第3話 水曜日 ~水曜の朝は極鬱~


ああ、この季節は曇ると気が滅入る。欝小山は歩道の手すりにもたれつつ、諦めて職場に電話をした。電話に出たのは課長で、その落ち着いた声が彼を安心させる。

「課長、すみません、今朝の出社、ゆっくり行きます。」

「無理しなくていいよ、直接コミュニテイハウスに向かってもいいよ。」

課長は静かに優しく言う。欝の人には当然の対応だが、この課長には誠意が感じられる。病人は馬鹿ではない。というより弱いもの特有の嗅覚をもっているのだ。

コミュニティハウスとは地域の憩いの場”のんびり屋”のことである。「下手なネーミングだ、きっと区長が付けて誰も反対できなかったに違いない。」小山は心でつぶやく。しかしハウス自体は地域のお年寄り、主婦、学生ボランティアに比較的順調に運営されている。民間の力は偉大だ。

 ああ、歩くのもしんどい。徐々に重くなる体を引きずるようにして小山はコミュニテイハウスに着いた。ハウス奥に設置した、近隣住民寄付のこげ茶色の革張りソファに腰を下ろすと、近所のご婦人(年配なのだがおばあさんというには品が良すぎる)七草さんがおいしいコーヒーを入れてくれる。小山の心が慰められるひと時である。

一息つき、なんの気なく周りを見わたすと、囲碁好きの森さんが碁板とにらめっこしている。小山の居るリビングに併設されている台所では元看護婦の多田さんが最近アロマセラピーに凝っているらしく、なにやら草を煮詰めているようだ。雨上がりの芝生のような不可思議な香りがしてくる。小山は久しぶりにゆったりとした心持になった。ここは誰も何も聞かず、そっとしておいてくれる。お年寄りは諦観を心得ている。でも時々携帯の使い方を小山に聞いてきたりと、結構人使いがうまい。小山の労をおしまない丁寧さ、何度聞かれても誠実に教える優しさはお年寄りに人気があり、また家では居場所のない老人にとっては便利な存在なのであろう。そうした彼の美点が逆に以前の職場である不動産販売業にて彼の精神を蝕んでしまったのだ。不景気下のノルマ、誇張いや詐欺ギリギリの宣伝、毎日終電…ああやめよう。気分がまた滅入ってくる。

 腰掛けて30分、外の湿気がおさまりつつある。「お天気屋」という言葉は欝の症状を示しているなあと小山は思う。天気が良くなると本当に気分が落ち着くのだ。元来真面目な彼は、調子が良くなるとすぐに(動作自体はのろのろと立ち上がってはいるが)センターの収支のチェックの為パソコン画面に向かった。これは区の使わなくなった品を転用している。区の直属雇用形態としては最後の車両部正社員の出退勤入力のために使っていたが、昨年度の退職で、車両担当運転手は全員タクシー会社からの派遣となった。そして派遣元会社で出退勤を管理するようになったのでパソコン入力は不要になり、ここに転用されるに至ったのだ。「それにしても出退勤だけでパソコン1台とは…。」小山は心でつぶやく。公務員のお金の使い方はよくわからない。彼が入力していると、七草さんがもじもじと近づいてきた。

「あ、七草さん、伝票入力でしたらいつでも代わりに打ちますよ。」

小山が手を差し出すと、七草さんはホッとした顔で伝票を手渡した。上に手書きの収支表がある。表彰状に使えそうなくらい美しい文字である。「この方はこんなところで何をしているのだろう。もっと他に居るべき場所があるのではないだろうか。」と小山は思う。

 雲行きが再び怪しくなってきた。常連客?ばかりになってしまったカフェ。小山は体調の悪化を懸念しつつ入力を始めた。単調な作業で、だからといって手を抜けないのが小山の悲しい性である。しかし、今日はいつもと違う。キーボードを打つ手が段々と遅くなる。「ちょっとまてよ、まだ昼休みには早いだろう、しっかりしろよ。」と自分で自制しつつもまぶたがまどろんできた。いかに雨が降ってきたとはいえ、これはおかしい。「あれ、おかしいな、薬の量間違えたかな…。」いつの間にか小山は深い眠りに落ちていった。

「うまくいったようね。」

小山の様子を確認すると、七草さんは低めのテーブルにて隠し持っていた書道用具のセッティングをし、結婚式の招待状を書き始める。ITのこのご時勢ではあるものの、いや、だからこそ、手書きの賞状や暑中見舞いが価値を持つのだ。しかしこのような内職を家でやると孫には小遣いをせびられ、逆に子供からはお金をもらえなくなる。

森さんもバックから超薄手のパソコンをおもむろに取り出し、自身の匿名ブログに囲碁の手筋をアップする。奥にいた他の常連客も小遣い稼ぎに株取引画面をチェックしだした。 

「ハーブと薬の相性はどうだったかしら?」

一区切り着くと、七草さんは急に心配になり、多田さんに聞く。

「大丈夫。SSIDとも向精神薬(両方欝の一般的な薬)でも問題ないわ。」

多田さんの冷静な説明は周囲に安心感を与える。多田さんと七草さんは仲が良く、去年の町内旅行の草津温泉1泊2日の際は、家族には自分たちだけ延長して3日にしたと言って実はシンガポールにいったのだ。それも“マリーナベイサンブーズ”!そう、あの屋上にプールが設置されている最高級ホテルである。森さんにネットで最安値を調べてもらい,人生初の海外旅行に出かけたのだ。

夢のような時間とはあのときのこと。二人ともしばらく家族の前で思い出し笑いをこらえるのに大変だった。うっかりすると認知症とまちがわれてしまう。うっとり七草さんとは多田さんは思い出に浸る。七草さんなどアメリカ在住IT企業家にプロポーズされたのだ。“日本女性”のブランド威力はすさまじい。

「あの時結婚すればよかったのに。もったいない。」

多田はコーヒースプーンをカチャカチャとまわす。

「でもねえ、いまさら新しく生活をつくるというのも…。それにあの方私の年20歳勘違いしていて真実を告げるのが怖くて。」

「愛があれば大丈夫よ。新しい人生というのも悪くないと思うけど。」

多田はガチャンとカップを置く。幼馴染の多田は知っている。七草さんのだんな様がどれだけ素晴らしい人だったか。だが、どんなに良い人だったとしても、生きている人が大切なのだ。多田は病院で死んでいった患者をいやというほど看ているからこそ、そのように考えてしまうのかもしれない。七草さんはその様子をみて、ふふと笑う。二人ともお互いの胸の内がわかっているのだ。この二人こそまるで夫婦だ。しかたなく、

「七草さんって本当に理想の日本女性ねえ。わたしなら即断するわ。」

多田は周りの雰囲気を壊さないためそのように言い、お茶を濁す。周囲の男性達はほっとしている。実はほとんど七草さん目当てなのだ。

「時々FBで遊びに来ないかっていわれるけど…。あの方、日本にも遊びに来たのでしょう?あちらが日本に住めば考えてもいいけど?」

七草はいたずらっぽく笑う。女学生時代から変わらない笑顔。本当は彼女に去られて一番困るのはわたしかもしれない。多田は苦笑いする。

3日も草津温泉と言っても家族は誰も疑わない。ネットで草津温泉のお土産を成田受取りで注文するアリバイ作りもいらなかったかもしれない。家族にとっておばあちゃんの旅行なんてそんなものだ。

ここに集うお年寄りたちはもう十分働き、子育てもやり尽くしたと考える人達なのだ。だからこそ自分の残り時間もお金も自由に使いたい。勿論子供や孫は可愛いが、誰だって本当は自分が一番可愛いのだ。

「いつもはもう少し遅く来られるから、安心していたのだけど…。締め切りもあるし。」

七草さんは済まなそうに小山を見つめる。

「そんなに自分を責めることないわ、七草さん。小山さんは真面目すぎるのよ。少しぐらい休んだほうがいいわ。それよりあと30分くらいよ。急ぎましょう。」

多田は働いていた女性らしい割り切りで対応する。

30分が経過した。小山はようやく眠りから覚めた。「しまった、寝てしまった」小山は慌てて周囲を見渡す。お年寄り達は共犯意識で誰も気づかないフリをする。「ああお年寄りっていいなあ、俺も早く年寄りになりたい。」小山再び伝票入力する。「小山さんはまだまだ青いわ。」多田が目で語る。「年を重ねるのは大変な事なのだよ。」森は首を回しながら応答する。「まあまあ、小山さんもあと数十年すれば気がつくのかもしれないわ。」七草さんが遠い目で微笑みながら答える。

小山が入力を終えた頃、雨はあがり、徐々に夏の青空が広がっていた。

「さて、出社するか。」

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