いつくしの嶺(四)

 じじ、と音が立って、灯りが揺らめいた。

 四詩は、はっとして顔を上げた。

 布帛庫ふはくこのほこりっぽい空気のなかで、夢中になって布を検分しているうちに、日が沈んでいたことに気づいて息をつく。朝方ここに入ったのに、下働きが差し入れた灯りにも気づかぬまま、夜になっていたのだ。

 不意に藤世の熱いからだや涙の濡れた感触が思い出されて、四詩は肩を震わせた。

 夢のなかで、彼女を箱から救い出してから、四詩はたびたび藤世の夢を見た。この神殿を四詩が案内する夢、あるいは暑い島を彼女と一緒に歩く夢――……藤世は四詩の手を握り、抱き締め、笑い、泣いた。――たわいもないことや、暮らしの悩みを語り合い、生まれたときから一緒に暮らしていたかのように、ふたりは接触した。

 ふだん、四詩に触れるものはほとんどいない。身支度はひとりでするし、巫祝同士の挨拶は簡便な立礼で、からだを触れ合わせることはない。最近あった身体的接触といえば――……一矢に殴られたことぐらいだ。年下の上席者の、単純で直情的なふるまいを、四詩はいとうているというより心配だったが、彼女のつよい瞳の光は、四詩の意識からすぐに消えた。

 布帛庫のなかを見渡す。木の軸に巻き付けられた、色とりどりの布が、乱雑に折り重なっている。これはヤクの毛、これは羊、これは麻、これは絹――……織り込まれていたり縫い付けられていたりする柄に気を配ることに疲れ、材質のみをてのひらに感じて、布をもとの棚に戻していく。

 いつくしの嶺、と呼ばれるこの地に限らず、大陸の、四詩が知る範囲のほとんどの地域が、記録を布に記す。土地土地、あるいは時代によって、どんな模様をどの意味で使うかが異なり、遠い昔の布を読み解くのは、智慧をもつ巫祝たちにとってさえ難しいが、代々の巫祝たちが伝える「紋様引き辞書」が、いくらかの助けにはなる。

 四詩は懐から生成りの無地の麻を取り出し、黒糸で簡単な刺繍を始めた。

 代々の一の巫祝――一矢が死ぬと、それ以外の三人の巫祝たちによってそれぞれの一矢の時代の年代記が残されるしきたりになっている。だから、二歳だったいまの一矢が一矢となる前――十二年前の記録から、公式の歴史書が残っていることになる。「矢継(やつ)ぎの錦」とよばれる豪奢なその錦の内容は、すでに四詩の頭のなかにほとんど入っている。二十近くの錦がいまに伝わるが、それ以前の記録が見つからない。

 およそ四百年ほど前の時代だ。

 よん、ひゃく、と刺繍していて、ふと藤世の湿った息を頬に感じて、知らず首を横に振る。

 彼女のことを思い浮かべると、胸が高鳴る。頬に血が上る。

 これは病の一種なのだ、と四詩は自分に言い聞かせる。

 昔話、布帛に残された説話、下働きたちの世間話。そのなかでありふれて語られる、愚かな人間のかかる病。重篤に寝込むものもいれば、それを意識せずにけろりと治るものもいる。しかし、薬師はなにも処方できず、巫祝に祈祷を願っても断わられるたぐいの病。

 ぎゅっと両手で布を握りしめる。固く目を瞑る。

 目裏まうらで、藤世がしゃがみ込んで泣いている。

 彼女に会いたい。

 夢のなかではなく、現し世のなかで。しっとりした肌の感触も、花のような香りも、耳朶を撫でるような甘い声音も知っているのに、今すぐ彼女に会いたい。

 会ってなにをしたいとわかっているわけではない。ただそばにいて、彼女とともに暮らしたい。一緒に食事をし、同じ寝台で眠れたら、どんなに嬉しいだろう。どんなに自分は満たされるだろう。

 ずっと待っていたの……。さみしかった……。

 そう、藤世は言った。夢のなかで。

 ――そうだ。わたしも、ずっとずっと、さみしかったのだ。

 なぜ気づかなかったのだろう。自分がひとりだということに。里から切り離されて、巫祝として教育を受け、すでに一人前になったという自負はあるが、それは自分という人間のごく一部だけだ。こころの、奥ふかくの、やわらかでいとけない場所では、四詩はずっとずっと、ひとりだったのだ。

 布を放り出す。壁に歩み寄って、背伸びをしてちいさな窓を開ける。

 つめたい風を頬に感じ、目は星々の輝く夜空を映す。

 雪獅子のように、四詩の髪のように白銀の月が、凜として輝いている。

 藤世も、この月を見ているのだろうか。

 ほんとうに、彼女はこの現し世に存在するのだろうか。

 存在したとして、あんなに遠くにいる人間に、この先出逢うことなどできるのだろうか――……

 できないに違いない。

 なぜなら、四詩は巫祝としてこの地を離れることができず、おそらく藤世も島を出ることなど考えないだろう……――

 月が滲んで、四詩はその場にへたりこんだ。頬を涙が濡らしていく。気を向けないように努めていたことが胸を衝いて、その考えだけが横溢している。

 あの少女に――藤世に、出逢うことは、この先一生ないのだ――……

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