第5話 金曜日 ~金曜日はHAPPY~

山田課長は淡々と仕事をこなす。定時出社、定時帰宅。管理職としてはこの上ない待遇である。彼は自分の処遇になんの不満もない。

妻と二人の夕食。妻は庭木の話をぽつりぽつりとする。山田はうんうんとうなずく。特に多弁なわけではないが、話をしないわけでもない。よくある50代後半の夫婦だ。2年前、前立腺がんのため摘出し夫婦の関係はないが、その数年前からそのようなことはなかったし、自分でもそんなものだろうとわりきっている。妻も同じだといいのだが。幸いにも特に不満には見えない。それどころか、味噌や野菜を多く使った料理を増やしてくれたりと気を使ってくれている。妻のためにも定年まで生き続けて遺族年年金が支給されるのが山田のささやかな恩返しと思っている。いたって良好な関係の夫婦である。

食後、自分の多くはないが預金、残ると処分に困るような遺品整理を淡々とこなす。医師は大丈夫と言っているが、本当のところは分からない。わざとそう言っているのかもしれないし、突然の体調変動とてあろう。いきなり体が動かなくなると家族に迷惑がかかる。かれは職場でも家でもひっそり淡々と、典型的昭和の日本人サラリーマン(寡黙系)として生きてきた。以前の職場は中堅の電機メーカー。ガンサバイバーが34万人を越す現在だが、たとえ彼のように職場に静かに豆まめしく働くタイプであっても継続して働き続けることは難しい。もっとも彼は自分の考えを表情に出さないので不満か満足か誰も分からない。

隣の部屋でラーメンをすする音がする。彼の息子である。3日前、トイレに行った時すれちがい、やや青白い顔を見たきりだ。いわゆる、引きこもりなのだ。

引きこもりは甘えだ、厳しくといった精神論は意味をなさない。父親が病気になったからといって、治るわけではないのである。あの子の事は死ぬ前になんとかしなければ。妻にだけ苦労を残すわけにはいかない。

翌日、山田は職場を前半休にして検診に向かった。最近は血液検査を受けて1時間で医師の診察を受けられるようになった。医学の進歩はすごい。

山田が時間つぶしに喫茶店に行くと、見慣れた顔が見えた。声をかけようとした山田は、その手をすぐ下げ、観葉植物の後ろに身を隠した。あれはまさか…。壁際の絵のそばのテーブルに座っているのは妻の比沙子だった。妻が喫茶店にいることぐらいは何の問題もない。問題は、向かいが若い男だということだ。

「じゃあこれで」

なにやら分厚い封筒が妻の手から若い男の手に渡る。30代、働きざかりに入りたてといったところか。まだ歯は入れ歯では、それどころか白髪もほどほど。一体あれは何者だ。

山田は薬をもらい忘れて途中駅で戻ってから家に戻った。

「お帰りなさい、今日は遅かったわねえ。」

妻はいつもと変わらず夕食の準備をしている。しかし、そのいつもの夕食が、自分にとっていかに幸せな時間であったかに山田は気がついた。

「比佐子、今日どうしていた。」

 比沙子は端をとめて山田を見つめる。その視線が痛い。

「珍しいわね、あなたの方から質問なんて。あなたこそどうだったの?」

「あ、検査結果?いつもと変わらないよ。」

「そう?」

いかん、これで会話が終わってしまう。それにしてもいつからだ?こんなに話さなくなったのは…昔からだ。山田は比佐子の若い男と話すときの生き生きとした表情を思い浮かべ暗澹とした気持ちになった。タブレットなんかいじって嫌味な奴だった。

妻の外出日は分かり易い。前日に衣服の準備をして、アイロンをかけておくのだ。もちろん山田のスーツも同じように毎日準備されている。バレバレではないか。その妻が、まさか…。妻が衣服の準備をした翌日、会社には急な検査が入ったと言い訳をして妻を尾行している自分がいた。俺は何をやっているんだ。ばかな、と思いつつ先日の喫茶店に再び入る妻を見て、山田は動揺を隠せなかった。あの若い男と話している。山田は意を決し肩をいからせて出来る限りの威厳を保ちつつ近づいていったー。


「しゅ、出版?」

「比佐子さんのブログでの株予想は大人気なのですよ。なんと言っても説明がいい。素人にも分かりやすい理論を駆使されている。ここ数年は英訳もされているのです。それで、ぜひ出版を。」

「ほめすぎですよ、編集長。それに英語は息子が・・・。」

比佐子は誇らしげに、ほんのり頬を赤らめた。

「お前、確か大学は文学部だったよな。」

「ええ、文学部図書館情報料よ。」

勉強熱心な彼女は最新の図書館情報学のプログラムを学びなおしてブラッシュアップしている。そのプログラムは学際的であり、情報科学や旧来の図書館学の領域のみならず、様々な社会科学や統計学、システム分析などの領域と重複する。そこから株に結びついた。

ここからは息子の入れ知恵で、最新のエコノミストというふれこみでブログをアップ。当初戸惑っていた妻も、閲覧数が増えるにつれ段々乗り気になり、息子は更に翻訳し、今ではいっぱしの有名ブローカーとなった。

「お前達、いつから株式取引をしていたのだよ。」

ダイニングテーブルにて久しぶりに親子3人が会した。

「5年くらいまえかな、リーマンショックがひと段落してから。私って小心者だから、はやっているときには飛びつけないの。」

株式取引としては最上のタイミングではじめたのだ。そして息子は株のため米国の情報を仕入れる作業をし、時差ボケで昼間寝ている。更にブログの翻訳が縁で息子はブログ仲間の友達が出来て、2ヶ月月に1度くらいは皆で会食するらしい

「外に出ると、隣のおばさんにぎょっとされるけどね。」

息子は苦笑交じりに話す。

「いいじゃない、貴方がたのしければ。」

比佐子はゆったりとした口調で話す。

時々コンビニにもいっていたらしい。また、言葉に対する完成が鋭い(がゆえに寡黙)繊細な彼は絵本の翻訳を頼まれるようになり、最近ではファンクラブがネット上にあるそうだ。山田の知らない世界である。

「…何で今までいわなかったのだ!」

山田が喜ぶべきか怒るべきかもう分からなくなり混乱で頭を抱えながら聞く。息子は頭をかきながら、

「いや、別に隠していたわけではなかったのだけれど、タイミングをのがしちゃって。」

「そうなのよね、家族だと、つい。」

比佐子がかばう。段々腹が立ってきた。

「でも翻訳の世界は難しいだろう?今自動翻訳とかいろいろあるらしいし。」

「いや、だからこそ人の手を解した血の通った言葉が大切なのだよ。心配かけてごめん。でもちゃんと生活成り立っているよ。貯金もしている。ひきこもりのときは落ち込んでばかりいたけど、もう昔の話だよ。今は彼女ができて、あ、彼女はタスマニアで研究しているのでちょうどリアルタイムでメッセージ送っているよ。」

か、彼女なんていたのか?じゃあ、俺の心配は。いやそもそも俺の存在意義は…。そんな山田の心中を察したのか、

「ねえあなた、あなたがいてくれるから私好き勝ってできるのよ。病気になったから、自立も考えることが出来たわ。だって、みんな与えられた環境でしあわせでいるようにしないと、ね?」

晴れやかな笑顔で比佐子は言った。そうだ、この笑顔だ。あくのない、澄み切った青空のような笑顔に一目ぼれしたのだ。

「大分貯金も増やしたし、あなたは何も心配せず、療養に専念してもいいのよ。」

「は?」

「辞めても大丈夫よ。でも仕事があったほうが生きがいは」

「あたりまえだ!一家の大黒柱だとおもっていたのに、ひどい。」

「ごめんなさい、言い遅れたのは、心配を駆けたくなくて。」

「おいおいお袋ばかり責めるなよ。親父だって俺のこと引きこもりと決め付けていたのだろ。単に生活時間帯があわなかっただけなのに。そっちの方がひどいぞ。」

「あなたは馬鹿ねえ。大体貴方の場合、前立腺肥大症でみつかったから、がんのステージも上がらず、予後なんて100パーセントなのよ。こういってはなんだけど、病気前は同僚と焼肉食べ歩いたり…いいわ、今更言ってもしょうがないわ。」。

 段々雲行きが怪しくなってきたので山田はもう黙ることにした。しかし今夜は珍しく話したな。

 明日は、行かないとな、会社に。

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