う。老いておられるから。

 どれくらいの歳なの?

 わからないくらい長く生きておられる。

 そんなに!

 みな、どうしたらよいかわからないでいる。雪獅子が病むのは、初めてのことだから……。

 そう……。

 四詩が顔をくしゃりと歪めた。

 ……このままだと、災いが起きると雪獅子がおっしゃった。自分が病み衰えれば、うつし世を凍らせることになると……。

 凍らせる……?

 うまく想像ができず、藤世は首をひねった。

 天華てんげの力を抑えることができず、温かい土地をも凍り付かせることになる……。

 自分のことばにこころを揺さぶられたのか、四詩は目から大粒の雫をこぼした。

 どうすればいいんだろう? どうすることもできないのかな?

 語尾が、嗚咽に紛れる。

 藤世はいたたまれなくなり、四詩の白銀の髪ごと、彼女の頭を抱き寄せた。

 ……ずっと不安だったのね。

 腕のなかで、四詩の頭が上下する。ぎゅっと抱き締め返された。

 ……怖くて……。この世が、破滅してしまうんじゃないかって……。

 熱い雫が、藤世の裸の首筋や、胸を濡らした。

 ほかの巫祝たちは、祈るしかないと言うだけで、なにも方策を探しだそうとしない。わたしだけ、雪獅子の声を聴けないけど、でも、このまま祈るだけじゃ、なにも変えられない気がするんだ。

 なにか手立てはないの?

 わからないけど、昔の記録を探しだせれば……なにかわかるかもしれない。古い記録は、布として残っているけれど、それを丹念に洗い出せば……。

 雪獅子の病についての記録が見つかるかもしれない?

 そう。

 じゃあ、そうするしかない。

 ふたりは顔を見合わせた。四詩は涙を拭き、頷いた。

 そうだね。そうするしかない。

 藤世はにこにこした。

 よかった。あなたが泣き止むと、わたしはとても嬉しい。

 四詩はわずかに身を震わせた。

 ……そう?

 そうよ!

 藤世はごそごそと脱がされた自分の服をたぐりよせ、その袖で四詩の頬を丹念にぬぐった。

 もっとあなたの顔をよく見せて。

 藤世はささやき、毛皮でくるんだ四詩を座らせて、頭上に取り付けられていた灯りを外した。四詩の顔に近づける。

 はにかんで目を伏せた四詩は、やはり小柄で、毛皮から覗く首筋は華奢だった。生臭いにおいの灯り――獣の油を使った、真鍮のランプ――の光が、少女の赤い顔を照らした。弱い灯りのなかでもきらきらと光る、白銀の髪と眉、睫毛。ひび割れた唇。

 なにか……油はない? 肌を手入れするの。痛そう……。

 え? ええと……。

 四詩はすこし考え、いちど寝台を出てから、ちいさな白い磁器の壺を持って戻ってきた。栓を抜くと、甘い香りがほのかに漂う。

 杏の油。支給されたけど、ほとんど使ったことがなくて……。

 もったいない! いいにおいなのに……。

 藤世は灯りを金具に戻すと、四詩から壺を受け取り、てのひらに油の雫を垂らす。伸ばしてから、四詩の頬を撫でる。四詩はくすぐったそうに身じろぎをしてから、やがて目を閉じた。藤世は丁寧に四詩の頬に油を塗り、塗り終わったあとのさらさらとした頬の感触を確かめる。

 傷ついた赤い唇に、視線が吸い寄せられる。

 ……唇に触ってもいい?

 四詩は、ゆっくりと瞼を開けた。

 いいよ。

 藤世は四詩の目をいちど見返してから、ひとさし指に油を乗せ、唇にそっと触れる。

 ん……。

 四詩が声を漏らす。

 ごめん、痛かった?

 ううん。そうじゃない。続けて。

 四詩はまた、無防備に目を閉じる。藤世は油を付けた指で彼女の唇を撫で、傷口の近くをそっとこする。

 ……いっ。

 四詩が、藤世の空いている方の腕をつかむ。

 痛い?

 大丈夫。

 ……そう?

 濡れた唇を震わせる彼女のことばが、正直なものとはあまり思えなかったが、藤世は吸い込まれるような感覚にあらがえず、手を動かし続けた。そのたび、四詩がちいさく震えるのを感じながら。

 塗り終わると、ぎゅっと握っていた腕を、四詩が解放した。

 どちらからともなく、ふたりは息をついた。

 目を合わせて、微笑み合う。ふと、四詩は気まずげに耳を赤く染め、目を逸らした。

 ありがとう……。

 その、思いのこもったことばは、藤世の胸の奥ふかくに沁みこんだ。

 ふだんは言わないが、この場では言いたくなって、彼女はことばを探し、口をひらいた。

 どういたしまして。あなたはすごくすてきになったわ。

 えっ。

 四詩はぱっと顔を上げて藤世を見、ますます顔を赤くしてから顔を両手で覆った。

 ……そんなこと……っ。

 なにも恥ずかしがることなんかないのに。

 藤世は四詩の手をとらえ、彼女の顔からそっとはずした。

 うろたえる四詩に、藤世は微笑みかけた。

 四詩。わたし、あなたが好き。

 少女ははにかんで、それからゆっくりと顔に笑みを広げる。

 白い牡丹の花のような、ふくふくとした笑み。

 ありがとう。わたしも……――

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