しろたえの島(二)
矢車に触れられることを想像する。年かさの女たち、あるいは同輩の娘たちが囁きあっていたように、夜の閨や、あるいは夕べの森のなか、ふたりきりになって、ことばを封じ合って――……
彼の剥き出しの肌を、なんども見たことがある。それに触れて、熱を感じたことも。けれど、自分以外の女たちが昂揚の混じった声で話す事柄が、藤世には胸をときめかせるものだとはどうしても思えなかった。
矢車はうつくしく、優しく、力づよい。それは、好ましく、頼もしいことだったが、それ以上のことは、なにもないのだ。特別に親しい兄のようなものだと言ってもいい。藤世には兄がいなかったが、いたとすれば矢車のような存在なのかもしれないと思う。
最近、矢車の視線が重く感じられる。藤世のからだにまといつき、なにかを奪い取られるのではないかという、わずかな恐怖を感じる。
矢車に渡されたままの空の枡に目を落とし、藤世はさきほどの矢車のようにおおきく息を吐く。胸にさみしさがこみ上げる。
以前は、こんなことはなかったのに。
いちど、母に相談をした。
矢車の気持ちが変わり、それを、自分はまだ受け入れられないのだと。
焦る必要はない、矢車は待っていてくれる。いずれ、彼を受け入れたいと思う日が来る。
母はそう言ったが、藤世はそんな日が来ることを、うまく思い浮かべられなかった。
ほかに好きなひとがいるの?
柔らかく、母に訊かれた。
藤世は首を横に振るしかなかった。なにかほかに夢中になっていることといえば、布をつくることだったが、それは、母に話しても呆れられるだけなような気がした。
気が重かった。
さきほどまで、空や海や、手を太陽にかざしたときの赤を染め出すことを、夢中になって考えていたのに、今は疲れだけを感じる。
からだの調子がおかしいのかもしれない。
そう思い、浜に戻って、先に村に帰ると伝えようと考え、立ち上がった。
小川沿いに森のなかの道を降り、ずいぶん奥まで、矢車は自分を運んでいったのだと思った。もしかしたら、人目を避けてふたりきりになりたかったのかもしれない。ふたりきりになって、……。
じわ、と目の奥が熱くなった。
ほんとうは、子どもの頃のままでいたかった。織姫として、それが許されないことであっても、ずっと矢車を兄のように慕っていたかったし、彼と屈託なく笑い合いたかった。そういえば、ずいぶん矢車の笑った顔を見ていない。
そう考える必要はないのだと思っていても、自分のせいだという考えが離れなかった。自分さえ、受け入れられれば……
ふと、視界の端に、光の飛沫が見えた。
森を抜けた先の岩場に、なにか光るものがある。
藤世は真昼の陽光に歩み出た。
石灰質の白っぽい岩場のなかを、草履を履いた足でよちよちと歩く。潮のきらめき、取り残された藻が日を反射する、それらの光と、なにが違うと感じたのか、自分でもわからなかった。
それは、それ自体が発光しているように感じられた。海水が打ち寄せる
藤世はしゃがむと、手を伸ばした。
白銀の短剣だった。
日差しに熱せられ、触ることもできないと思ったのに、無意識にその柄を握っていた。短剣は、ひんやりと冷たかった。ずしりと重い。長さは、肘から中指の爪先まで程度しかないのに。普段触れる鉈や包丁と違い、緻密に装飾が施されているせいだった。
刀身はまっすぐで、鋼とも銅とも違う、冷ややかな輝きを持っていた。同じ素材の
これは。
なんなんだろう、と藤世は首をかしげた。島のだれかが落としたものだとは思えなかった。装飾的な短剣を持つような、士族は島にはおらず、島びとはみな農民か漁民か職人で、祭儀に刃物は用いない。
島の外から流れ着いたのだ。不思議なのは、海を漂っていたにも拘わらず、錆びていないことだった。見たことのない素材、日に当たっても熱せられず、それ自体が発光しているかのような――……
恐ろしいものなのかもしれない。なにか、禍々しいまじないをかけられて、遠い国から流されてきたものなのかも――
そう思っても、手のなかの短剣を手放す気にはなれなかった。
……捨てる。
……あるいは、売り飛ばす。
そうしたことが考えられたが、つくづくと眺めるうちに、刀身の光は柔らかなものに感じられた。柄の冷たさも、肌に慣れれば心地よい。
よく見ると、柄頭に不自然なへこみがある。なにかが嵌めこまれていたのに、外された台座のようなもの。
もしかしたら、なにか願いが込められていたとしても、たいせつな一部が欠けてしまったものなのかもしれない。
だとしても、それは十分にうつくしかった。
見ていると、吸い込まれそうになる、白銀の輝き。月に照らされた夜の浜のように、ぼんやりと光っている。
藤世は
だれかにこのことを話すべきだろうか?
そうすれば、さきほどの藤世と同じように考えて、短剣を捨てさせられてしまうかもしれない。
黙っていよう。これは、わたしだけの宝物。
そう思うと、すこしこころが軽くなったように感じた。浜に戻って、仕事を再開しようと、彼女は歩き始めた。
その晩、藤世は初めて赤い少女を夢に見る。
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