しろたえの島、いつくしの嶺

鹿紙 路

ひとかさね

夢路のひと


 ――さや、清。いとしいわたしのつまよ。

 わたしのこころを持って行って。もう、いらないから。

 薬石やくせきをすりつぶすこの手。

 布を染め出すこの腕。

 あなたのもとに駆け寄るためのこの脚。

 もう持って行って。いらないの。

 あなたの胸に額をおしあて、あなたのこころの鼓動を感じられないのなら、わたしのこころにも、わたしのからだにも、なんの価値もない。

 あなたにあげる。

 わたしの持っているもの、みなすべて。

 この布を持って行って。これが、わたしのすべて。

 宮につながれているものは、わたしではない。

 あなたのもとにあるこの布だけが、わたしのすべて。

 お願い。

 清。

 わたしのこころを、持って行って。



   ❄❄❄



 凪いだ海に潜る瞬間のように、それはなめらかにやってくる。

 夢だ、とわかっていても、皮膚を貫くつめたさも、目を差す眩しさも、鮮やかに感じ取れる。

 藤世とよは、この光景を一生忘れないだろうと思う。

 そして、一生忘れない。

 穏やかな起伏の地形を持つ島の暮らしでは目にするべくもない、ひとの背丈の何十倍もそそり立った岩壁、その下の草一本生えぬ焦げ茶色の谷。

 谷底に、一本の木の柱が立ち、そこから縄が放射状に伸びて、地面に杭で留められている。その縄には色とりどりの端布がくくりつけられ、つよい風にあおられて甲高くはためいている。

 柱のたもとに、赤い少女がいる。

 真っ赤な錦の分厚い服。こめかみには赤い珊瑚の玉の連なりが垂れ下がっていて、彼女の顔も赤く塗られている。

 怖い、と思った。

 ――藤世!!

 それなのに、少女は自分の名を呼んだ。

 島のひとびとの甘く伸びた語調ではなく、ぶつぶつと短い音節で、彼女は藤世の名を呼んだ。

 赤い塗料のせいで、表情はよくわからない。しかし、少女の頬にはぽろぽろと涙が落ちかかっている。泣いているのだ。

 ――藤世、帰ってきて!! お願い!!

 藤世の胸が、胸の奥が、ぎゅっと引き絞られるように痛んだ。

 彼女が待っている。

 そのことがたまらなく切なくて、彼女が孤独に苛まれていることが悲しくて、彼女が自分を求めていることが嬉しくて――藤世は思う。


 いま行くわ!! 

 わたしも、あなたに会いたい!!


 そう叫びながら、走り出す。

 きびしく強烈な日差し。どんなに息を吸っても苦しくて、すぐに心臓が暴れ出す。おおきな谷の底を、少女に向かって走る。

 からだじゅうが悲鳴を上げても、藤世は昂揚と喜び以外、なにも感じない。

 目が合う。

 少女が、白い歯を見せて笑う。両手を跳ね上げるようにひろげて、ぴょんぴょんと跳躍する。

 藤世、藤世!! こっち!! 早く来て!!

 それを見て、藤世も笑う。脚を動かす力をつよめて、ついに彼女のもとに着く。飛びつくように抱き合って、声を上げて笑いながら地面に倒れる。ごろごろと折り重なって谷底を転がり、それがおかしくてまたおおきく声を上げて笑う。

 異様な赤い顔でも、彼女は藤世の一番ちかくにいて、笑っている。それと一緒に、藤世も笑う。

 こんなにしあわせなことは、いままでいちどもなかった。

 少女が、

 ――藤世、藤世、わたし、あなたが大好き。

 涙をこぼして、笑み崩れながら言う。

 今なら、藤世にも彼女の表情がわかった。

 藤世のこころがもどかしげに、藤世の口をひらかせて、勢いよくことばを紡いだ。

 わたしも。

 わたしも、あなたが大好き。



 夢だ、と藤世はわかっている。

 それでも、胸にひろがる温かさは、目覚めた彼女に残っている。

 朝の弱い光が差す暗い天井を見上げていても、まだ瞳はあの眩しさを覚えていて、残響のように白い火花が視界に散っている。

 夢のなかでは、あんなに幸福だったのに。

 藤世は、自分の頬を涙が濡らすのを感じる。それは髪や褥に沁み込んで冷えてゆく。

 からだを走るさむけに、藤世ははげしく震えた。

 わたしはひとりだ。

 彼女はいない。

 生身では逢ったこともない少女。彼女が手を伸ばしても触れられる場所にいないことに、藤世はこころを引き裂かれるようなここちがした。

 彼女がいた場所で感じた風、あの痛むほどのきびしい風を求めて、全身の血脈が暴れていた。

 抑えることのできないはげしい衝動が、藤世の全身を震わせ続けた。

 どうして自分はここにいるのか。

 なぜ彼女のそばにいないのか。

 うずくまって嗚咽を漏らし、行き場のない感情の奔流が藤世の拳を地面に打ち付けさせた。

 息苦しさにあえぎ、痛みにうめいて、大声を上げた。

「――藤世?」

 簾を開けて、心配した母親が彼女を支えても、それを振り払った。

「――藤世、藤世!!」

 母の声が数度放たれて、藤世はようやくうつつに戻った。

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