しろたえの島(一)

 あの空の色は、この海の色は、なんど染めだせば手に入るのだろう。

 藤世はふと顔を上げて考えた。

 晴れ渡った深い空。沖へ向けて、生成りの色から翡翠に変わっていく海の水。

 そのなかに、福木ふくぎの黄、藍の青、茜の赤、相思樹そうしじゅの茶――とりどりに染め上がった細長い布が、整列して漂っている。

 海晒し。海水により、染め色を定着させる、この島の染織の最後に近い工程だった。

 織姫――島の娘たちのうち、染織を専業とする者がそう呼ばれる――である藤世は、島びとのなかで、海水に布を浸して竹竿に括りつける作業をしながら、からだが風景に溶けて取り込まれるような感覚を抱いた。

 灼けつく日差し、たくし上げた服の裾が海にからめ取られる感触、素足をちいさな魚がすり抜けていく――

 汗といっしょに、爪の先や髪の先から、命の色が沁み出す。

 ふわりとからだが浮き上がる。自分という色が流れ出して、世界のなかに消えていく。……

 それもいいかもしれない、と思った。

「藤世!」

 耳に馴染んだ声が、彼女の名を呼んだ。振り返って、かぶっていた笠をすこし持ち上げて見上げる先に、太陽に焦がされた青銅色の上半身の、背の高い若者が立っていた。

矢車やしゃ……?」

 つぶやいた端から、視界がぐらついた。

 瞬間、腰をしっかりと抱きとめられる。

「根を詰めすぎだ。いちど上がろう」

「なにを言って――」

 と反論しようとして、視界が暗くなった。



 ひんやりとした額の感触で目が覚めた。

 小川のそばの岩陰に、藤世は横たえられていた。

「……気分は?」

 額に載せられた濡れた手巾をおさえながら上半身を起こした藤世に、枡を渡して矢車が訊いた。

 枡の清水をごくごくと飲みほしてから、ぼんやりと藤世は言った。

「大丈夫、頭は痛くないし、気持ち悪くもない……」

「ほんとうか?」

 青年は藤世の顔を覗き込む。

 藤世はこっくりと頷いた。

「……ほんと。ありがとう、わたしの染彦そめひこ

 にこにこと笑いかけると、矢車は一瞬、痛みに耐えるような表情をした。それに藤世が気を取られているうちに、彼は無表情に戻り、ぷいと目を逸らす。

「……矢車?」

 最近よく、藤世の染彦はさきほどのような顔になる。

 目の前に垂れ下がる木蔦の気根をつつきながら、青年はぼそぼそと言った。

「藤世は最近、よくぼんやりしている」

「そう? 次につくりたい布のことばかり、考えるからかな。空の色とか、海の色とか……あんなふうに鮮やかな布が織れたら、どんなにいいだろう」

 身を乗り出して、矢車の片手を取った。彼のてのひらは、藍の青に濃く染まっている。染めの仕事は、男手を多く必要とする。大量の糸や布を、くり返し藍甕に浸け、引き上げ、洗い、干す。黒く染めるときは、相思樹の染液に浸けたあと、染め沼の泥のなかで振り洗いをする。少年が初めてその仕事をすると、一昼夜足腰が立たなくなるということが、よくある。

 女も染めを行い、男も織りを行うが、あくまで「織姫」と「染彦」の呼び名が長く用いられている。

 水仕事の連続で荒れた矢車のてのひらを、藤世は自分の指先でなぞった。彼女の手は、織るとき糸を毛羽立たせることがないよう、常に米酢で柔らかく保たれている。

「きれいな色」

 矢車の手を木漏れ日にかざし、肌と光の境に走る、わずかな赤みを眺める。

 この色は、茜か、紅露こうろか、蘇芳すおうがいいか……

 夢中になって考えていると、

「……藤世」

 矢車が、おおきく息を吐いた。

「なに?」

「……抱き締めてもいいか」

「えっ」彼の手を握ったまま、振り返る。「いいけど、暑くないの?」

 青年は濃い眉のあいだに皺を寄せた。

「暑いと思うが、そういう問題じゃない」

「どういう問題?」

 矢車はますます眉間の皺を深くした。

「……藤世」

 藤世に奪われていた自分の手を動かし、爪のなかまで青く染まった指で、彼女の頬に触れる。頬骨のあたりから、口もとへ。ざらりとした感触が、藤世に伝わる。

「……わからないか?」

 また、彼はあの表情をする。

 矢車の瞳に、木漏れ日がちらちらと落ちる。

 彼はうつくしい青年だった。通った鼻筋、笑うと皺のできる目尻、しっかりした首筋、すみずみまで引き締まったからだ。

 藤世は十八歳で、矢車はその五つ上だった。そろそろ、「織姫」は「染彦」を迎え入れてもよい頃合いとされていた。

 許婚いいなずけ、と呼んでもよい関係だった。幼い頃の当人たちは自分たちをただの幼なじみととらえていたが、それぞれの親族の刀自とじ――決定権を持つ最年長の女性――同士が、島のなかの血と技術の行き来の当然の帰結として、ふたりをめあわせることに同意し合っていた。

 だから、「わたしの」染彦、と藤世は矢車を呼んだのだ。

 彼は藤世をたいせつにするだろう。

 藤世が嫌がることはしないとも思う。

 島のひとびとがずっとくり返してきたように、自分たちの関係も、年月によってすこしずつ変化していくのだ。

 それを、理解はしている。

「……わたしは」藤世は目を伏せた。「矢車に、まだ追いついてない」

「……そんなに、気負うことじゃないと思うが」

「矢車がわたしにくれるものより、ずっとずっとちいさいものしか、わたしは矢車にあげられない」

「おれは、そんなに強欲じゃないぞ」

「でも……」

 矢車は息をつき、藤世の顔に触れていた手で彼女の腕を叩いた。

「さきに浜に戻る。もうすこし休んだほうがいい」

 そう言い残して、彼は立ち去った。

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